謡曲の山姥は、妄執を逃れられない苦しさを訴える一方で「善悪不二」「邪正一如」「煩悩即菩提」といった禅の思想(先のあらすじによれば、仏法の深淵な哲理)を説いた。この主題も坂東眞砂子の『山姥』は取り込んでいる・・・と書き、東北南部の雪山遠征にでかけた。
旅先で『わたしの唐詩選』(中野孝次著・文春文庫)を読んでいたら、次の一文にぶつかった。唐代の詩人である柳宗元の詩について触れたもの。
「彼は一瞬の中に永遠を感じ、小景の中に宇宙を観る、そういう禅的な感性の人だったように見えるのだ。」
「善悪不二」「邪正一如」「煩悩即菩提」といわれるとピンとこなかったが、これなら分かるような気がする。禅とはある種、弁証法ではないだろうか。
弁証法とは、対立する二つの命題を、矛盾を抱えたままより高い次元で統合・解決し、真理に近づく思考法。古代ギリシアの問答法に起源を持ち、ヘーゲルが大成したもので、ビジネスにおけるジレンマ解決や矛盾を抱える問題の深化・発展プロセスとして活用されている(AIくんの解説)。
「一瞬の中に永遠を感じ、小景の中に宇宙を観る」といわれて思い浮かべるのは、ウイリアム・ブレイクの『無垢の予兆』である。
一粒の砂に世界を見、
一輪の野の花に天を見る。
汝の掌に無限を捉え、
一時の中に永遠を見よ。
ブレイクは意外と仏教思想・禅の影響をうけていたのかもしれない。
このような思想は禅の独創ともいえないのかもしれない。というのも井上靖『天平の甍』の訳注のなかに、次のような注があるから。
「華厳」とは、釈迦成道後はじめての説法を録した華厳経を所依として建てた宗派のこと。世界を太陽の顕現であるとして、かすかな塵の中に全世界を映し、また一瞬の中にも永遠を含むという一即一切、一切一即の世界観が根本教理である。
『すばらしい新世界』の著者オルダス・ハクスリー。かれはエッセイ集『知覚の扉』のエピグラフにブレイクの言葉を引用している。「知覚の扉が清められたなら、物事はありのままに、無限に見える」(『天国と地獄の結婚』から)と。
小川洋子の小説『博士の愛した数式』。第1回本屋大賞受賞。美しい数式の世界を中心に、記憶が80分しか続かない数学者と母子の交流を描く。映画化され、その最後にも、ブレイクの詩は引用されていた。
高浜虚子も『俳句の作りよう』のなかで、こう述べている。
近来俳句についての拘束を打破してかかることを主張するものでありますが・・・私は十七字、季題という拘束を喜んで俳句の天地におるものであります。・・・狭いはずの十七字の天地が案外狭くなくなって、仏者が芥子粒の中に三千大千世界を見出すようになるのであります。
『山姥』も中野孝次も柳宗元も禅宗も弁証法も井上靖も華厳経もハクスリーも小川洋子も高浜虚子も知らなくてもかまわない。これは知っているだろう。中島みゆきの『地上の星』。
♪風のなかのすばる 砂のなかの銀河・・・
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