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2024年3月11日月曜日

曲水の宴に留学生を招く会

 



 3月の第1日曜日には、太宰府天満宮で曲水の宴が催行される。われわれ太宰府ロータリークラブはこれに留学生を招く会を毎年おこなっている。国際理解と国際親善の促進が目的。

午前中は少し雪か雨もよいだったが、天気は回復にむかった。初春の令月にして気淑く風和らぎ・・・。梅花は見ごろは過ぎていたが、まだまだ咲いていた。

ロータリークラブには3種の留学生制度がある。そのうち、高校生の交換留学生とホストファミリー、米山奨学生とカウンセラーをお招きした。ノルウェー、フィンランド、韓国、ドイツなど9か国からの学生ほか40名の参加である。

曲水の宴は、文字通り、くねくねと曲がった水路沿いに出席者が並んで座り、水路を流れてくる杯が自分のまえを通りすぎるまでに和歌を詠む行事である。

水に流すという言葉があるが、古来、水辺で禊(みそぎ)をしていた。世界遺産である大峰山に登ったときも、前日、滝ごりや護摩焚きで斎戒沐浴した。曲水の宴は、古代中国でこうした禊が発展したものだという。

東晋の時代、書の達人である王義之も蘭亭でおこなわれた曲水の宴に参加した。そして漢詩集の序文として有名な「蘭亭序」を書き残している。

日本では、日本書紀には古い記事があるようだが、確実なのは文武朝以降。奈良時代を経て平安時代にさかんにおこなわれた。天満宮でおこなわれているのは、平安時代のものの再現。女官が十二単を着、和歌を詠む。

留学生たちはNHK大河「光る君へ」をみているだろうか。みている人は、あああの時代かと理解しただろう。

平安絵巻であるから時間はのんびりと流れる。紅白歌合戦のように次から次へと歌が披露されるわけではない。朗詠もろうろうとおこなわれる。一つの和歌が終わって、つぎの和歌がはじまるまで間がある。

毎日分刻みのスケジュールに追われる留学生たちに日本文化がどこまで伝わったであろうか。少なくとも、よい気分転換になったことだろう。みな表情が和んでいる。

2024年2月26日月曜日

太宰府路散策(第2回)(5)

 


 戒壇院で向井弁護士と富永弁護士が早退した。午後から筑紫野市生涯学習センターで無料法律相談会を予定していたからだ。

歌碑探しなどをしているうちに前回より時間がかかったようだ。後半は巻いていこう。お隣は観世音寺だ。斉明天皇の追善のため天智天皇が発願したという。

『源氏物語』「玉鬘」の段にも出てくる。紫式部が知るくらいだから、当時はそうとう大きな寺で、都まで名が届いていたのだろう。梵鐘は国宝であるし、宝蔵にはいまもおおきな観音様が何体もいらっしゃる。

観世音寺内には沙弥満誓の万葉歌碑

 しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは着ねど暖けく見ゆ

ずっと東へ歩いて行く。再び御笠川を越えて、川沿いに遡上すると天満宮の大駐車場にでる。御笠川にはシラサギ、アオサギ、カモたちが群れ遊んでいる。子どもたちが歓声をあげる。

天満宮の参道に入るとたくさんの人波。韓国語、台湾語がいきかっている。台湾の人に中国人ですかと尋ねると怒るというのはほんとうだろうか、都市伝説だろうか。

お茶屋で昼食。第1回ではここから鬼滅の刃の聖地、竈門神社に向かった。しかし今回は新人弁護士の案内が主であるので、国立九州博物館へ向かった。

暗く長いエスカレーターで昇っていく。子どもが不安と期待に目を輝かせている。何が待っているのか。

2024年2月21日水曜日

太宰府路散策(第2回)(4)

 
 大宰府政庁跡でヨガを楽しむ人々
平和だ

坂本八幡宮、梅花の宴はここで?
我が岡にさ牡鹿来鳴く初萩の・・・

紀卿万葉歌碑
正月立ち春の来たらばかくしこそ・・・
楝(センダン)の花
妹が見し楝の花は散りぬべし・・・
(旅人の亡妻を偲ぶ)
長屋王邸跡
 奈良大宮ロータリークラブ45周年に行った際、長屋王邸跡。聖武系の皇位継承に不安が生じたなか、藤原四兄弟が長屋王家を抹殺(長屋王の変)。
戒壇院。天下三戒壇の一つ
 裏に僧玄坊のさびしい墓がある。玄坊は吉備真備とともに出世したが、これを除こうとして九州・大宰府で藤原広嗣が乱を起こした。乱は失敗(この時、大宰府政庁跡は焼けてしまっている。)。しかしその後、藤原仲麻呂の台頭にともない、橘諸兄が失脚して、玄坊も観世音寺別当に左遷。

 藤原氏が王族を含む他勢力を排除していった結果が藤原北家の隆盛、北家のなかでのさらなるバトル、その末裔である藤原道長の隆盛。父兼家にあっては、王族どころか花山天皇まで排除してしまう。藤原四兄弟、藤原広嗣、藤原仲麻呂の時代も似たようなものだったのだろう、当時の貴族の日記が残っていないだけで。

 それに引き比べて、旅人の時代の梅花の宴や亡妻を偲ぶ歌、はたまたいまの時代に大宰府政庁跡でおこなわれているヨガ教室のなんと平和なことよ。

2024年2月20日火曜日

太宰府路散策(第2回)(3)

 




 大宰府政庁跡に到着。南門跡をぬけ、中門跡に立つ。いつもながら広々としてヌケ感がすごい。背後の四王寺山・大野城ととりあわせて、おだやかな気持ちになる風景だ。

右手大宰府展示館へ向かう。展示館前に教科書にのっていた有名な万葉歌の碑がある。

 あをによし奈良の都は咲く花のにほうがごとく今盛りなり 小野老

大宰少弐として着任した際の歓迎宴で詠まれた。先の大伴旅人とほぼ同時期。歌の趣旨も旅人が着任の際に詠んだ歌と同旨か。大宰府の官人たちへの挨拶。奈良の都は花盛りに栄えていましたよ。

政庁跡の北西角、坂本八幡宮に向かう。大伴旅人邸跡と推定されている(可能性の一つ)。仮にそうだとすれば、万葉集の「梅花の宴」はここで催されたことになる。

「梅花の宴」には前書きがある。このあたりが令和の里と呼ばれるゆえんである。

 初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、欄は珮後に香を薫らす・・

「梅花の宴」収載の三十二首もここで詠まれたはず。このあたりには先の三十二首のうち、いくつかの歌碑がある。まず巻頭歌。

 正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しきを経め 紀男人

主人である大伴旅人の歌(8番)

 我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

筑前国守であった山上憶良の歌

 春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ 

坂本八幡宮から東、観世音寺へ向かう。左手に旅人の歌碑がある。

 世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり

妻を亡くした後の歌だ。山上憶良も追悼歌を寄せている。

 大野山霧立ち渡るわが嘆く息噎の風に霧立ちわたる

大野山はいまの四王寺山(大野城)のこと。四王寺山に霧が流れると、旅人の嘆きが立ちわたってくる。

2024年2月19日月曜日

太宰府路散策(第2回)(2)

 

 御笠山の名は宝満山になっている。それでは御笠川の名も宝満川になってよいのではないか?もっともな疑問であるが、宝満山南部に発し、南のほう筑後平野へ流れ下り、筑後川と合流する川の名が宝満川となっている。そのせいか、こちらの川は御笠の名を残している。

朱雀大橋を歩いて、御笠川を渡る。渡り終えるとすぐ左手に歌碑がある。

 大君の遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば神代し思ほゆ 柿本人麻呂

この歌には万葉集に題詞がある。「柿本人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作れる歌」。筑紫への海路・海峡を見れば、古事記にあるイザナギ・イザナミによる筑紫の国産みの時代が思い起こされるなぁ、筑紫の神さま海路の安全を頼んます。

この場所になぜ、このような歌碑が?この謎は歌碑の裏に回ればすぐ解ける。そこに大宰府正門(朱雀門)の礎石があるから。そして、朱雀大通りの北を見れば大宰府政庁(=遠の朝廷)跡が見えている。島門(海峡)ではなく正門であるが、たしかに大君の遠の朝廷とあり通ふ門なのである。

正門は平城京・平安京でいえば羅城門である。聖俗の境界。鬼も出る。芥川龍之介の小説『羅城門』の舞台にもなれば、黒澤映画「羅城門」の舞台にもなる。

朱雀大通りをはさんで両側にこの礎石があったとすれば、とても大きな門である。VRがあれば、ここから大宰府政庁の豪壮な建築を見ることができるだろう。そこからいまは住宅地になっているところを2ブロック歩くとようやく大宰府政庁跡に到着。

歌碑探しゲームをかねていたところ、参加の子どもが歓声をあげる。三叉路になっている政庁跡の信号をわたると、右手にまた歌碑がある。

 やすみししわが大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ 大伴旅人

60歳をすぎて大宰帥として大宰府に赴任したときの歌である。九州にやられたけれど、都もここも同じだと思う。赴任時の気概とも、やせがまんともとれる歌である。

妻・大伴郎女をともなっていたが先立たれる。それ以後つくられた、酒を誉め、妻を偲ぶ歌が多数、万葉集に残されている。妻に先立たれなければ、ただの官人に終わったかもしれないが、そうでないところが人生と歴史の妙である。

2024年2月15日木曜日

太宰府路散策(第2回)(1)

 

 ちくし法律事務所の有志でグループを結成して(ヴァイタリティーちくし同好会)、ウォーキングを楽しんでいる。その一貫で、太宰府路散策(第1回)を実施したことなどは前に書いた。







当事務所に新人弁護士が加入したこともあり、第2回を実施した。参加者は弁護士4人、事務局2人、その子ども2人の8人である。

まえと同じコースでは面白くない。西鉄都府楼前駅ではなく、西鉄二日市駅を出発点とした。事務所から出発するほうがよかったが、参加者がアクセスしやすい都合で西鉄二日市駅東口に集合した。

駅から北へ向かって歩く。5分ほどで客館跡に着いた。「特別史跡 大宰府跡 客館跡」と表示された碑がある(古代の都や役所をさすときは大宰府、現在の自治体や天満宮をさすときは太宰府の文字を使う。)。客館というぐらいだから、古代の迎賓館のようなものだろうか。

福岡市内、もとの裁判所があったあたりの下には鴻臚館跡が埋まっていた。外国使節の応接はまず鴻臚館、つぎに客館という流れだったのだろう。

西鉄操車場跡である。広々としている。色分けした舗装により、条坊制による東西の路の跡が分かるようになっている。西鉄の軌道があるせいで、条坊路のほうが歪んでいるように感じる。

展望台に登る。北に四王寺山・大野城、北東(牛寅)に宝満山、南に基山・基肄城を遠望することができた。

客館跡から5分ほどで朱雀大路跡。北が玄武、東が青龍、西が白虎、南が朱雀。それぞれの神獣が都を守っている。朱雀大路はすなわち大宰府の南大路である。いまは住宅がおおっていて、古代朱雀大路が存在することを想起するには相当の念力が必要だ。

朱雀大路が存在したであろうあたりを東に渡れば榎社。菅原道真の謫居跡である。小さな神社になっている。参拝。

榎社からさらに北へ歩く。わが事務所の顧問会社が点在している。新人弁護士に対し「立派な弁護士を顧問にされているという噂の会社です。」などと冗談を言いながら歩く。

現在の朱雀大通にでる。バイパスを渡ると、東から西へ御笠川が流れている。東北には宝満山。宝満山はその昔、御笠山と呼ばれていた。笠の形をしているから。御笠川は御笠山に水流を発するので御笠川なのである。

2023年10月19日木曜日

太宰府路散策(3)戒壇院、観世音寺

 

 学業院跡から、さらに東へ向かう。戒壇院、観世音寺がみえている。その向こうに宝満山。
 https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5149402,130.5201245,18.5z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu

戒壇院と観世音寺の間の路を右折。戒壇院へ向かうのだが、その前・右手に玄坊の墓がある。玄坊は遣唐使とともに学問僧として入唐。玄宗皇帝に才能を認められた。

帰国後、聖武天皇の信頼もあつく、橘諸兄政権の中枢として吉備真備とともに出世。しかし橘諸兄が権勢をうしない、筑紫の観世音寺に左遷、この地で没した。人格的な批判もおおく、怪異な伝承が多い。かつて政権中枢を担ったわりには小さな墓である。

墓のまえをさらに進むと、右手に戒壇院の裏口がある。東大寺戒壇院などとともに、天下三戒壇の一つ。奈良時代、授戒制度を確立するため、唐から鑑真を招聘した。井上靖の小説『天平の甍』に詳しい。

東大寺の戒壇院は四天王像がすばらしいが、残念ながら筑紫戒壇院にはそのような四天王像は残されていないようである。裏口すぐには菩提樹が植えられている。この日は座禅がおこなわれていたようで、静かにと注意書きがあった。

戒壇院の裏口を出ると、正面すぐが観世音寺の側面入口である。大学生のゼミとおぼしき若い人たちが参拝していた。

観世音寺は、天智天皇が創建した。唐・新羅連合群とたたかう百済を救援するため日本も朝鮮半島に派兵したが、白村江の戦いで敗れた。そのため防衛のために築かれたのが大野城や水城である。

古代のことであるから、いまのように通信手段が整っていない。日本政府は大和の地から采配を振るっていたのでは勝てる戦も勝てない。そのため、前線にちかい九州の地まで出張ってきていた。

その地で斉明天皇が亡くなった。その追善供養のため、皇太子であった中大兄皇子が創建したという。

古くは大きな寺だったらしく、『源氏物語』にもでてくる(あまりよい文脈ではない)が、戦火などでいくたびか焼亡し、いまはそれほどの偉容はない。

寺に向かって右手には日本最古の梵鐘がある(いや、あった。いまは博物館に保存されている。)。国宝である。あれ?日本最古の鐘は妙心寺ではなかったっけ?そのとおり、兄弟鐘である。

糟屋郡多々良町(現、東区)で製造されたという。多々良はたたら製鉄のたたらである。もののけ姫にでてきた「たたら場」と同じ語源である。「たたらを踏む」などというが、たたら製鉄の際の動作から来ている。

多々良町を多々良川が流れている。中央での戦いに敗れた足利尊氏は九州に流れてきて、捲土重来を期していた。かれは多々良川の戦いに勝利し、ふたたび中央に攻め上り、後醍醐天皇側から政権を奪取することに成功することになる。

梵鐘の奥は宝蔵である。観世音寺というだけあって、巨大な十一面観音、馬頭観音、不空羂索観音が偉容を誇っている。大きさは東大寺の不空羂索観音とおなじくらいだと思う。

https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=239

このあたり紅葉するとナンキンハゼが美しい。いまの時期はコスモスが青空に映え、親子連れが記念撮影をしていた。

2023年10月18日水曜日

太宰府路散策(2)展示館、学業院跡

          


 政庁跡には礎石が置かれているのであるが、レプリカである。むかしはプラスティック製のものを置いていてブカブカしている時もあった。

実物は2mほど地下にある。発掘調査をおこない、2mほど掘り下げたところ、いま見るような礎石群があらわれたのである。つまり、年間2mmほどずつ土砂が堆積を繰り返していて、約1000年の間に礎石群のうえに2mほどの土砂が堆積しているのである。

そのことは、南西角にある展示館にいけばよく分かる(いつの間にか有料になっていたが。)。館の内部、左右は地層を掘り下げたままになっていて、掘るとどうなるかがよく分かる展示になっている。2mほど地下にゴロリと置かれたままの礎石や溝の遺構をみることができる。

展示館のまえで休憩していると、高齢の男性、つづいて女性が設置されている台の上でスタンプを押していく。訊くと太宰府市がおこなっている事業で、スタンプが集まると3000円の商品券やお米がもらえるのだそう。なるほど。われわれはアプリの景品を期待して歩いているところ、太宰府市の高齢者は商品券やお米を期待して歩いているのか。

展示館の北西角には、都をしのんで歌った小野老の有名な歌の碑がある。

 あをによし奈良の都は咲く花の 薫うがごとく今盛りなり

展示館の前を通って東へ向かう。この通りにはセンダンが植えられている。またの名を楝(あふち)の木。おそらく筑前守であった山上憶良のこの歌にちなむものだろう。

 妹が見し楝の花は散りぬべし 我が泣く涙いまだ干ぬ

これは大伴旅人の妻が亡くなったときに、旅人の気持ちになって詠んだ歌。四王寺山の霧に仮託したつぎの歌もおなじ。

 大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯の風に霧立ちわたる 

通りの左手には故冨永朝堂先生のお宅がある。太宰府天満宮・延寿王院前の「神牛」の作者である。

そのあたりからは宝満山が大きくのぞめるようになる。ことしは国の史跡に指定されて10年となる。大宰府政庁跡の東北、鬼門の方角である。

平安京の鬼門は比叡山であり、鬼門の押さえとして延暦寺が置かれた。大宰府の鬼門は宝満山であり、鬼門の押さえとして竈門山寺・竈門神社が置かれている。

さらに東に行くと学業院跡である(国史跡)。古代、大宰府の官人要請が行われたという。太宰府は現代、学園都市になっているが、このような伝統のゆえであろうか、それとも天満宮のご利益を期待してのことであろうか。

手前には、山上憶良の有名な子等を思ふ歌の碑が建っている。親子の情愛は古代から変わりはない。

 瓜食めば子供念ほゆ 栗食めばまして偲はゆ 何処より来たりしものぞ 眼交にもとな懸りて 安眠し寝さぬ

 銀も金も玉も何せむに まされる宝子に如かめやも

学校で習った。小6に訊くも習っていないという。中学で習ったのだったか。

またそこには天満宮の斎田があり、ちょうどこの日、抜穂祭がおこなわれていた。このごろはコンバインによる収穫風景しかおめにかからなくなったが、むかしながらの鎌による稲刈り。なつかしい。

その先入ったところは昨年、アナグマ三兄弟の巣があったところだ。

2023年10月17日火曜日

太宰府路散策(1)坂本八幡宮、大宰府政庁跡


 土曜日はわが事務所のアクティビティ同好会で、太宰府路を散策した。同会は基本的に自主練で、アプリをつうじて各人の活動状況が知れるというもの。今回は初の合同参加企画となった。

午前10時に西鉄都府楼前駅に集合。ときどき雲に覆われるも秋晴れの晴天であった。子ども2人(小6と6歳)を含む総勢5人で出発。ときおりキンモクセイが香り、秋の気配濃厚である。

同駅の近くには刈萱の関跡があるのであるが、メンバーの要望で省略。むかしは大宰府政庁への出入りは自由でなく、関所で検問が行われたのであろう。刈萱は説経節の石堂丸になっているし、関屋の地名のもとになっている。

水城小学校・学業院中学校前を通り、坂本八幡宮へ。八幡宮は、令和のゆかりの地として全国的に有名となった。

それは、八幡宮が大宰府(太宰府ではない。)政庁跡の北西角にあり、大宰帥(大宰府の長官)であった大伴旅人の屋敷跡の候補地の一つとなっているからである。

そのころの文献はあまり残されていない。じゃなにが根拠かというと万葉集の一節である。

万葉集によると、大伴旅人は、九州の官人を集めて、梅花の宴を催した。そのなかには筑前国主の山上憶良もいた。

そのときの歌が32首残されている。その序文にこうある。

 初春の令月にして 気淑く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす・・

「このなかに令和が隠れている、令和をさがせ!」
子どもたちは、すかさず探しだした。

八幡宮前からは四王寺山の登山口への道がのびているが、きょうは山へはいかない。裏の田畑側から政庁跡へ。

畔道からバッタがつぎつぎと飛び出していく。ハーモニカの演奏をしているグループや虫取りをしている親子がいる。

大極殿跡で記念撮影。奈良の平城京跡は建物が復元されているけれども、こちらは礎石のまま。ぼくはこちらのほうが好きだ。イメージを触発されるし、広々とした空間が開放感を呼ぶ。

                                      続く。

2023年1月9日月曜日

能「緋桜」、「安達原」

 

  太宰府プラムカルコアで能「緋桜」、狂言「樋の酒」、能「安達原」を観た。

写真館を経営されているUさんのお誘いだったが、「緋桜」のシテ役が今村嘉太郎さんだったので、あわせてご挨拶等いただいた。

「緋桜」は宝満山にまつわる新作能。森弘子先生が解説。大宰府権帥として下向した大江匡房は、桜の名所として都まで名のしられた竈門山へ。竈門山は宝満山の旧名。麓の神社名に名残をとどめている。

緋桜のもとで前シテの女があらわれ、美しい桜のいわれを語る。天智天皇がここでつぎの歌を詠んだという。

 散るたびにもえこがれても惜しきかな 竈門山なる緋桜の花

匡房が夢見心地でいると、太鼓の音に誘われ、後シテである緋桜の精があらわれ、美しい舞を舞う。

天智天皇は中大兄皇子時代に九州に来ている。白村江の戦いに敗れたときだ。宝満山にも登ったかもしれない。しかし歌はどうだろう。万葉集には掲載されていないようだ。竈門が「火」→「緋」をみちびいたのだろうか。さらに狂言の「樋」を導いたのかも。

謡曲「安達原」のもととなったのは、黒塚の鬼婆伝説。伝説はふるく平安時代からあったようだ。平兼盛の歌。

 みちのくの安達が原の黒塚に 鬼こもれりと聞くはまことか

筋は福音館書店の絵本「みるなのくら」と同じ。一夜の宿を借りたところ、主人の婆が自分の寝所をのぞいてはならぬの言い置いて外出。みるなといわれればよけいに見たくなるのが人情。

日本人の歴史とともに古い。古事記にもある。イザナギは死んだイザナミが恋しくて黄泉の国へ行く。そこで覗いてはならぬといわれたのに覗いてしまう。イザナミは腐敗してウジにたかられていた。イザナギは驚いて逃げ出すが、イザナミは追っかける。

山幸彦はトヨタマヒメから出産のときは見ないでといわれるが、見てしまう。トヨタマヒメはなんとサメの姿に。・・。

そもそも人を食らう鬼婆だから追っかけてくるのか、見るなと禁止したのに約束を破って寝所をのぞかれた恥をそそぐために追いかけてくるのか分からない。不思議な筋。

写真は安達太良山の登山口でみたご来光と黒塚。安達原は安達太良山の麓にあるのだ。智恵子さんは、男心をわしづかみにする鬼女の末裔だったかもしれない。

2022年12月25日日曜日

映画「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」

 

  「山ばかり行ってますね。」といわれるので、年末は、文化活動にもいそしもうと考えた。

その結果、大野城イオンで映画「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」、博多座で文楽(人形浄瑠璃)「端模様夢路門松」「曲輪文章」、太宰府プラムカルコアで能「緋桜」狂言「樋の酒」能「安達原」を観た。

https://www.20thcenturystudios.jp/movies/avatar2

https://www.hakataza.co.jp/lineup/202212/bunraku/index.php

https://dainokai.com/appearance/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%9B%9E%E3%80%80%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E4%BB%A4%E5%92%8C%E8%83%BD/

まずは「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」(3D)。例の55歳以上割引の1,100円では足りず、1,500円かかった。2時間20分の大作であるし、3D用メガネ代が100円かかったから。

劇場で観る価値あると言っておこう。前作を観ておいたほうが分かりいいに決まっている。そもそも「アバター」というタイトルは前作を観ておかないと分からないかもしれない。

例によってネタバレしないように中身を要約すれば、「ダンス・ウイズ・ウルブス」と「若草物語」と「タイタニック」と「もののけ姫」と「グランブルー」とある種のRPGとを足して6で割ったような感じだろうか。

「:ウェイ・オブ・ウォーター」というぐらいだから、前作が山と空を舞台としていたとするならば、海洋を舞台にしている。

CG画面、3D画面の進化が著しい、すばらしい。はじめのうちこそ少し違和感を覚えるが、そのうちその世界に没入してしまう。

すごいお金がかかっているんだろうね。CMもすごい。西鉄天神駅には大画面の動画CMが繰り広げられている。

これほどの娯楽大作とプロモーション戦略に日本の伝統芸能勢はどう対処できるのだろうか。

2022年5月16日月曜日

ひさしぶりにキジくんに出会った

 


 ひさしぶりにキジくんに出会った。太宰府の学校院跡あたりを歩いていたら、ケーンと鳴き声が聞こえた。キジも鳴かずば撃たれまい。もとい、キジも鳴かずば撮られまい。

畑のなかを歩いていた。虫かなにかをついばんでいるようだ。こんかいはチョンガーだ。連れあいはどうしたのだろうか。まえに会ったときは連れあいがいた。

キジは雄のほうがきれいだ。雄のほうがきれいな動物と雌のほうがきれいな動物とはどういう振り分けになっているのだろうか。やはり数がおおいほうがきれいになるのだろうか。研究すれば、面白い論文が書けるかもしれない。

まえに会ったのは去年8月7日。観世音寺の奥の池で見かけた。あのときは連れあいと仲むつまじくしていた。あまり敏捷そうではなさそうだし、飛ぶのもうまくはなさそうだし、犬か猫にやられたのだろうか。それとも離婚したのか。

桃太郎はきび団子をご褒美として鬼退治のおともさせたというが、ほんとうだろうか。犬と猿は戦力にならなくもなかろうけれど、キジはどうなんだろう?斥候だろうか。いまでいれば、ドローンだろうか。あっ、飛ぶのはうまくないんだった。

2022年2月1日火曜日

奇跡の出会いー玉鬘の旅

 

 玉鬘は母の夕顔を求めているのだけれども、夕顔はもうこの世にいない。なのでもう出会いようがない。でも夕顔には右近というおつきの女がいた。右近は夕顔の死後、源氏に仕えている。

長谷寺の手前に椿市という宿場がある。玉鬘一行はここの宿坊で右近と運命的な出会いを果たす。いや、そこは長谷観音さまのおはからいなのだから、奇跡的な出会いというべきか。

右近と一行は長谷寺のなかでお祈りしながら話をする。姫のおつきのなかに三条という女がいた。三条はつぎのように祈願していた(林望訳)。

 「大悲大慈の観音様、もう他にはなにもお願い申しません。ただ我が姫君に、大宰の大弐の北の方か、さもなくば、当国大和の守の北の方になっていただけますように・・・」

九州から脱出してきた三条の願いからすれば、大宰府の次官か、奈良県知事の妻になれればもう最高!というのである。

しかし源氏に仕えている右近はこれを聞いて〈受領の妻だなど、なんという縁起でもないことを申すものじゃ〉と思って、こうたしなめる。

 「その願いはまた、たいそう田舎びたことじゃな。姫君の父君は昔中将でいらした自分にだって、帝の覚え世の声望がどれほど立派なことでありましたろう。・・・」

三条の反論。

 「なんとまあ、よけいなことを。その大臣うんぬんも、ただいまはまずお置きなされ。あの大宰の大弐さまの北の方さまが、清水の観世音寺にお参りなされました折のすばらしいご威勢、あれはもう、帝の御幸にだって勝るとも劣らぬものでございましたに。・・・」

姫の結婚相手を決める基準は家格のつりあい。中央閣僚か地方官(受領)か、京か田舎か。愛はいずこ。

ところで清水の観世音寺?観世音寺って清水だっけ?念のため、観世音寺にいってたしかめると、たしかに「清水山」という扁額がかかげられていた。

京都清水寺が音羽の滝の霊水を起源とすることはよく知られている。観世音寺にも霊水が湧いていたのだろう。どちらも観音さまだし、観音さまと清水とは深い関係があるのかもしれない。

とまれ、右近の手引きにより、姫は源氏の君と運命的・奇跡的な出会いを果たすことができた。そして源氏が詠んだ歌(玉鬘とは、多くの玉を糸にとおした装飾品)。

 恋ひわたる身はそれなれど玉かづら
              いかなる筋を尋ね来つらむ 

2022年1月30日日曜日

九州脱出ー玉鬘の旅


 
(大宰府政庁跡の紅梅)

 玉鬘(たまかずら)姫をまちかまえていたつぎの苦難は大宰府少弐の死。姫を養護する乳母一家は大黒柱をなくしてしまったわけである。残された乳母たちは姫をお連れして京に帰りたかったが、なかなかこれをはたせず。

さらなる苦難はがさつな男たちだ。姫は大人になり、美人だと評判に。近在の男どもが押し寄せてくるが、姫とは釣り合いがとれない。やむをえず姫には差し障りがあってなどと誤魔かす。

近所の男衆はみなあきらめたけれども、肥後の監(げん)という男はあきらめが悪い。そこはやはり「もっこす」なわけである。ついに屋敷に乗り込んできて、強く結婚を迫る。歌なぞ詠んでみせるが、むさ苦しく田舎ぶりが甚だしい。

ことここに至っては一時の猶予も許されず、姫と乳母一家は九州を脱出。ほうほうのていで都にたどりつく。・・・

紫式部は九州には来ていないだろうから、書いてあることはすべて文字の上か耳学問だろう。読んでいてあれ?と思うことがある。

少弐といえども大宰府の役人であるから大宰府政庁の近くに住んでいたと思われる。しかし乳母らは肥前に住んでいたとある。

それでは基山あたりだろうか。大野城と基肄城は兄弟城であるから可能性はある。肥後の監が懸想したというのだから、熊本に近かったであろうし。

通勤はどうしたのだろう。いまなら自家用車かJRを利用して基山に住んでいる人が太宰府市役所に通勤しているかもしれない。しかし平安時代である。馬だろうか。

と思いながら読み進めると、九州脱出の段にこのような記述がある(引用はいつもの林望先生のもの)。

 〈これでもう二度と、姉さまとは会えないかもしれない。・・・ここで何年も暮らしたとは言っても、どうしても見捨てがたいというほどの所でもないけれど・・・〉と妹は思う。けれども、あの松浦の宮の前の渚と、姉さんに別れるのだけは、何度も何度も、振り返り振り返りするほどに名残が惜しまれるのであった。・・・

などとある。松浦の宮とはいまの鏡神社だし、渚は虹ノ松原だろう。すくなくとも脱出の際、船出したのは唐津のようだ。さらに京都に戻ってからの話であるが、こうある。

 この近くに、八幡の宮という神社がありますが、それは筑紫のほうでも、姫君がいつも参詣しては祈っておられた松浦の宮、そして筥崎の宮と、ご神体を同じくする社です。あの肥前を発って来るときも、松浦や筥崎の宮に、多くの願立てをなさっておいでであったし。・・・

すると肥前というのは唐津のことか。唐津からだと、大宰府まで通勤するには絶望的に遠いのだけれど。

さらに混乱させるのは筥崎の宮。基山から参拝するにも唐津から参拝するにもかなり距離がある。というわけで、姫らが住んでいた肥前がどこかは謎である。

平安時代の京都に住む紫式部が九州の地理に精通していないのはやむを得ない。現代のわれわれだって東北地方の地理については似たようなものだ。しかし読みながら、あれ?と思うのである。

  

2021年11月18日木曜日

観世音寺の紅葉写真撮影会

 

 
 事務所の写真撮影会でハラハラドキドキしたあとは、太宰府の観世音寺で紅葉を鑑賞して心を静めよう。今週末は見ごろだろう。

観世音寺は源氏物語にも出てくる古刹。天智天皇(中大兄皇子)が母斉明天皇の追善のために発願し、開基となっている。

日本史にあかるい人はなるほどねという話だけれども、くらい人のためにすこし解説しておこう。

斉明天皇の時代、国際情勢は緊迫し、朝鮮半島では、唐と新羅の連合軍により百済が滅ぼされた。たとえていうなら朝鮮戦争のときに、中国と北朝鮮の連合軍に韓国が滅ぼされたような状況だったわけである。

百済を援助するため、斉明天皇は、難波から瀬戸内海を西に渡った。その際、四国松山は道後温泉の近くで、同行した額田王が詠んだのが次の歌だ。

 熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

そういえば、今夕は月食だ。月食観察せむと月待とう。

松山を漕ぎ出でた斉明天皇は、九州に上陸。筑紫の朝倉宮に遷幸し、戦争を指揮しようとした。奈良から指揮していたのでは勝てる戦争も勝てないので、前線にちかい朝倉から指揮しようとしたのである。しかし、遠征軍を送り出すまえに、同所で崩御。

このため、天智天皇は斉明天皇の追善のため、筑紫の地で、観世音寺を発願したのである。

跡を継いだ天智天皇は、軍を発したものの、朝鮮半島南部で白村江の戦いに敗れた。唐・新羅連合軍の日本本土への侵攻をおそれてつくられたのが、大野城と水城である。

つまり、太宰府の名所である、大野城、水城とともに観世音寺をつくったのは天智天皇である。太宰府観光協会としては足を向けて寝られない。

創建当時は大きな寺だったけれども、度重なる火災で寺容は縮小し、いまは本堂や金堂などを残すのみである。仏像はたくさん残されており、宝蔵は忘れずに立ち寄りたい。観世音寺というだけに、観音さまがいっぱいだ。

ここは京都の観光寺院のように人混みもなく、静かに紅葉を観賞できる。お奨めのスポットである。誰にも邪魔されず、写真撮影会を開こう。

2021年8月16日月曜日

玄昉の墓

 
(観世音寺の隣にある玄昉の墓)

 平家物語の「倶利伽羅落」「篠原の戦い」「真盛」のつぎの章は「還亡」です。おくのほそ道からすれば脱線ですが、太宰府ゆかりの人ですので「還亡」の話までしましょう。

還亡というのは玄昉のことです。日本史で習いました。ご存知でしょうか。玄昉は遣唐使として中国に留学しています。その際、学僧仲間から、玄昉は還亡と共通の音であるから、日本に帰ってよくないことが起きるといわれたそうです。実際そうなりました。それで還亡という章題になっています。

倶利伽羅峠・篠原の戦い、実盛の話のあとに玄昉の話は、時代も話題も大きく離れ、つながりが悪い。なぜつながるかというと、こう。

源平合戦における北国の戦いで、多くの平家武者が亡くなり、都はその妻や親たちの悲嘆につつまれました。そこで戦乱がしずまったのち、伊勢神宮へ行幸が行われることになりました。

その伊勢神宮への行幸がはじまったのは、約450年前、藤原広嗣の乱のとき。藤原広嗣は、橘諸兄、吉備真備とともに、玄昉をのぞこうとして乱を起こしたからです。広嗣と玄昉は因縁の対決みたいなところがあり、後記のおどろおどろしいエピソードもあります。

玄昉は遣唐使として中国に留学し、法相宗を学びつつ18年間在唐し、玄宗皇帝にも認められています。鑑真の招へい時の苦難を描いた井上靖の『天平の甍』にも、たしかちらりと出ていたと思います。

奈良時代の歴史は、台頭した藤原不比等にはじまる藤原氏と皇族の政争が激しく、ややこしい。皇族がたの長屋王のあと、いわゆる藤原四兄弟が政権を握るも、おりから流行した天然痘により全滅。そのあとを引き継いだのが皇族がたの橘諸兄です。

橘諸兄はすでにこのブログにでてきました。覚えていますか。浅香山の段です。

 浅香山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに

葛城王は饗応のまずさに気分を害したものの、采女がうたったこの歌に機嫌をなおしました。その葛城王こそがのちの橘諸兄です。

橘諸兄は唐帰りの吉備真備と玄昉を重用しました。玄昉の権勢はそうとうなものだったよう。藤原広嗣の乱後、動揺した聖武天皇に大仏建立を勧めたのは玄昉だとか。

皇族がわの橘諸兄政権に対し、面白くないのは藤原氏側。藤原広嗣は大宰小弐に任じられ、大宰府に赴任したものの、これを左遷と受け止め、九州で乱を起こしました。

その鎮圧を命じられたのが大野東人。多賀城の壺の碑に名前が刻まれていましたね。彼に乱はまもなく鎮圧されました。

その後も藤原氏側の巻き返しは続き、藤原仲麻呂が勢力をもつようになると、橘諸兄政権は失速。玄昉も観世音寺の別当に左遷されました。

藤原広嗣の怨霊はすさまじく、玄昉が彼の供養をしようとして「高座にのぼり、敬白の鐘うちならす時、俄に空かき曇、雷ちおぼただしう鳴って、玄昉の上に落ちかかり、その首をとって雲のなかへぞ入りにける。広嗣調伏したりけるゆゑと聞えし。」(平家物語)

というわけで、観世音寺の隣にはいまも玄昉の墓がひっそりとのこされています。

2021年5月19日水曜日

信夫の里・しのぶもぢ摺りの石(6)

 

さいきん同行トミーの姿が見えぬなぁと心配して、信夫の里で長居をしておりましたら、昨夜の弁護士会議でそろそろ書きますと反省の弁を述べておりました。もうまもなく追いつくことでしょう。乞うご期待!

さて、なんでしったっけ?そうそう、源氏が若紫を垣間見て、惚れてしまうやろ~と言ったところでしたね。「ちら見」で惚れてしまうのは、日本人の美意識とも関係しているかもしれません。「秘すれば花なり」といいますから(世阿弥「風姿花伝」)。

断っておきますが、のぞきは現代では犯罪となりえます。正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者は、拘留又は科料に処せられます(軽犯罪法1条23号)。

ですが、美少女の若紫は源氏に垣間見られてマイ・フェア・レディになりました。のぞくは恥だが役に立つというわけです。

脱線がながくなったので、そろそろ出発しましょう。最後に、むかし男に関するクイズを2つ。1つ、むかし男は信夫の里に行ったことがあるのか。2つ、むかし男は太宰府に来たことがあるのか。

まず、むかし男が信夫の里に行ったことがあるのか。『伊勢物語』に、信夫の里に行ったとの記述はないのですが、すぐ西にある「しのぶ山」に行ったことがあるとの記述はあります(15段)。なので、おそらく行ったことがあると思われます。いわく。

むかし、陸奥にて、なでふことなき人の妻に通ひけるに、あやしう、さやうにてあるべき女ともあらず見えければ、
 しのぶ山忍びて通ふ道もがな 人の心の奥も見るべく
かぎりなくめでたしと思へど、さるさがなきえびす心を見ては、いかがはせむ

つぎに、むかし男は太宰府に来たことがあるのか。この点は筑紫に行ったと『伊勢物語』に明記されています(61段)。「東へ西へ」、色男・好き者は忙しい。いわく。

むかし、男、筑紫まで行きたりけるに、「これは、色好むといふ好き者」と、簾のうちなる人の言ひけるを聞きて、
 染河を渡らむ人のいかでかは 色になるてふことのなからむ
女、返し、
 名にし負はばあだにぞあるべきたはれ島 浪の濡れ衣着るといふなり

天満宮参道甘木屋角を南に下ると光明禅寺があります。寺に入らず、国博通りをそのまま西に50mほど行くと、左手に藍染川が流れていて、これが『伊勢物語』にいう染河だそうです。

藍染川の端には、玉垣に囲まれて梅壺侍従蘇生の碑があります。ここは謡曲「藍染川」の舞台で、その筋はこうです。

京都の女性・梅壺は天満宮の神官・中務頼澄を慕って筑紫に下ってきました。しかし彼女は彼に会えず、悲しみから藍染川に身を投げました。頼澄はそれを知り天神様に祈ったところ、彼女は生き返りました・・とさ。もとい、げな。

2019年1月28日月曜日

奈良大宮ロータリークラブ創立40周年式典


(奈良ホテル)

 奈良大宮ロータリークラブのご招待で創立40周年式典に参加しました。
 太宰府ロータリークラブとは友好クラブの関係にあります。
 1985年からのおつきあいです。

 奈良県にある日本百名山で世界遺産の大峰山登山にお誘いいただいたのも同クラブの山歩き会のみなさま。
 山登りのときに,みなさんが楽しげに屋久島や利尻に登った経験を話されていました。
 触発されて日本百名山をめざすことになり,達成することができました。ありがたいご縁です。

 太宰府ロータリークラブの会場は大丸別荘ですが,奈良大宮ロータリークラブの会場は奈良ホテルです。「西の迎賓館」と呼ばれるだけあって,重厚なたたずまいに背筋がのびます。

 獅子舞が40周年のめでたさを言祝いでくれました。

2019年1月17日木曜日

松と梅のめでたさ


 成人式は能楽師・今村嘉太郎さん主催の能楽新春コンサートにいってきました。新年を言祝ぎ,とても晴れやかで楽しい会でした。

 演目は,『高砂』,『老松』,『東北』など。いずれも松や梅がでてきて目出度い,新年の門出にふさわしいもの。江戸城では正月,必ずこの3曲を演っていたそうです。

 『高砂』は結婚式の定番なので,みなさんご存知でしょう。相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で人生を言祝ぐめでたい曲です。ワキは九州阿蘇宮の神官ですから,九州とゆかりがあります。舞台は播磨国の高砂の浦。高砂の松と住吉の松の精がでてきます。松は冬でも枯れず緑であることから,人は古来,その生命力に憧れ,あやかりたいと考えてきたんですね。

 『老松』は,地元太宰府ゆかりの曲です。福岡県民ならずとも,大宰府にながされた菅原道真公を追って京都から飛んできた「飛梅」の話はご存知でしょう。天満宮のむかって右手にいまも花を咲かせていますね。昨日書いた原田マハさんのトークショーにでてきた猫の名も「飛梅太」でした。飛梅の話にはつづきがあって,松がそのあとを追ってきたのです。その名も「追松」。曲名では『老松』となっていますが,「追松」と表記したほうがもとの話とあいやすい。高砂は松と松のカップルでしたが,この曲では梅と松のカップルです。梅もまた冬のさなかに,他の花に先駆けて花を咲かせるので,生命力,さきがけとしての魅力,凛とした姿勢,希望などを感じさせます。松ととも古来愛されてきたゆえんでしょう。

 『東北』(「とうほく」ではなく,「とうぼく」と読むそうです。)は,前2曲とちがい,九州とのゆかりはありません。筆者はむかし岸和田に住んでいたのですが,そちらとゆかりがあります。岸和田はむかし和泉国と呼ばれていました。百人一首のなかに,和泉式部という女流歌人がいることはご存知でしょう。式部は夫が和泉守だったことから,和泉式部と呼ばれるようになったそうです。岸和田には「和泉式部ゆかりの恋の淵」なるものがあります。

 さて式部は,これまた有名な中宮彰子につかえていました。藤原道長の娘で,『源氏物語』を書いたことでも有名な紫式部もつかえていました。道長の没後,彼が建立した法成寺の東北に建てられたのが東北院です。その庭には,和泉式部が手植えした梅があります。その名は「軒端の梅」。

 謡曲『東北』には和泉式部の霊があらわれます。式部は歌舞の菩薩になっています。生前の思いでを語り,和歌の徳,仏教のありがたさを説いて舞をまいます。

  あらざらむ この世の外の 思ひ出に
        今ひとたびの 逢うこともがな

                       和泉式部

2017年12月12日火曜日

小倉山,小倉百人一首と藤原定家


                           (嵯峨野・常寂光寺の紅葉)

 嵯峨野の紅葉狩りのクライマックスは,やはり小倉山でしょう。

 小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
     今ひとたびの みゆき待たなむ
                  貞信公

 という,あの絢爛豪華な歌にでてくる小倉山です。貞信公というのは藤原忠平。われわれ太宰府の人間にとっては菅原道真の政敵として有名な時平の弟です。

 小倉山は,小倉百人一首でも有名です。藤原定家が小倉山の小倉山荘で百首を選んだので,小倉百人一首です。

 甘味で有名な小倉あんも,小倉山あたりでとれた大納言という種類の小豆がおいしいことから名づけられたようです。

 小倉山の山麓には,常寂光寺と二尊院という2寺があり,いずれ劣らぬ紅葉の名所です。そこでいただく甘味とお抹茶は最高です。