2012年12月3日月曜日
追悼・池永満先生(2)
薬害肝炎をやっている若手は
K賀K重弁護士から話しかけられるのを恐れている。
しんどいけれど誰かがやらなければならない
そういう課題をふってくるからだ。
しかしその恐怖は,池永先生から
話しかけられるのに比べるとまだまだだ。
95年のこと,裁判所の坂をのぼっていると
背後に気配を感じた。
ふりかえると
池永先生であった。
すると,唐突に
こういわれた。
月30万円の保障で
どうかな?
これは
そうとうやばい話である。
いつものAかBかという
選択肢が示されていない。
いきなり
条件の話である。
しかも
月30万円の保障?
なんの話でしょう?
(あっ,また術中にはまっている)
薬害エイズ福岡訴訟の
事務局長を引き受けてくれないか。
これが池永先生の
依頼であった。
医療被害の救済という場合
当然,薬害被害の救済もそれに含まれる。
当時,やっていた南九州税理士会訴訟や
水俣病訴訟などはいずれも未解決の時期だった。
それらを理由にお断りをしたが
ムダな抵抗であった。
薬害エイズ事件というのは
他に例をみないほんとうに悲惨な事件だった。
訴状の原告目録をつくるだけで
涙がとまらなかった。
原告の半分が鬼籍に入っており
ほとんどが10代で亡くなっていた。
それまでこの事件に関与していなかったことに
罪悪感をおぼえたほどだ。
薬害エイズは,東京・大阪訴訟が先行し
解決局面を迎えていた。
池永先生のお考えは,福岡でも提訴し,解決水準の
さらなる上積みを目指すというものだった。
しかしその後,方針をめぐって大激論となり
必ずしもこのような方針どおりにはいかなかった。
しかしこれにより,わが弁護士人生の
後半の活動分野がおおきく変えられた。
それまでどちらかというと
公害・環境型の事件がおおかった。
それが以後,大規模医療被害事件に
つぎつぎと取り組むことになった。
薬害エイズ訴訟の延長上には
ハンセン病訴訟,薬害肝炎訴訟が待っていたから。
こうして私も他の人々の例にもれず
池永先生の奔流につぎつぎとほんろうされた。
それは極めてたいへんではあったが
豊かな意味のあるほんろうでもあった。
このことは,おなじ立場におかれた
すべての人が認めているところである。
池永先生
ありがとうございました。
2012年12月2日日曜日
追悼・池永満先生
12月1日
池永満弁護士が亡くなられた(享年66歳)。
昨日通夜がおこなわれ
今日葬儀がおこなわれる。
故人の生涯を一言でいえば
「奔流」というこであったろう。
いくつもの
大きな流れをつくりだされた。
われわれはそれらの流れに
巻き込まれ,ときに翻弄された。
そもそも私が弁護士になったきっかけも
かれの後進養成ゼミに負う。
このきっかけがなければ,いまごろ
どこかでサラリーマンをしていたかもしれない。
このブログを
書くこともなかったわけだ。
そのゼミの世話になった者は
3桁におよぶであろう。
池永先生は数多くの課題を見つけだし
取り組まれた。
まるで課題を量産されている
かのようであった。
次々と課題をみつけては,問題提起し
若手に投げ与えるというふうであった。
しんどいけれども誰かがやらねばならない
そんな課題がおおかった。
通夜で盟友の辻本育子弁護士もいわれたが
課題AとBの選択を迫られることがおおかった。
池永弁護士のライフワークの柱は
なんといっても医療の民主化であった。
医療被害救済,患者の権利の確立
医療オンブズマン等次々と取り組まれた。
わたくしの腕もすこしは評価されていたのあろう
難事件の救助をもちこまれることが時々あった。
ある日,池永先生が近づいてきて
こう尋ねられた。
「久留米の事件と北九州の事件
どっちする?」
これは質問の構造からして
誤導である。
この質問をするには
必ずどちらかをしなければならない
という前提が論証されていなければならない
はずだから。
法廷であれば,すかさず
異議!というところだ。
しかし,そこは先輩・後輩の立場ゆえ
そうはいえない。
それぞれどんな事件なんですか?
と,訊いてしまった。(もう相手の術中にはまっている)
久留米の医療被害者は
腹立ちのあまり医者を足蹴にするらしい。
北九州の医療被害者は
弁護士との打合せのあと,病院前でビラを撒くらしい。
いわく。
○○弁護士は必ず勝つと断言した。云々とか。
…。
甲乙つけがたい難事件に絶句した。
数秒,あたまをフル回転させたが
逃げ場はなかった。
久留米の事件を選択した。
近い,という以外に理由はなっかったけれど。
(つづく)
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