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2024年3月13日水曜日

立花宗茂と高橋紹運

 
岩屋城跡から太宰府市街をのぞむ

 御花は柳川立花家の別邸。松濤館ロビーには立花宗茂の甲冑が飾られていた。

立花宗茂は太宰府とかかわりがある。四王寺山には岩屋城跡がある。観世音寺の裏からひと登り。

岩屋城跡は、戦国末(1584年)における島津と大友の戦い。大友の背後には全国制覇をめざす豊臣秀吉がいた。

島津義久は九州制覇をめざし、2万~5万(諸説あり)の大軍を擁して北上した。対する大友がたの武将は高橋紹運。わずか763人の手勢で岩屋城に籠城した。

高橋勢は勇猛果敢に防戦し、最終的には玉砕したものの、島津勢はここで足止めをくらった。豊臣勢20万が九州に来訪し、涙を飲んで薩摩に引き返すことになった。

岩屋城跡からすこし下ると紹運の墓がある。高橋紹運の長子が柳川藩の初代当主である立花宗茂である。

岩屋城の戦いの時、立花宗茂は立花山城を守っていた。岩屋城跡からしばらく登ると、四王寺山の稜線につく。稜線を反時計まわりに歩くと遠見台につく。

遠見台からは東方向・香椎方面への展望が開ける。香椎市街の背後には立花山がひかえている。立花山城があったところだ。

大友、島津、豊臣、徳川と世の勢力図は変転した。しかし高橋・立花家は、主家を見誤ることなく幕末まで存続した。武にすぐれていただけでなく、情勢を見極める眼力も兼ねそなえていたのだろう。

2023年11月26日日曜日

あはれ今年の秋も去ぬめり

 



 四王寺山を散策した。ことしの紅葉もこれで最後だろう。

夏、酷暑がつづいたため、どこも色づきはよくない。紅葉は昼夜の寒暖差によって緑から赤あるいは黄に変わる。

ことしは紅葉するまえに霜がおりたりして、赤あるいは黄に変わらないまま茶色になり落葉してしまっている。残念。それでも写真のとおり、紅葉を楽しむことができた。

夕方のニュースでは竈門神社の紅葉を推奨していた。たしかに。だがしかし天満宮前の渋滞等を考慮して四王寺山へむかうことにした。

宇美町側(北側)から四王寺山に入ってくると、すぐ百間石垣がある。車でも行くことができる。わずかながらも駐車スペースがあり、いつも数台の車が駐車している。

その手前を左折すると、鮎返りの滝がある。三十三所めぐりの20番札所となっている。滝の上部から小石垣手前の川べりまで紅葉が美しい。数組の女性グループが一生懸命、写真を撮っていた。

つぎにお奨めなのは高橋紹運の墓のあるあたり。太宰府側(南側)から四王寺山へ入っていく。くねくねと坂をあがると、右手に岩屋城跡の標識がある。

戦国末期、九州制覇をめざす島津軍4万人が北上してきた。これに対するは大友宗麟の配下である高橋紹運とその部下700人。高橋紹運らは岩屋城にたてこもり玉砕した。

いつもなら岩屋城跡に登り、そこからの筑紫平野のながめが気持ちよい。しかしきょうはそちらにむかわず、左手を100メートルほど降りる。

そこに高橋紹運の墓がある。高橋紹運の子は柳川藩主である立花宗茂である。立花家は柳川城主として江戸期を全うした。そうしたこともあり、墓はいまもきれいに整備・清掃されている。

その手前にモミジの巨木が数本あり、みごとな紅葉をみせてくれる。ことしは赤ではなく黄色のままだ。

来年はどうだろう。地球温暖化の勢いはとどまるところをしらない。紅葉の見事さは年々失われることになるだろう。残念ながら。

2021年6月22日火曜日

忠義を貫いて名を残した、高橋紹運

(四王寺山、右肩あたりが岩屋城跡)
 (岩屋城跡)
(高橋紹運墓所)

 きょうはもうひとりの武将、高橋紹運の話。武藤資頼・資能父子の墓は四王寺山の麓にあります。そこからすこし北に行くと登山口があり、ひと登りで、高橋紹運の墓につきます。そこからまた5分ほど登ると岩屋城跡があります。

ときは戦国末期の天正14年(1586年)。九州はながらく大友、島津、龍造寺による三つ巴の戦いが繰り広げられていました。しかし、そのころには貿易や鉄砲の影響でしょうか、島津が九州を統一する勢いにありました。

島津にとって不幸なことに、その時期は豊臣秀吉が日本全体を平定しようとしていた時期でした。統一権力の特徴の一つは私闘を許さないということです。忠臣蔵で仇討ちが禁止され、われわれが自力救済を禁止されているのはその現れです。

秀吉は九州の大友宗麟と島津義久に私闘(地域紛争)をやめるよう命令しました。しかし、島津はこれに従わず、6月、総勢2万といわれる軍勢で筑前への侵攻を開始しました。

大友かたでこれを阻止しようとした武将が高橋紹運です。紹運は四王寺山の東南にある岩屋城に陣取りました。島津の2万に対し、紹運のほうは763人、26倍以上の兵力差です。

7月13日戦闘開始、紹運らは頑強に抵抗し、岩屋城が落ちたのは同月27日、半月かかりました。島津かたは城を落とすには落としたけれども甚大な被害を出して撤退を余儀なくされたといいます。以上が岩屋城の戦いです。

島津の陣は天拝山にあり、四王寺山の反対側にある宇美八幡宮周辺も焼き払われたといいます。うちの事務所ではいま鹿児島県人と宇美町民が仲良くしていますが、400年前だったらそうはいかなかったことでしょう。

紹運かたは投降することなく全員玉砕です。紹運はよほど人望があったのでしょう。しかも紹運はもともと高橋の家のものではなく、あとから社長になった雇われ社長のようなものでした。よくぞ部下たちは紹運の命令にしたがったものだと思います。

紹運の子は、立花宗茂。このとき香椎の背後にある立花山城を守っていました。のち、柳川藩を開いています。妻は女武将の誾千代。いま人気で、NHK大河ドラマにしょうという運動があります。詳しくは、御花で(うなぎでも食べながら)。

紹運の辞世。

 屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき

武藤資頼とちがい、紹運は忠義をつらぬいて雲居の空(あるいは、柳の川)に名をとどめたのでした。歌を詠んだ場所が歌枕であれば、岩屋城跡も歌枕でしょう。

岩屋城は四王寺山の一角、岩屋山にあります。四王寺山は、ふるくは大野山と呼ばれ、最高点は大城山です。大野山、大城山は万葉時代からの歌枕です。

 大野山霧立ち渡るわが嘆く 息嘯の風に霧立ちわたる 山上憶良

 今もかも大城の山にほととぎす 嘆きとよむらむ我なけれども 大伴坂上郎女

どうもむかしは嘆きを喚起する歌枕だったようです。大宰府(に左遷されていること)そのものがそうだったのかもしれませんね。

四王寺山ではいまも、ほととぎすが鳴き渡っています。もちろん大伴坂上郎女はいませんが。いいですよ。