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2023年5月29日月曜日

『街とその不確かな壁』と『二―ベルングの指輪』と『ユリシーズ』(1)

 

 高校時代の友達がSNSで、村上春樹の新作が面白かったというので、『街とその不確かな壁』(新潮社刊)を読んだ。

これまでの作品とテーマも手法もおなじように感じられた。同工異曲(失礼!アバウトな性格なうえに加齢してしまい、たいがいのものが同工異曲に感じられる。)。だが、ハルキストにとっては、これがたまらないのだ。文章は洗練され、展開はとても滑らかである。

若いころの彼女との関係で受けた心の傷を、現実の世界と無意識の世界を往来しながら癒していく(のだと思う)。河合隼雄の分析心理学による治療を読書により受けるようなものだろうか。

先に村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』のことを書いた。子を失い、妻を失った心の傷をマイ・カーをドライブしてもらいながら癒されていく男の話だった。

同種の傷を抱える読者は、小説を読み進むうち、主人公とともに、おのれの傷も癒されていく。

広大な無意識の世界はフロイトにより発見された。ユングは彼の影響を強く受けつつも、独自の分析心理学を確立した。河合隼雄はその弟子筋にあたる。

ユングやフロイトは意識ではなく、無意識にメスを入れることにより、患者を癒そうとした。ユングの無意識はフロイトよりユニバーサルで、神話の世界などともつながっていく。

フロイトが精神分析を創始したのは19世紀の世紀末。マルクスやダーウィンとともに20世紀の思想に大きな影響を与えたとされる。

20世紀小説の最高峰の一つとされるジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』にも影響を与えている。

『ユリシーズ』は、古代ギリシアの英雄譚『オデュッセイア』をベースにしている。神話的方法と呼ばれ、神話をベースとすることで、現代の空虚と混沌に秩序を与える。

主役のひとりは、英雄とはほど遠い・さえない広告とりのブルームである。その妻はモリ―、その日不貞におよんでしまう。ふたりは長男を幼くして亡くして心に傷を抱えている。二人のほか、血のつながらないスティーブンがいる。彼は、母の臨終の床で祈りを拒否したことで傷を抱えている。

『オデュッセイア』とはちがい、ダブリンにおけるたった1日の出来事である。3人はそれぞれの傷を抱えて1日をスタートする。それがその日を通じて、それぞれの間で人間関係を形成し、互いの心を調整する。そうして心の傷を癒していく。要約すると、どの小説も同じ筋立てになってしまう。

その後半にあたる、15章の「キルケ」。キルケは神話では魔女で、オデッセウスの部下たちをブタにかえてしまう。現代では謎の来歴をもつ娼家の主人である。

夜になって、スティーブンは仲間とともに、ベラの娼家に繰り出す。ブルームも後を追う。彼らは頻繁に幻覚を見る。それは昼間の体験の変奏である。

昼間の現実を変奏した幻覚を見ることにより、心の傷を整理し、癒していく。それはフロイトやユングが提唱した精神分析や分析心理学の手法と異なるところはないと思われる。

2022年2月7日月曜日

第14挿話「太陽神の牛」


 旅の反芻を終え、ジョイス『ユリシーズ』(丸谷才一ら訳・集英社刊)を反芻読書している。

ユリシーズは、オデュッセウスのラテン語名。かれを主役とするオリジナルの古典が『オデュッセイア』。『イリアース』とともに、古代ギリシアの詩人ホメーロスの作とされる。

『イリアース』はトロイア戦争を、『オデュッセイア』は戦後、オデュッセウスが故郷に帰還するまでの苦難を描いたもの。

『ユリシーズ』は『オデュッセイア』の神話的枠組みを借りている。しかし、オデュッセウスが古代の英雄であったのに対し、主役のレオポルド・ブルームは冴えないユダヤ人で、すけべなおっさんである。そして、かれがダブリンを彷徨う一日(1904年6月16日)だけを描いている。

全18挿話から成る。いちおうストーリーらしきものはあるものの、各挿話のオリジナリティー、実験的手法はすさまじく、18個の短編アンソロジーといっても過言ではない。

ジョイス自身、この小説を解読するのに世界の研究者が寄り集まって何世紀もかかるだろうと予言したとか。すごい自信である。悔しいけれど、たしかに一読や二読では到底意味が分からない。「読書百遍意自ずから通ず」。百遍読めばなんとかなるかもという代物である。

もう一つの最高峰『失われた時を求めて』の日本語訳が4つ,5つあるのに対し、こちらの通訳はいまのところ丸谷・永川・髙松の共訳が1つあるのみ。

そのためもあり、この共訳がまた議論の的になっている。誤訳が多いなどなど。もともとが難解なので、理解できないわれわれとしては、(われわれの頭が悪いのではなく)訳が悪いのではないか、とついつい責任転嫁してしまう。実際、丸谷訳の『誤訳の研究』と称する本も出ている。

なかでも、難解さで知られるのが第14挿話「太陽神の牛」。息子を失ったブルームが息子と同視してしまうスティーブンと産院でめぐりあう一節。こんかいの反芻読書はここからはじめてみた。反芻だけに牛でしょ。

なぜ難解かというと、この挿話が英語文体史をたどる作風模倣で書かかれているから。古代の呪い、ラテン語、古英語韻文、マロリー、欽定訳聖書、バニヤン、デフォー、スターン、ウォルポール、ギボン、ディケンズ、カーライルときて、最後はスラングだらけ。ジョイスの天才が冴え渡る。

これを丸谷は、単に和訳するだけでなく、古代祈祷文、漢文、古事記、万葉集、竹取物語、宇津保物語、源氏物語、平家物語、太平記、義経記、仮名草子、浄瑠璃、滝沢馬琴、森鴎外、夏目漱石、菊池寛、永井荷風、宮沢賢治、俗語に移し替えている。

これにも毀誉褒貶ある。いわく、すごい力業だ。いわく、やりすぎだ。もともと難解で知られるところを源氏物語の文体で書かれたのでは、しろうとにはハードルが高すぎる。ついつい、やりすぎだ派に与したくなる。

これまで2,3度読んだが、この挿話にはまったく歯がたたなかった。誰か分かりやすく解説してくれる人はいないものか。何人もの研究者が読解を試みているが、通訳はない・・・。

そう思っていたところ、小川美彦氏の手になるズバリ『ユリシーズ第14挿話新訳』(五月書房)なる本を入手することができた(写真右)。この挿話だけを訳出したもの。みなが持っている悩みに答えようとしたものだろう。丸谷訳に比べれば、数段平易である。

それでも難解で3度読んで何とか通読し、ぼやっと意味をとることができた。ぱちぱち。その上で、丸谷訳を読むとなんと読めるではないか。ぼんやりとではあるが。やったー。

読み比べて分かったこと。やはり丸谷訳はすぐれている。小川訳は書いてあることは分かるけれど、やはり丸谷訳のほうが文学的なのである(小川さん、ごめんなさい)。