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2023年10月19日木曜日

太宰府路散策(3)戒壇院、観世音寺

 

 学業院跡から、さらに東へ向かう。戒壇院、観世音寺がみえている。その向こうに宝満山。
 https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5149402,130.5201245,18.5z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu

戒壇院と観世音寺の間の路を右折。戒壇院へ向かうのだが、その前・右手に玄坊の墓がある。玄坊は遣唐使とともに学問僧として入唐。玄宗皇帝に才能を認められた。

帰国後、聖武天皇の信頼もあつく、橘諸兄政権の中枢として吉備真備とともに出世。しかし橘諸兄が権勢をうしない、筑紫の観世音寺に左遷、この地で没した。人格的な批判もおおく、怪異な伝承が多い。かつて政権中枢を担ったわりには小さな墓である。

墓のまえをさらに進むと、右手に戒壇院の裏口がある。東大寺戒壇院などとともに、天下三戒壇の一つ。奈良時代、授戒制度を確立するため、唐から鑑真を招聘した。井上靖の小説『天平の甍』に詳しい。

東大寺の戒壇院は四天王像がすばらしいが、残念ながら筑紫戒壇院にはそのような四天王像は残されていないようである。裏口すぐには菩提樹が植えられている。この日は座禅がおこなわれていたようで、静かにと注意書きがあった。

戒壇院の裏口を出ると、正面すぐが観世音寺の側面入口である。大学生のゼミとおぼしき若い人たちが参拝していた。

観世音寺は、天智天皇が創建した。唐・新羅連合群とたたかう百済を救援するため日本も朝鮮半島に派兵したが、白村江の戦いで敗れた。そのため防衛のために築かれたのが大野城や水城である。

古代のことであるから、いまのように通信手段が整っていない。日本政府は大和の地から采配を振るっていたのでは勝てる戦も勝てない。そのため、前線にちかい九州の地まで出張ってきていた。

その地で斉明天皇が亡くなった。その追善供養のため、皇太子であった中大兄皇子が創建したという。

古くは大きな寺だったらしく、『源氏物語』にもでてくる(あまりよい文脈ではない)が、戦火などでいくたびか焼亡し、いまはそれほどの偉容はない。

寺に向かって右手には日本最古の梵鐘がある(いや、あった。いまは博物館に保存されている。)。国宝である。あれ?日本最古の鐘は妙心寺ではなかったっけ?そのとおり、兄弟鐘である。

糟屋郡多々良町(現、東区)で製造されたという。多々良はたたら製鉄のたたらである。もののけ姫にでてきた「たたら場」と同じ語源である。「たたらを踏む」などというが、たたら製鉄の際の動作から来ている。

多々良町を多々良川が流れている。中央での戦いに敗れた足利尊氏は九州に流れてきて、捲土重来を期していた。かれは多々良川の戦いに勝利し、ふたたび中央に攻め上り、後醍醐天皇側から政権を奪取することに成功することになる。

梵鐘の奥は宝蔵である。観世音寺というだけあって、巨大な十一面観音、馬頭観音、不空羂索観音が偉容を誇っている。大きさは東大寺の不空羂索観音とおなじくらいだと思う。

https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=239

このあたり紅葉するとナンキンハゼが美しい。いまの時期はコスモスが青空に映え、親子連れが記念撮影をしていた。

2023年9月10日日曜日

足利尊氏と九州(1)宗堅大宮司将軍を入れ奉る事

 

 『極楽征夷大将軍』で書いたけれども、足利尊氏と九州との関係について『太平記』の記述を紹介したい(岩波文庫から)。

第十五巻。「宗堅大宮司将軍を入れ奉る事」

 さても将軍は、京都数ヶ度の合戦に打ち負けて、2月13日、兵庫を落ち給ひし・・筑前国多々良浜と云ふ湊に付かせ給ひける時は、その勢わずかに500人にも足らざりけり。

※多々良浜は、東区にある。JRだと筥崎駅の次は千早駅だけれども、その途中、多々良川を渡る。いまはアイランドシティで埋め立てられてしまったけれども、むかしはその河口付近が多々良浜だったのだろう。

多々良はたたら製鉄のたたら。もののけ姫に出てきた、あのたたらである。むかしは砂鉄がとれて製鉄が行われていたのだろう。

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82%E6%9D%B1%E5%8C%BA/@33.6325244,130.4116117,13.58z/data=!4m6!3m5!1s0x35418e8029d1fd27:0x9f5eea1b2e1490b0!8m2!3d33.6358122!4d130.4210684!16zL20vMDd0N196?entry=ttu

 京都より始めて、処々の合戦に矢種は射尽くしぬ、馬、物具は、ことごとく兵庫を落ちし時乗り捨てぬ。・・

 宗堅大宮司がもとより、使者を進せて、「御座の辺りは余りに分内狭くて、軍勢の宿なんども候はねば、恐れながらこの弊屋へ御入り候ひて、暫くこの間の御窮屈を休めさせ給ひ、国々へ御教書をなされて、御勢を召されるべうや候ふらん」と申したりければ、将軍、やがて宗堅が館に渡り給ふ。

※宗堅大宮司は氏俊。中世、宗像氏は武将だった。後世、宗像大社が世界遺産になるとは夢にも思わなかったことだろう。

 翌日、少弐入道妙恵がもとへ使ひを立てられて、憑むべき由を仰せられたりければ、妙恵、「子細に及び候はず。妙恵が命の候はん限りは、御方に於て粉骨の忠を致すべき候ふなり」と申して、即ち嫡子少弐太郎頼尚に、若武者300騎差し添へて、将軍の方へぞ進せける。

※少弐氏はいまの武藤氏。宝満山の先、仏頂山の手前を左に折れると、うさぎ道。その道を竈門神社へ向けてくだると里ちかくに有智(うち)山城跡がある。少弐氏の居城である。兵どもが夢の跡、いまはスギかヒノキ林になっている。