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2023年6月8日木曜日

笈の小文(1)伊良湖岬

 
(松本へ向かう飛行機の窓から。中央は伊勢湾、その向こうは太平洋。右側の陸は手前から松坂、伊勢、鳥羽。左側の陸は手前からセントレア空港、知多半島、三河湾の向こうに渥美半島。渥美半島の先端が伊良湖岬)

 芭蕉の紀行文に『笈の小文(おいのこぶみ)』がある。『おくのほそ道』の旅にでかける2年前、江戸から故郷の伊賀へ帰る里帰りの旅である。

里帰りだけでなく、関西各地の歌枕をめぐり、最後は須磨までの紀行文である(実際の旅は、その後、関西の旅、更科紀行の旅を経て江戸に帰るまで続く)。

芭蕉の死後15年も経ってから、弟子の乙州(おとくに)が出版したもの。そのため、分からないことも多い。

未定稿。芭蕉の発句や俳文で構成されていることは疑えないけれども、乙州の手がどの程度入っているのか、編集がなされているのか謎である。

この紀行をいま読み返している。そのいきさつはこう。

『笈の小文』は、冒頭の記述のあと、なぜか、名古屋の鳴海からはじまる。箱根も富士も遠江(浜名湖)も描かれない。

鳴海から、芭蕉は三河の国保美という處に二十五里戻る。保美は渥美半島の先端にちかい。写真でいうと、左上のほう、左から矢のように突き出ているのが渥美半島。その鏃(矢尻)の中央部分に保美はある。

100キロであるから25時間かかる。ナビで検索してみたところ、やはり99.6キロ。一日50キロ歩いても、まる2日かかる行程である。

旅の途中でなぜ100キロも後戻りしたかというと、愛弟子の杜国が罪人としてそこに流されていたから。杜国の罪は米の空売りである。

かれは裕福な米穀商だったが、在庫がないのに売るのは行きすぎ。ある種の詐欺である(現在では、流通が発達しているので、すべてが犯罪というわけではない。先物取引などは、いまだ実在しない商品の売買をあらかじめ行っている)。

「笈の小文」を読めば分かるが、ふたり旅のあいだ、芭蕉はとてもはしゃいでいて、単なる師弟関係以上のものがあったといわれる。恋人が罪をえて失意の底にあるときけば、彼を慰めるのに100キロの道のりもなんのその。

かれらは、伊良湖岬を訪れている。保美からわずか一里ばかり。1時間ほどの行程である。

天武朝の皇族麻績王(おみのおおきみ)は伊良湖に流されている。古くから流刑地だったようだ。その歌。

 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良湖の島の玉藻刈り食す

伊良湖岬は、三河の国の地つづきなのだけれども、万葉集では伊勢の名所に選ばれている。なぜか。写真を見ればわかるとおり、船便なら近いからである。

紀伊半島を度外視すれば、本州の南端に位置している。そのため、秋には南から鷹が渡ってくる。鷹は冬の季語だが、鷹渡るは秋の季語である。

西行の歌がある。伊勢で詠んだという。

 巣鷹わたる伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな

巣鷹は飼育された鷹のこと。臆病なので、木に戻ってしまう。芭蕉らは、麻績王や西行の歌は当然知っていた。

罪人の杜国はもちろん、芭蕉も心細い気持ちだったろう。そこで詠んだ句。

 鷹一つ見付てうれしいらご崎

もちろん、鷹とは杜国のことである。

冬の鷹といえば、吉村昭に同名の小説がある。Amazonの解説によればこう。わずかな手掛かりをもとに、苦心惨憺、殆んど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する・・。

100年後に苦労したこちらの冬の鷹も世渡りが下手だったのだろう。吉村昭の小説は、新潮文庫の100冊に選ばれていたので、読んだのだったと思う。残念ながら、さいきんは選に漏れているようだ。はやらないのだろうか。

                                    (つづく)

2022年12月13日火曜日

伊良湖岬と椰子の実と鷹とアサギマダラと日本人

 

 高校時代の恩師は、翌日雨のなか、椰子の実記念碑・歌碑を訪ねられたという。

記念碑・歌碑は島崎藤村作詞の「椰子の実」の歌を記念するもの。この歌、ご存じだろうか。

 ♪名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ

歌詞は実体験に基づく。しかし藤村のオリジナル体験ではなく、柳田國男の体験を拝借したものである。

柳田は大学生のころ身体を悪くして伊良湖崎で一ヶ月静養したことがあった。その際、海岸を散歩していて、椰子の実が流れて来るのを見つけたのだという。

東京に帰って近所に住んでいた藤村にその話をしたら、彼はすかさず「君、その話をぼくに呉れ給へよ」と言って、「椰子の実」を作詞したらしい。椰子の実が流れ着いたという旅先での一経験をもとに、誰もが感動する詩に見事にしたてあげたのである。藤村の詩人としての感覚と実力の確かさだろう。

柳田はこの経験が悔しかったのか、その体験を文章にしたほか、のちに『海上の道』を著わし、日本人は南方からやってきたという日本人起源論を公表している。藤村にせよ、柳田にせよ、すごい。海岸に漂着した椰子の実ひとつのエピソードから、自分の本業の業績に結び付けるのだから。

梅雨まえの季節になると、ミヤマキリシマが九重山や霧島連峰を赤く染める。植物学者の牧野富太郎博士は新婚旅行の際、これに目をとめ、ツツジの新種であることを鋭く見抜きミヤマキリシマと命名したという。

世に名を残した偉人たちは、日ごろの疲れを癒やすためにのんびり旅行をするなどという術(すべ)を知らないのだろうか。われわれ凡人たちにはできない荒技である。

さて、きのうは鷹(サシバ、ハチクマ)の渡りのことを書いた。海路、椰子の実が南の島から渡ってくるのであれば、空路、鷹が南の島から渡ってきても不思議ではない。鷹の渡りについて、西行の歌や芭蕉の句があることも昨日紹介した。

ところで、「鷹」は冬の季語、「鷹の渡り」は秋の季語である。ここで、あれ?っと思わないだろうか。

鷹は南の島から春に日本列島に渡ってきて、秋に南の島へ渡っていく。だからこそ、鷹の渡りは秋の季語であり、伊良湖岬では毎年9月から10月にかけてたくさんの鷹が南へ渡っていくのが観察できるのである。

そうなると、鷹は冬には列島にいないはず。なのになぜ、鷹は冬の季語なのか?グーグルさんに訊いてみると、俳人のかたでおなじようにあれ?と思った方がいた。でもその方も答えにたどりつかなかったようだ。

われわれにとって『冬の鷹』といえば、吉村昭の小説だ。江戸時代、前野良沢はオランダ語の解剖書を苦心惨憺のすえ「解体新書」に翻訳。如才ない杉田玄白の名が世間に売れる一方で、良沢は名を知られないまま孤高の晩年を貫く。

ということで、冬の季語としての鷹は、群れをなして暖かい南の島へ行ってしまう鷹ではなく、他の鷹がいなくなったあと、ひとり列島で孤高を貫く鷹の意味ではなかろうか。例句もそのような意味のようだ。

さらにところで、恩師の投稿によると、伊良湖崎はアサギマダラも渡ってくるそうだ。アサギマダラは蝶でありながら、秋に南西諸島・台湾に渡り、夏には逆コースを北上して、1500キロメートル以上も移動した個体もいるという。

九州の里山で目撃することもある。日本アルプスの稜線を多数が舞い飛んでいるところに遭遇したこともある。

九州人であるせいか、これまでばくぜんと沖縄、奄美、屋久島、九州、四国、中国、本州と島伝いに渡っているのだろうと思っていた。ところが、太平洋からダイレクトに伊良湖崎へ渡って来る個体もあるということらしい。なんというロマン。

小さい身体ながら渡りをしなければならないとはたいへんだ。とこれまで思っていた。しかしコロナ禍のなか思う。鷹やアサギマダラのやり方もリゾート的で、うらやましいと。冬は南の島で暮らし、夏は比較的温暖な列島ですごすのだから。

柳田説には批判もあるようだ。しかし、椰子の実や鷹やアサギマダラも大挙して渡ってくるのである。人類だって渡ってきたっておかしくない。

南から渡ってきた人類が日本人の起源にならなかったとすれば、その人たちの性格がおだやかだったので、北から来た陰険な人たちに攻め滅ぼされたせいかもしれない(あっ、それって、われらのご先祖さま?)。