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2022年2月7日月曜日

第14挿話「太陽神の牛」


 旅の反芻を終え、ジョイス『ユリシーズ』(丸谷才一ら訳・集英社刊)を反芻読書している。

ユリシーズは、オデュッセウスのラテン語名。かれを主役とするオリジナルの古典が『オデュッセイア』。『イリアース』とともに、古代ギリシアの詩人ホメーロスの作とされる。

『イリアース』はトロイア戦争を、『オデュッセイア』は戦後、オデュッセウスが故郷に帰還するまでの苦難を描いたもの。

『ユリシーズ』は『オデュッセイア』の神話的枠組みを借りている。しかし、オデュッセウスが古代の英雄であったのに対し、主役のレオポルド・ブルームは冴えないユダヤ人で、すけべなおっさんである。そして、かれがダブリンを彷徨う一日(1904年6月16日)だけを描いている。

全18挿話から成る。いちおうストーリーらしきものはあるものの、各挿話のオリジナリティー、実験的手法はすさまじく、18個の短編アンソロジーといっても過言ではない。

ジョイス自身、この小説を解読するのに世界の研究者が寄り集まって何世紀もかかるだろうと予言したとか。すごい自信である。悔しいけれど、たしかに一読や二読では到底意味が分からない。「読書百遍意自ずから通ず」。百遍読めばなんとかなるかもという代物である。

もう一つの最高峰『失われた時を求めて』の日本語訳が4つ,5つあるのに対し、こちらの通訳はいまのところ丸谷・永川・髙松の共訳が1つあるのみ。

そのためもあり、この共訳がまた議論の的になっている。誤訳が多いなどなど。もともとが難解なので、理解できないわれわれとしては、(われわれの頭が悪いのではなく)訳が悪いのではないか、とついつい責任転嫁してしまう。実際、丸谷訳の『誤訳の研究』と称する本も出ている。

なかでも、難解さで知られるのが第14挿話「太陽神の牛」。息子を失ったブルームが息子と同視してしまうスティーブンと産院でめぐりあう一節。こんかいの反芻読書はここからはじめてみた。反芻だけに牛でしょ。

なぜ難解かというと、この挿話が英語文体史をたどる作風模倣で書かかれているから。古代の呪い、ラテン語、古英語韻文、マロリー、欽定訳聖書、バニヤン、デフォー、スターン、ウォルポール、ギボン、ディケンズ、カーライルときて、最後はスラングだらけ。ジョイスの天才が冴え渡る。

これを丸谷は、単に和訳するだけでなく、古代祈祷文、漢文、古事記、万葉集、竹取物語、宇津保物語、源氏物語、平家物語、太平記、義経記、仮名草子、浄瑠璃、滝沢馬琴、森鴎外、夏目漱石、菊池寛、永井荷風、宮沢賢治、俗語に移し替えている。

これにも毀誉褒貶ある。いわく、すごい力業だ。いわく、やりすぎだ。もともと難解で知られるところを源氏物語の文体で書かれたのでは、しろうとにはハードルが高すぎる。ついつい、やりすぎだ派に与したくなる。

これまで2,3度読んだが、この挿話にはまったく歯がたたなかった。誰か分かりやすく解説してくれる人はいないものか。何人もの研究者が読解を試みているが、通訳はない・・・。

そう思っていたところ、小川美彦氏の手になるズバリ『ユリシーズ第14挿話新訳』(五月書房)なる本を入手することができた(写真右)。この挿話だけを訳出したもの。みなが持っている悩みに答えようとしたものだろう。丸谷訳に比べれば、数段平易である。

それでも難解で3度読んで何とか通読し、ぼやっと意味をとることができた。ぱちぱち。その上で、丸谷訳を読むとなんと読めるではないか。ぼんやりとではあるが。やったー。

読み比べて分かったこと。やはり丸谷訳はすぐれている。小川訳は書いてあることは分かるけれど、やはり丸谷訳のほうが文学的なのである(小川さん、ごめんなさい)。

2011年2月5日土曜日

 春立ちぬ



 きのうは立春、「寒さがあけて春に入る日」
 いわば春の初日、こよみどおり暖かくなりました。

 丸谷才一さんの「新々百人一首」より春の歌。

  雪のうちに 春はきにけり うぐひすの

            氷れる泪 いまやとくらむ

                      二条后

 うぐいすは春告鳥なので
 春を告げます。

 「法、法華経(ホー ホケキョ)」と鳴き
 鳥ながら法を説きます。

 法を説くのであれば、泣いて泪することもあるでしょう。

 二条后は藤原高子(たかいこ)で
 清和天皇の女御。

 むかしのイケメン在原業平に略奪されて駆け落ち
 許されぬ悲恋に生きます(伊勢物語)。

   あなたにさらわれて~
   センチメンタル・ジャーニー

 むかしの松本伊代ちゃんのセンチメンタル・ジャーニーは
 略奪愛に成功したのでしょうか?

 業平は失敗し、「京にはあらじ、東の方に住むべき国求めに」とて
 傷心のセンチメンタル・ジャーニー(東くだり)。

 隅田川の河畔まで来た業平は
 高子のことを想って歌を詠みました。
 
   名にし負はば いざ言問はむ 都鳥
 
           わが思ふ人は ありやなしやと

                      在原業平

              (注:都鳥はユリカモメのこと)

 ユリカモメのいる隅田川といっても、新橋~お台場のあたりではなく
 もっと上流、浅草寺の東のあたり。

 隅田川にかかる言問橋はこの歌にちなんで命名されたもの
 一青窈さんの「一思案」の歌では、娘が初恋を落とした場所です。

  花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば
  生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける(古今集・仮名序)

 春の隅田川、名にし負う都鳥、娘が初恋を落とした言問橋とくれば
 生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。

 ちかくに東武伊勢崎線の業平橋駅があり
 春ならぬ東京スカイツリーが立ちつつあります。

 業平なら、高い塔をみて高い子を想い
 もう一首歌を詠んだでしょうか?
 

2011年1月10日月曜日

 初登り・雪の宝満山


 8日(土)初登り
 雪の宝満山に登りました。

 (コース)
 西鉄二日市駅→筑紫野市大石→鳥追峠→カモシカ新道→カモシカ旧道
 →大谷尾根→キャンプ場→山頂→中宮跡→竈門神社→太宰府天満宮

 大石では雪がなかったところ、カモシカ新道は踏み跡がなく
 雪で途中で進んでゆけなくなり、あきらめかけましたが
 旧道にゆき、なんとか山頂へ。

 山頂は30センチメートルくらいの積雪
 それでも相当数の人が登られていました。

 ことしのように年末から年始にかけて何度も
 雪がふりつもることもめずらしいのでは?

 登ってゆきながらなんども雪に足をとられましたし
 樹木にふりつもった雪がふり、頭や顔が雪だらけに。

 「春の雪」で紹介したとおり、丸谷才一さんが定家に対抗して
 「新々百人一首」を編んでいます。

 丸谷さんが撰んだ百首の第1は
 
  み吉野の吉野の山の春がすみ立つを見る見るなほ雪ぞふる

                         紀貫之

 開巻第1首のテーマを春の雪にするのは
 きのう紹介したとおり、豊作を祈念する祝言として。

 ただ春がすみと降雪が併存するのかはちょと疑問?
 屏風歌ゆえ、実写したわけではないのでしょうが。
 
 紀貫之は、当時の高知県知事などをつとめながら
 かな文学の先駆である「土佐日記」を書き
 「古今集」編纂のリーダーとなっています。

 古今集は春夏秋冬の歌にはじまり
 春の歌は立春、春雪、鶯、若菜、柳と移りゆく季節が
 緻密かつ絶妙に配されています。

 仮名序は紀貫之が書いたとされます。

  やまとうたは、ひとのこころをたねとして
  よろづのことのはとぞなれりける。

  世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば
  心におもふことを、見るもの、きくものにつけて
  いひいだせるなり。

  花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば
  いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。

  ちからをもいれずして、あめつちをうごかし
  めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ
  をとこをむなのなかをもやはらげ
  たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり。

  …

 さて、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける
 ということですから、みなさまも一首いかが?
 

2010年12月13日月曜日

 ざわめく影の樹々のなかで



 丸谷才一さんの「樹影譚」は、題名からわかるように
 主人公たちの「樹影フェチ」の性癖を動力源として物語が展開
 彼らはなぜ自分が「樹影フェチ」なのか、その謎を探つていきます。
  
   それなのに、影しか写つてゐない写真にこだはつたのは、
   ここを探ればまだ何かが出て来さうな予感がしたからだ。
   老作家は、三人の作中人物といつしよに生きて
   彼らの人生を長編小説の本筋とからめながら、
   他方、自分と樹の影との関係を探らうと努め、
   さうしてゐるうちに、
   ふと、雑誌から切抜いた写真を思ひ出したのである。

 古屋にとつての「樹木フェチ」の由来は
 (つまり、最後のマトリョーシカ人形でもあるわけですが)
 自己のアイデンティテイをゆるがす衝撃の事実…。

 自分の性癖の原因を分析することにより
 自己の無意識にひそむコンプレックスをさぐりあてるという作業は
 まさに精神・心理分析。

 さういえば村上春樹さんも河合隼雄さんと仲がいいですもんね
 村上さんが「樹影譚」を推す深層心理にはそこら辺があるのかも。

 クライマックス、古屋と老婆の会談(怪談)は
 まるで恩田陸さんの「常野物語」「エンド・ゲーム」のよう
 裏返さなければ裏返される??

 丸谷さんのお得意な(お好きな)
 意識と無意識、近代と古代の相克・往来
 老婆はグレートマザーなのでせうか?

 われわれも強いストレスにさらされたりすると
 なにやら独り言をつぶやいてしまって
 自分でもビックリすることがありますよね。

 真相をこじあける呪文はこの独り言
 「呪怨、呪怨、呪怨」ぢやなくて
 「樹影、樹影、樹影」。

 ラストは、ざわめく影の樹々のなかで
 フロイト的な精神分析からユング的な集合無意識の解明に達したのか
 まるで「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)」
 のラストのよう。

 古屋のばあい、アウターではなく
 インナー・スペース・オデッセイなのでせうが。

 ※丸谷さんはこの時間オデッセイの手法が大好き(フェチ)なようで
 「女ざかり」のナカニワ類似の描写があります(さてどこでせう?)。
 

2010年12月10日金曜日

 「樹影讃」


                       (美女平のブナ)

 「あいさつは一仕事」を読んでゐたら
 丸谷才一さんには
 「樹影譚」(文春文庫)
 なる小説があることを知りました。

 「若い読者のための短編小説案内」(文春文庫)
 のなかで村上春樹さんがとりあげてゐるようですが
 気づきませんでした。

 でもこんかいは、さーつと頭のなかに飛び込んできました。
 卒啄(そくたく)の機なのでせうね。

 卒啄の機は、禅の言葉
 卒は、ひな鳥が卵の内側から殻を突っつくこと
 啄は、親鳥がそれに即応して、外側から殻を叩くこと。

 ひな鳥が卵から孵る時に、ひな鳥の発する気配を感じ取って
 親鳥が外側から殻をコツ、コツと叩いて
 ひな鳥が殻を割って生まれるのを助けることを表したもの。

 転じて、教育や指導もうける側の態勢が熟していることが重要
 さうでなければ上滑り、空回りしてしまふの意。 

 せつかくの村上さんのアドバイスも
 こちらの機が熟していなかつたため、キャッチしそこねました。
 (それか、若ひ読者むけの本だつたので、熟しすぎてゐたか)
 村上さん、ごめんなさひ。

 人権課題もあまりにもはやく問題提起してしまったために
 かへつて解決がむずかしくなり、遅れたりすることがります
 「あれは10年早すぎた。」といふように。

 さて、こんかひ私をとらへたキーワードは「樹影」

 今夏から本ブログのために
 デジカメ写真をよく撮るようになったところ
 気づいたら、被写体は「樹影」が異常におおくなってゐます。
 
 いはば「樹影フェチ」

 さういへば「樹影」をみると、激しく心をゆさぶられます
 それで、「樹影譚」という言葉にとらわれてしまったんでせうね。

 「樹影譚」はとっても面白い小説でした。
 どこがどう面白ひかは村上さんの「若い読者」をどふぞ。

 いや、そんな間接アプローチがまどろつこしひ
 (村上春樹さんの助け・指導などいらぬ)
 といふ人は、さいしょから「樹影譚」をご覧くださいまし。
 

2010年12月9日木曜日

 マイブーム~丸谷才一さん~


                 (有明海越しに雲仙岳を望む。)

 最近のマイブームは丸谷才一さん
 結婚式等でおこなつた挨拶をまとめた新作「あいさつは一仕事」
(朝日新聞出版)
 これにはまりました。
 
 以前にも、いくつかたのしく読んだことはあつたのものの
 今回がいちばんおもしろく感じました。

 なぜいまブームなのか?
 年齢のなさるわざか、それとも…(ほかに思ひつきません)。

 丸谷さんとしては、力を入れてゐる長編小説ではなく
 余技のひとつにすぎない挨拶集をほめられても不本意でせうが。

 1 学識は鹿爪らしくて苦虫を噛みつぶしたよふなものでなく
  明るくて、陽気で、機嫌のいいものだという考え方

 2 評論は読んでよくわかつて一向さしつかへないこと

 3 口ぎたなく罵らなくても
  文学と人生を批評する鋭い切れ味をみせることができること

 4 俗であること、あるいは世俗に対して激しい関心をいだくことが
  上品さ、高潔さときれいに両立すること

 5 変な遠慮や勿体のつけ方をせず
  まことに勇敢に女および女性的なものすべてを取り上げること

 6 遊び心を奔放に発揮することが
  すなわち人間と世界の新しい探求となり得ること

 いずれも私に親和的で、読んでいてじつに気持ちいい。

 丸谷さんの挨拶は、主役の人となりや業績を
 まことに的確にとらえて話をされてゐます。
 
 挨拶も、批評のひとつ
 批評とは、よひ点・悪ひ点などを指摘して、価値を決めること。
 (岩波・国語辞典)

 こつは
 1 「よひ点」はご本人ならびにまわりが納得するようなところを
  的確に・十二分にほめること

 2 「悪ひ点」はじようずに回避すること
  せひぜひが遠回しに指摘するにとどめること
 にあるようです。
 
 なるほど、ひごろの人つきあひにも十分つかへそうです。
 さすが一流の批評家はちがひます。
 毎日新聞の書評欄をながらく主催されただけのことはあります。

 「批評は近代には大いに力を振るつたが
 21世紀の今、批評が果たす役割がいかばかりなのか疑問ももたれてゐる。
 ことにインターネットの日常化により
 批評家といふプロの存在が危うくなつてゐるかもしれない。」
 (はてなキーワード)などといわれてゐますが、はたしてそうでせうか?

 たしかに、家電量販店などにいくとランキングNo.1、売れ筋No.1といふ
 アイテムが安心感があり、これにしたがって購入したりします。

 しかしながら本や人、業績となるとちよつとちがう感じ
 家電とちがい、読み方にはレヴェル・深さの問題があるからです。

 それぞれの読みでいいことは否定しませんが
 達人に読み方を教えてもらふと、深く味はへることがあります。

 また未知の世界へも連れていってもらへます
 先達はあらまほしきことなり、です。  

 弁護士という仕事がら、挨拶をおおせつかる機会がときどき
 ですが、これがなかなかにむずかしひ、たしかに一仕事。

 うまくいつたと感じられるのは、せひぜひ3回に一度てひど
 用意したジョークがすべると、かならずダメですね
 野球選手ならこれくらいの成績でよいのでせうが。

 さすがの丸谷さんでも失敗することがときどきあるとか
 すこし慰められます。