2026年2月16日月曜日

『山姥(上・下)』(坂東眞砂子著・新潮文庫)(5)

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 またまた間があいてしまった。理由は2つある。1つは東北南部の雪山遠征に行っていたこと(これについては後ほど)。

 もう1つはブログのデータ移行作業とやらを行っていたため。このブログは故落合弁護士がはじめ、それをずっとそのまま継承してきた。従来のままだと不都合があるためデータ移行が必要だったらしい。データ移行にはたいへんな作業を要したようだ。感謝、感謝。

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 さて板東版『山姥』のつづき。

 謡曲『山姥』の舞台は、「越中・越後の国境にある境川に至り、そこから上路山を徒歩で越えようとしますが・・・」とあるとおり、越中・越後の国境にある境川上流にある上路山ふきんである。上路には集落があり、山姥神社もある。

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 越中・越後の国境、境川。そこが人界と魔界の境でもある。そこから先は山姥が出現してもおかしくない異界をなしているということである。

 越中から越後へ、境川の遡らないで、海沿いに行くと市振(いちぶり)がある。市振の先は昨年11月に訪ねた親不知である。『おくのほそ道』を引用しよう。芭蕉は越後から越中へむかっている。

 今日は親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどという北国一の難所を越えて疲れはべれば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面のかたに、若き女の声、ふたりばかりと聞こゆ、年老いたる男の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし・・・。

 芭蕉に同道した曽良の旅日記によれば、市振の宿でこのようなことはなかったようである。つまり、この部分は芭蕉の創作である。

 芭蕉も坂東眞砂子も意識していなかったかもしれないが、越後の山中、遊女、山姥が共鳴しあっている。国はずれ、国ざかいは人の支配が行き届かず、遊女や山姥といったマージナルな存在が行きかう世界だったわけである。

 新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』。東京四谷の男子高校生と飛騨の山深い糸守町の女子高校生が入れ替わることから物語がスタートする。2人が生きている世界には3年のタイムラグがあるため直接会話ができない。

 しかし終盤のたそがれ(誰ぞ彼、糸守の方言でカタワレ)時、ご神体の外側をめぐる外輪山で、2人は互いの姿が見え、入れ替わりが元に戻り、はじめて2人は時を超えて会話をすることができる。とても印象深いシーン。超常現象・奇跡はマージナルな時間、マージナルな場所で起きるのである。

 板東版『山姥』のワキ主人公である凉之助。東京から招かれ、不毛の肉体を持て余す美貌の役者である。凉之助はふたなり。ふたなりとは、一つのものが二つの形状をもつことをいい、特に一人で男性と女性の性器を兼ねそなえた、いわゆる両性具有をさす。

 その凉之助と、雪に閉ざされた村の暮らしに倦いている地主の嫁・てる。二人の密通が序曲となり、悲劇の幕が開いたー。

 謡曲の山姥は、妄執を逃れられない苦しさを訴える一方で「善悪不二」「邪正一如」「煩悩即菩提」といった禅の思想(先のあらすじによれば、仏法の深淵な哲理)を説いた。この主題も坂東眞砂子の『山姥』は取り込んでいる。 

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