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2023年6月19日月曜日

笈の小文(5)源氏物語か平家物語か

 


 『笈の小文』と秋の関係について、もう一つの考えは『笈の小文』には秋の景を描ききれなかったということが考えられる。

それは弟子の乙州が芭蕉の死後、『笈の小文』と『更科紀行』をセットで出版したことにあらわれている。

『笈の小文』の旅と『更科紀行』の旅は、実際には同じ旅。すなわち江戸を出発し、故郷の伊賀で年を越し、流刑中の杜国と関西の歌枕を旅し(京都で別れ)、さらに名古屋から木曾谷を経て信州更科で月見をして江戸に帰るという旅である。

旅行記であれば、一つのストーリーで完結したはず。しかし創作を含む紀行なので、芭蕉のなかで迷いがあったのではなかろうか。最後まで迷いは解決せず、未定稿のまま残されたのではなかろうか。

その迷いは、『更科紀行』を合体した構成にするのか、分離した構成にするのか。合体させれば、冬、春、夏ときた『笈の小文』の旅は秋で完結することになる。しかし、そうすることを憚らせる事情があった。

『笈の小文』は単なる四季の旅の記録ではない。愛する杜国との逃避行の旅の記録でもある。伊良湖岬で出会い、伊勢で合流した二人は、吉野の桜を愛で、関西の歌枕を尋ね、須磨・明石を経て、京都で別れる。

むかしある少年Aの付添人をしたことがあった。成人と異なり、少年には試験観察という中間処分がある。そのまま最終処分をすれば少年院送致になるのだが、がんばれば立ち直れるのではないかという少年用の処分。

試験観察には家庭でおこなうものだけでなく、家裁が委託した仕事先でおこなうもの(補導委託)がある。少年Aは筑後地区で仕事を提供する補導委託先に半年ほど預けられた。

ところが、しばらくして彼は補導委託先から逃げ、当職のもとを訪ねてきた。もう18時を過ぎていた。追い返すわけにもいかない。家庭裁判所(当直)にはその旨一報を入れた。

とりあえずその日は近くのホテルのツインの部屋を借りて、ふたりして宿泊した。そして翌朝、家裁にあらためて連絡した。

家裁では大騒動に発展していた。ま、非行少年が逃亡したわけだから、逃亡罪という犯罪である。当職も下手をすると、その援助罪が成立する可能性があった。家裁からはきつくお叱りを受けた。

流刑中の杜国と芭蕉の旅を読むと、いつもこの事件のことを思い出す。芭蕉たちは、つかまれば大罪を問われる覚悟をしていただろう。愛の逃避行である。

関西各地の歌枕を旅した芭蕉たちは須磨までやってきた。目の前は明石海峡を経て淡路島。明石海峡は須磨と明石を左右に分けている。いわく。

 淡路島手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。呉楚東南の詠もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さまゞの境にもおもひなぞらふるべし。

呉楚東南の詠とは、むかし漢詩でならった杜甫の「登岳陽楼」である。いわく。

 昔聞く洞庭水、今上岳陽楼、呉楚東南折、乾坤日夜浮

芭蕉たちは、地形的に、大きな岐路に立っていた。文学的にも岐路に立っていた。源氏物語路線か平家物語路線かである。

源氏物語では罪を得た源氏は須磨で流寓したのち、明石で罪をあかして都へ帰っていく。平家物語では、平家の公達や女房たちの多くはここで滅亡してしまう。

芭蕉は、実際の旅でも、『笈の小文』の筆のうえでも、ここで迷ったのではなかろうか。そのすえ、平家物語の滅亡のイメージが優勢となり、杜国と分かれる決心をすることになったと思われる。

2023年6月15日木曜日

笈の小文(4)わびさび

(明石海峡)

 『笈の小文』には、四時を友とすといいつつ、秋が描かれていない。それはヘミングウェイがいうところ「氷山の理論」による省筆によるものである。と書いた。こう書くと、ヘミングウェイは芭蕉より300年くらい後の人であるから、ちがうのではないかという意見もあろう。

しかし俳句という文芸そのものが、ある意味「氷山の理論」によってつくられている。「氷山の理論」とはこうだった。

もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、氷面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。

そもそも俳句のばあい、五七五の17文字でつくらなければならないという制約がある。小説のように、言葉を尽くして、すべてを描ききることはできない。

17文字であれば、氷面上の部分だけしか描写できない。氷面下に隠された八分の七の部分は読者の想像にゆだねるほかない。

もちろん『笈の小文』は紀行文であるから、小説のように書くこともできたであろう。しかし芭蕉の頭のなかでは句作とおなじ意識がはたらいていたのではなかろうか。

芭蕉の俳句には「わびさび」の精神があるといわれる。わびさびとは、質素なものにこそ趣があると感じる心や、時の経過によってあらわれる美しさをいう。それは以下の代表句にあらわれている。

 古池やかわずとびこむ水の音

 閑さや岩にしみ入る蝉の声

紀行文も、「わびさび」の精神で書くとき、もっとも大事な部分を省筆して、読者の想像にゆだねることになる。

一番の例は『おくのほそ道』の松島の段。松島(の月)は『おくのほそ道』の旅のクライマックスである。しかるに、芭蕉は句をつくっていない・・ことになっている。

 松島やああ松島や松島や

人口に膾炙しているが、偽作。

 島々や千々に砕けて夏の海 (「蕉翁句集」)

実際にはこの句を詠んだ。しかし『おくのほそ道』では、松島のあまりの素晴らしさに詠めなかったことになっている。いわく。

 ・・その気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはやぶる神の昔、大山祇のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ。・・予は口を閉じて眠らんとしていねられず。・・

『おくのほそ道』は冒頭、「松島の月まづ心にかかりて」にはじまる。こうして読者の期待をさんざんじらしたうえで、クライマックスでの省筆。読者のイメージは爆発せざるをえない。

『笈の小文』でも、クライマックスは吉野の桜である。ここでも芭蕉は実際には句を詠んでいる。

 花ざかり山は日ごろのあさぼらけ

しかしやはり『笈の小文』では句が詠めなかったことになっている。いわく。

 よしのゝ花に三日とゞまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、・・われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとじたる、いと口をし。おもひ立たる風流、いかめしく侍れども、爰に至りて無興の事なり。

こちらも出発にあたり、「そゞろにうき立つ心の花の、我を道引枝折となりて、よしのゝ話におもひ立んとするに」とか、「よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠」などと読者の期待をあおっている。そうして読者の期待を十二分にふくらませたうえ、クライマックスでのストイックな省筆。読者のイメージは爆発せざるをえない。

おなじようにして、芭蕉は『笈の小文』の秋を描かなかったと考えることはできよう。

※そういえば、芭蕉とヘミングウェイは似ている気がする。

2023年6月14日水曜日

笈の小文(3)四時を友とす

 
(旗振山から須磨、明石海峡、淡路島)

 さて、ここからが本論。今回『笈の小文』を読んでいて、気づいた点が2つある。

 まずは、四時を友とすること。

『笈の小文』は読みにくいと書いた。江戸を出て、故郷伊賀を経て、関西各地の歌枕を遍歴する紀行文なので、起承転結、序破急がなく、まとまりがないように感じるのである。

しかし、よく考えればあたりまえなのなのだけれども、季語を華とする俳句をちりばめた紀行文なのであるから、バックボーンは四季である。

そう思って読むと、冬にはじまり、春をクライマックスとして、夏に幕を閉じている。ちゃんと序破急で構成されているではないか。

冬のメインは伊良湖岬における冬の鷹、春のメインは吉野における観桜、夏の〆は須磨における平家滅亡の幻視である。

そう考えて、よくよく読めば、冒頭にちゃんとこう書いてある。

 風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす。

四時とは四季のこと。つまり、四季を友として書いているからよろしく、ということである。

ただし、そうすると大きな問題が残る。お分かりと思うけれど、秋がなくてもよいのだろうか。四季のなかで、秋がもっとも趣があり好きという向きも多い。夏で終わってしまうと、三時しか友にしていないのではなかろうか。

ひとつの考え方としては、わざと書かなかったということ。ヘミングウェイのいうところの「氷山の理論」。いわく。

 もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、氷面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。

さてわれわれは、『笈の小文』を読んで、省略された秋の部分を強く感得できるだろうか。最後の部分、平家滅亡の幻視で文を結ぶ直前の記述はこうなっている。

 蛸壺やはかなき夢を夏の月

 かかる所の穐(あき)なりけりとかや。此裏の実(まこと)は、秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさはいはむかたなく、秋なりせば、いささか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。

月といえば秋。ただ月といえば、秋の月をさす。春の花、冬の雪とともに、秋の月は日本の四季を代表する。しかるに、ここでは夏の月となっている。蛸壺のなかの蛸がみている夢がはかないのは夏の月ととりあわせになっているからである。

「かかる所の穐なりけるとかや。」は『源氏物語』の「須磨」段によっている。いわく。

 須磨にはいとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜夜はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。

 在原行平の歌はこう。

 旅人は袂すずしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風

というわけで、少なくとも昔の文人は、須磨と聞いただけで、行平、源氏、平家滅亡という歴史的・多層的な秋のイメージを思い浮かべることができた。

『笈の小文』のラスト、芭蕉は秋の情景を描いていないけれども、源氏物語や行平の歌のイメージを援用しつつ、須磨の秋の情景を感得するよう読者に促しているのである。

                                   (つづく)

2023年6月13日火曜日

笈の小文(2)椰子の実


  というわけで、『笈の小文』は何度か読んでいたのだけれど、いま一つ浸りきれないと思っていた。芭蕉が自分で書いたものかどうか分からないし、未定稿だし、『おくのほそ道』に比べて地の文が少なく、はなはだ読みにくいのである。

『笈の小文』に出てくる土地々も、『おくのほそ道』に比べると、発句が1句あるきりで地の文がなかったりする。伊良湖崎も、そういう意味で字面では理解しつつも、抽象的な存在であった。

ところが昨年末、恩師がここを訪ねたとSNSに投稿された。そして島崎藤村の「椰子の実」の歌碑も見学されたという。

藤村は『夜明け前』を書いたあの藤村である。藤村の「椰子の実」の歌はこう。

 名も知らぬ遠き島より
 流れ寄る椰子の実一つ
 故郷の岸を離れて
 汝はそも波に幾月
 旧の木は生いや茂れる
 枝はなお影をやなせる
 われもまた渚を枕
 孤身の浮寝の旅ぞ
 実をとりて胸にあつれば
 新なり流離の憂
 海の日の沈むを見れば
 激り落つ異郷の涙
 思いやる八重の汐々
 いずれの日にか国に帰らん

先に書いたとおり、伊良湖崎は本州の南端。南の国から鷹も渡ってくれば、椰子の実も渡ってくるのである。もしかすると、アサギマダラも渡ってくるかもしれない。

先日「ブラタモリ」で、種子島をやっていた。種子島には世界最大規模の海流である黒潮が南からやってくる。戦国時代、種子島銃を舶載したポルトガル船がやってきたのも、黒潮に流されてのことだという。

日本には南からいろんなものや文化がやって来るのだ。藤村はそれをきわめてロマンチックに歌っている。

しかしである。藤村はわがことのように歌っているが、実は椰子の実を見つけたのは、学友だった柳田國男である。柳田國男は『遠野物語』を書いたあの柳田國男。藤村は柳田から聞いた話を歌にしたてた。いまふうに言えば、藤村は柳田の経験をパクったのである。しかし、ここまで立派な歌になると、単なるパクリとはいえない。

話を戻すと、恩師の投稿をきっかけに、俄然、頭のなかを鷹や椰子の実やアサギマダラらが行き交い、伊良湖岬という名が生き生きと脈打つようになった。

かくて、旅好きとしては、是非一度尋ねてみたいと思うようになった。『笈の小文』をいま読み返している理由は、そういうことである。

2023年6月8日木曜日

笈の小文(1)伊良湖岬

 
(松本へ向かう飛行機の窓から。中央は伊勢湾、その向こうは太平洋。右側の陸は手前から松坂、伊勢、鳥羽。左側の陸は手前からセントレア空港、知多半島、三河湾の向こうに渥美半島。渥美半島の先端が伊良湖岬)

 芭蕉の紀行文に『笈の小文(おいのこぶみ)』がある。『おくのほそ道』の旅にでかける2年前、江戸から故郷の伊賀へ帰る里帰りの旅である。

里帰りだけでなく、関西各地の歌枕をめぐり、最後は須磨までの紀行文である(実際の旅は、その後、関西の旅、更科紀行の旅を経て江戸に帰るまで続く)。

芭蕉の死後15年も経ってから、弟子の乙州(おとくに)が出版したもの。そのため、分からないことも多い。

未定稿。芭蕉の発句や俳文で構成されていることは疑えないけれども、乙州の手がどの程度入っているのか、編集がなされているのか謎である。

この紀行をいま読み返している。そのいきさつはこう。

『笈の小文』は、冒頭の記述のあと、なぜか、名古屋の鳴海からはじまる。箱根も富士も遠江(浜名湖)も描かれない。

鳴海から、芭蕉は三河の国保美という處に二十五里戻る。保美は渥美半島の先端にちかい。写真でいうと、左上のほう、左から矢のように突き出ているのが渥美半島。その鏃(矢尻)の中央部分に保美はある。

100キロであるから25時間かかる。ナビで検索してみたところ、やはり99.6キロ。一日50キロ歩いても、まる2日かかる行程である。

旅の途中でなぜ100キロも後戻りしたかというと、愛弟子の杜国が罪人としてそこに流されていたから。杜国の罪は米の空売りである。

かれは裕福な米穀商だったが、在庫がないのに売るのは行きすぎ。ある種の詐欺である(現在では、流通が発達しているので、すべてが犯罪というわけではない。先物取引などは、いまだ実在しない商品の売買をあらかじめ行っている)。

「笈の小文」を読めば分かるが、ふたり旅のあいだ、芭蕉はとてもはしゃいでいて、単なる師弟関係以上のものがあったといわれる。恋人が罪をえて失意の底にあるときけば、彼を慰めるのに100キロの道のりもなんのその。

かれらは、伊良湖岬を訪れている。保美からわずか一里ばかり。1時間ほどの行程である。

天武朝の皇族麻績王(おみのおおきみ)は伊良湖に流されている。古くから流刑地だったようだ。その歌。

 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良湖の島の玉藻刈り食す

伊良湖岬は、三河の国の地つづきなのだけれども、万葉集では伊勢の名所に選ばれている。なぜか。写真を見ればわかるとおり、船便なら近いからである。

紀伊半島を度外視すれば、本州の南端に位置している。そのため、秋には南から鷹が渡ってくる。鷹は冬の季語だが、鷹渡るは秋の季語である。

西行の歌がある。伊勢で詠んだという。

 巣鷹わたる伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな

巣鷹は飼育された鷹のこと。臆病なので、木に戻ってしまう。芭蕉らは、麻績王や西行の歌は当然知っていた。

罪人の杜国はもちろん、芭蕉も心細い気持ちだったろう。そこで詠んだ句。

 鷹一つ見付てうれしいらご崎

もちろん、鷹とは杜国のことである。

冬の鷹といえば、吉村昭に同名の小説がある。Amazonの解説によればこう。わずかな手掛かりをもとに、苦心惨憺、殆んど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する・・。

100年後に苦労したこちらの冬の鷹も世渡りが下手だったのだろう。吉村昭の小説は、新潮文庫の100冊に選ばれていたので、読んだのだったと思う。残念ながら、さいきんは選に漏れているようだ。はやらないのだろうか。

                                    (つづく)

2023年4月26日水曜日

六甲山全山縦走(1)と源氏物語、平家物語、笈の小文

 




 この間、顧問会社の社員旅行に招待されて四国・松山、登山グループ怪鳥会の春登山で六甲山全山縦走、薬害肝炎原告団総会で岡山・倉敷に行った。

どれから書いてもよいけれども、写真の利用しやすさから、六甲山全山縦走についてまず書こう。

怪鳥会では、これまで春登山として、山口県の寂地山・十種が峰、熊本県の仰烏帽子・岩宇土山、大分県の由布岳、宮崎県の大崩山などに登ってきた。

ことしは目先をかえて神戸まで遠征し、六甲山を全山縦走することにした。西の須磨から東の宝塚まで、全部で44.6km、コースタイムで14~15時間のコースである。

わが会の実力に照らし、これを3日間にわけて縦走することにした。山上や有馬温泉での宿泊もありえた。が、交通の便が発達していることもあり、三ノ宮あたりのビジネスホテルに2泊した。夜は中華街や神戸牛で英気を養おうというグルメプランでもある。

初日は、朝一番の新幹線で新神戸まで。そこから地下鉄で板宿まで。そこから山陽電鉄で須磨浦公園まで。駅を降りると、すぐに旗振山への登山道である。

須磨といえば、ふるくは在原行平が流された場所。中納言行平は、業平の兄で百人一首にも歌をとられている。

 立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かばいま帰り来む

この故事に着想をえて、紫式部も源氏物語の須磨の段を書いたとか。光源氏もここで謹慎・蟄居した。そして西に転進して明石の地で、再び上げ潮に乗ることになる。

行平の故事はお能の『松風』にもなっている。松風と村雨の姉妹の海女は行平においてけぼりをくうのであるが、それは先の歌のイメージによるものである。

さらに平家物語でも悲劇の舞台となった。須磨の隣は一ノ谷。源平の激戦地だ。戦に敗れた平家の悲劇が伝わる。いまも須磨寺には、敦盛と熊谷直実の像がある。

これら故事は江戸時代の松尾芭蕉も感動させずにはおかなかった。「笈の小文」のラストで、芭蕉は須磨・明石を訪ねている。旗振山の峰続きに鉄拐山がある。芭蕉は平家物語に習って少年を先導にたて、ヒーヒーいいながら登っている。

昭和になってからは新田次郎の『孤高の人』の主人公、加藤文太郎だ。加藤はわれわれと違い、単独行の人である。和田の造船所ちかくの寮を出発し、一日で全山縦走し、その日のうちに寮に帰っていたという。驚くべき脚力だ。

こうした幾重にも積み重なる故事は、われわれが六甲山全山縦走をめざした動機のひとつである。

旗振山からは、西に、明石海峡、明石海峡大橋、淡路島をのぞむことができた。ぼやけているのは、腕のせいではなく曇天のせいだ(1枚目の写真)。

春の山行の楽しいところは、花の時期だということだ。六甲山も花の時期だった。道中、ミツバツツジやアセビが咲き乱れていた(2枚目の写真)。

この日のクライマックスは馬の背という難所。宝満山程度の標高ながら、北アルプスの雰囲気を楽しむことができた(3枚目の写真)。

六甲山はなだらかなようだが、小ピークが連続していて、たいへん。六甲というも、もっとたくさんある。登山道もつづら折りではなく、直登になっていたりして、しんどい。

旗振山のつぎは高倉山、高倉天皇の高倉だろうか?その次は栂尾山、そして横尾山とつづく。

難所は意外なところにあった。コースはときおり住宅街を突っ切ることになる。横尾山を下りて住宅街をつっきっていたら、道をみうしない迷ってしまった。

精神的ダメージを負ったわれわれは、次の高取山まででこの日の登山をあきらめた。高取山からは、東に、神戸市街をのぞむことができた(4枚目の写真)。

そこから降りて、鵯越駅から電車に乗った。鵯越(ひよどりごえ)は、鵯越の逆落としで有名なところだ。詳しくは平家物語をご覧あれ。

                                    (つづく)

2023年4月3日月曜日

雉も鳴かずば撮られまい

 

 大宰府政庁跡あたりを歩いていたら、桜もそろそろ終わりで、桜吹雪が散り敷いていた。すると、ギャギャッという動物園で聞くような鳴き声が。

一瞬、猿かなにかと思ったが、よく考えてキジだと思い当たった。このあたりでキジにであうのは3回目である。出会わないけれども、鳴き声だけ聞こえたことも2度ある。

鳴き声のしたほうへ接近していくと、左手方面から右手方面へキジくんが歩いている。かれもまたお散歩中のようである。

これまでは近づくと逃げてしまっていた。今回は3度目のせいか、ちかくまで寄ってもあまり逃げようとはしなかった。おかげで、かなり近くで写真を撮ることができた。

よく見ると、すごく派手だ。顔面は真っ赤。お面をかぶっているよう。歌舞伎役者も顔負け。デコルテには紫とエメラルドグリーンのチョーカー。胸のあたりはビロードような緑。背中は緑と茶でリズミカルなうろこ模様。そして尻尾が水平にピントのびて美しい。

あいにく吉備団子を持参していなかった。30分もあれば梅が枝餅を買ってこれそうだが、間に合いそうもない。残念ながら、鬼退治の家来にしそこねた。

雉も鳴かずば撃たれまい。あまりよい意味のことわざではない。たとえば、悪代官と越後屋が謀議をしている・・。

 越後屋:お代官さま、最近、神田町の佐平治のやつがわれわれのことをしきりと嗅ぎ回っていますぜ。

 悪代官:心配するな。始末するよう、配下の者にすでに指示しておる。

 越後屋:さすがお代官さま、手回しが早い。それにしても佐平治のやつ、雉も鳴かずば撃たれまいに。

みたいな。わがキジくんも鳴かなければ、写真に撮られることもなかったろう。つまり、キジも鳴かずば撮られまい。

ところで、キジはケーンケーンと鳴くといわれる。しかし、そうは聞こえない。さきに書いたようにギャギャッと聞こえる。動物の鳴き声というか金属音ぽいというか。

どちらでもよいかもしれないが、芭蕉の句があるので、そうもいかない。『笈の小文』に、つぎの句がある。

 ちゝはゝのしきりにこひし雉の声

笈の小文の旅中、杜国とともに高野山を訪ねたときの句。奥の院には戦国武将の墓がたくさんある。松尾家は武家でもはしくれのほうだったらしいが、その墓もあったらしい。

これには本歌がある。

 山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ

行基菩薩の詠という。ほろほろでないことは明らかだけれども、ケーンケーンなのか、ギャギャッなのか。句の印象はだいぶ違う。

後者の「鋭く哀切な響き」に芭蕉の父母への愛を感じるべきなのであろう。もちろん雉、雉鳴くは春の季語である。

2022年12月12日月曜日

伊良湖岬とLGBT

 

 写真は、FDAの飛行機で松本に向かう途中、名古屋上空から伊勢湾方面を望んだところ。左側手前が愛知県の知多半島、向こうが渥美半島。右側が三重県の志摩半島。

渥美半島の西の端(右端)に伊良湖岬がある。その向こう側が恋路が浜。志摩半島の先端は鳥羽。なお、知多半島の中央西にセントレア空港が浮かんでいる。

高校時代の恩師が伊良湖岬あたりを旅行中とSNSに報告していた。恩師は大阪住まいである。ではどうやって伊良湖岬へ行ったのか。

陸路を行くとなかなかたいへんである。ナビタイムによると、新幹線で名古屋、そこから豊橋駅へ行き、10分歩いて新豊橋駅、そこから豊橋鉄道渥美線で終点の三河田原駅まで行くことになる(約2時間)。そこはいまだ半島の真ん中辺であるから、残りはバスとなる。

海路が意外と近い。近鉄で鳥羽まで行く。そこから伊良湖岬までは伊勢湾を横断するフェリー便があり、1時間弱である。バス便より楽しそう。恩師もこちらのルートを選択したようだ。

伊良湖岬はまえまえから一度訪ねてみたかった。「笈の小文」で芭蕉が訪ねているから。

芭蕉には杜国という愛弟子がいた。当時、杜国は空米を売った罪で死刑になり、その後、罪一等を減じられ、渥美半島に島流しとなっていた(畠村→保美)。芭蕉はその弟子を慰めるために渥美半島を訪ねたのである(以下、引用は『芭蕉紀行文集』(岩波文庫)の「笈の小文」より)。

 三川の國保美といふ處に、杜國がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋がへりて、其夜吉田に泊る。

 寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき

 あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。

 冬の日や馬上に氷る影法師

伊良湖岬と伊勢の間の海上交通路は、古代、物流の重要な手段だったようで、伊良湖の窯で焼かれた瓦が伊勢や伊賀を経由して奈良に運ばれ、東大寺の瓦として利用されたのだそう。

伊良湖岬は万葉の時代から伊勢の一部をなす島(博多でいえば、能古島みたいな感じか)と考えられ、万葉の時代から島流しされる場所であったよう。このような歌のやり取りがある(万葉集)。

 天武4年(676年)天武朝の皇族で三位の麻続王が罪をえて伊良湖に流されたとき、里人が哀傷して

 打ち麻を麻続王海人なれや伊良虞の島の玉藻かります 

 王がこれに和して詠んだ歌

 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食す

こうした故事などを踏まえて、「笈の小文」。

 保美村より伊良古崎へ壱里斗も有べし。三河の國の地つづきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に入られたり。

鷹(サシバ、ハチクマ)は渡り鳥で、春に来て、秋に南に渡るようだ。伊良湖は渡りの拠点となっていて、大規模な群れがみられるという。

 此渕崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし

 鷹一つ見付けてうれしいらご崎

いらご鷹など歌にもよめりとは、例によって西行の歌のこと。

 すたか渡るいらごが崎をうたがひてなほきにかくる山帰りかな

芭蕉の句にある鷹一つは、杜国を念頭においてのことらしい。いままでであれば、「男色か、気色わるい」という感じだった。しかし、最近は認識を改めなければならないと思うようになった。

若手弁護士らがLGBT差別解消に取り組んでいたり、LGBTの人たちが人口の10%を占めるという啓発広告をみるようになった。いままで迂闊な発言をしていないか反省することしきりである。

陸路だと遠いと思っていたところが、海路だと意外とちかい。LGBTも意外と身近なところにあるのだろう。

2022年1月20日木曜日

『芭蕉の風景】


  ひさしぶりにジュンク堂の仮店舗をぶらぶらしていたら、『芭蕉の風景 上・下』(小澤實著・ウェッジ刊)が目につき、購入した。アマゾン読書では得られない醍醐味だ。

小澤氏は昭和31年長野県生まれの俳人。新幹線によく乗る人はご存じだろうが、ウェッジは新幹線に乗るようなビジネスパーソンむけの月間誌を発行している会社だ。

芭蕉が訪れた地を小澤氏が訪問して解説・体験し、結びに句を披露するという内容。旅心をくすぐる記事として「月刊ウェッジ」に連載されていたのだろう。それをまとめたような本だ。

上巻は紀行文『野ざらし紀行』『笈の小文』『更科紀行』などに関するもの。下巻は『おくのほそ道』などに関するものだ。

『おくのほそ道』について、おなじ行程を旅してみたという趣旨の本は複数ある。なかでも、俳人が書いた文書だけに、この本は読ませどころが多い。

それよりこの本がよいのは上巻。いままで『野ざらし紀行』『笈の小文』『更科紀行』ゆかりの地を歩いたというものは読んだことがなかったので、とても面白かった。

『野ざらし紀行』も『笈の小文』も江戸をでて、途中箱根・富士のことに触れていきなり名古屋辺のことだったりする。芭蕉が伊賀出身であることや、名古屋辺にお弟子さんがたくさんいたことが影響していよう。

おなじ旅程をたどるといっても、むずかしい。曽良のような几帳面な同行者がいて正確な旅日記を残していれば、それに依拠することもできよう。しかし同行者はいるものの、そのような記録は残されていない。

『野ざらし紀行』や『笈の小文』の旅程をたどってみたという本に出会ったことがなかったのは以上のような理由だろう。

この本はそれをどう克服したか。紀行文のほうから攻めずに代表句のほうから攻めて克服している。ときどきの代表句を紹介する、そしてそれにゆかりの地を訪ね、自分の紀行文としてまとめる。ある程度分量がたまったところで、これこれの代表句は『野ざらし紀行』のときのものだ、『笈の小文』のときのものだとまとめるという手法である。

なるほど、これなら旅程をぜんぶたどる必要はない。それでいて、やはり『野ざらし紀行』や『笈の小文』の旅程をたどったような気になれる。

芭蕉に興味がなくとも、名古屋、伊勢、伊賀上野、長谷寺、吉野、高野山、和歌浦、奈良、葛城山、当麻寺、東大寺二月堂、唐招提寺、大津、関ヶ原(不破の関)、大垣、桑名、熱田神社、須磨、明石など関西・中部の観光地や寺院がたくさんでてくる。もちろん雪月花も。楽しく美しい一冊。ぜひご一読を。

2021年8月1日日曜日

出羽三山ー月山・湯殿山

 
(月山)


(ハクサンチドリ)


(山桜)


(湯殿山神社鳥居)

 八日、月山に登る。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月行道の雲関に入るかと怪しまれ、息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月顕る。笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。
 谷のかたはらに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、霊水を選びて、ここに潔斎して剣を打ち、つひに月山と銘を切って世に賞せらる。かの竜泉に剣をにらぐとかや、干将・莫耶の昔を慕ふ。道に堪能の執浅からぬこと知られたり。岩に腰掛けてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ば開けるあり。降り積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花の心かわりなし。炎天の梅花ここにかをるがごとし。行尊僧正の歌のあはれもここに思ひ出て、なほまさりておぼゆ。総じてこの山中の微細、行者の方式として他言することを禁ず。よって筆をとどめて記さず。
 坊に帰れば、阿闍梨の求めによりて、三山巡礼の句々、短冊に書く。

 涼しさやほの三日月の羽黒山

 雲の峰いくつ崩れて月の山

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな

 湯殿山銭踏む道の涙かな 曽良

 尿前の関の段で、そこが初折りと名残りの切れ目であり、市振の関までが宇宙めぐり、宇宙、太陽、月、銀河がテーマとなると書きました。

いよいよ日月行道の雲関を越えます。さすれば、日没して月顕れ、月の山となります。

月山は標高1,984メートルの日本百名山。山頂には月山神社があります。花の百名山にも選ばれており、選定理由となった花はウズラバハクサンチドリ。

俳諧の求道者である芭蕉は、他の分野の求道者にもつよい親近感を覚えています。『笈の小文』の冒頭、つぎの文があります。

 つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。

ここでは刀鍛治の求道者。刀を打つことにも道はあります。貫道するものは一つです。刀剣には国宝に指定された芸術品があります。月山の銘を刻んだ刀剣は機能性とデザイン性の高さで全国に広まりました。

山中で芭蕉たちをもてなしたのは山桜です。行尊僧正の歌は百人一首に採られています。

 もろともにあはれと思へ山桜 花より外に知る人もなし

湯殿山はいまでも「語るなかれ、聞くなかれ」、写真撮影禁止。世界遺産となった宗像大社の沖ノ島とかもそうです。秘すれば花なり(世阿弥『風姿花伝』)。

2021年7月5日月曜日

あたらしい歌枕・登米


(モネの睡蓮@ビュールレ展)

  思ひかけずかかる所にも来たれるかなと、宿を借らんとすれど、さらに宿貸す人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道迷ひ行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などよそ目に見て、遙かなる堤を行く。戸伊摩といふ所に一宿して、平泉に至る。その間二十余里ほどとおぼゆ。

思いがけず石の巻に来て、宿を借りようとしたけれども借りられず、平泉にむけて出発したけれどまた道に迷い、袖の渡りなどの歌枕には行き損ねたらしい。またまたほんとうでしょうか。

ここも『曽良随行日記』によれば、事実と異なっていて、実際はそれなりのもてなしを受け、道迷いもなかったらしい。芭蕉がこのように旅程を困難に暗く書いているのは、念願の目的地である平泉や金色堂をより光かがやかすためであるとされています。

芭蕉は『笈の小文』で、紀行文とは何かについて、こんなことを書いています。

 抑、道の日記といふものは、紀氏・長明・阿佛の尼の、文をふるひ情を盡してより、餘は皆俤似かよひて、其糟粕を改る事あたはず。まして淺智短才の筆に及べくもあらず。其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどといふ事、たれゝもいふべく覚侍れども、黄奇蘇新のたぐひにあらずば云事なけれ。

小・中学校のときに、日記の書き方について、先生から指導されたとおり。朝起きて、顔洗って、歯を磨いて、ご飯を食べて、着替えて・・・ということを書いてもしかたがない。なにかしら新しいことや興味あることを書かないと、面白くないし意味がないというわけです。

 されども其所ゝの風景心に残り、山館・野亭のくるしき愁も、且ははなしの糧となり、風雲の便りともおもひなして、わすれぬ所ゝ跡や先やと書集侍るぞ、猶酔者の妄語にひとしく、いねる人之譫言するたぐひに見なして、人又亡聴せよ。

とは言っても、いろいろと旅の思い出などを書き連ねるので、フィクションと思って話半分に聞いて欲しい。なるほど、分かりました。

松島から平泉まで、姉歯の松、緒絶えの橋、袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の萱原という5つの歌枕がありましたが、全部スルー。各歌枕の地元の観光協会としてはさぞかし悲憤慷慨でしょう。

「昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代われば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみ」(多賀城碑の段)なので、歌枕を尋ねる気力が失せたのでしょうか。

そして歌枕をスルーして遙かなる堤を行く。遙かなる堤は北上川の土手です。そして芭蕉一行は、戸伊摩(といま)といふ所に一宿しました。

戸伊摩って、どこか分かりますか。いまの登米町(とよままち)です。登米って、どこか分かりますか。いまのNHK朝ドラ『おかえりモネ』で、主人公の百音ちゃんが夏木マリの家に下宿して森林組合の職員として働いているところです。

百音ちゃんは、いま気象予報士めざして勉強に励んでいます。ひとつまえの石の巻で、日和見(観天望気)の話をしましたので、うまいぐあいに響きあっています。

モネちゃんは百音と表記されていることから、音と関係が深いのでしょう。主題歌はBUMP OF CHICKENの「なないろ」です。なないろは、もちろん虹の色でしょうが、百音ともひびきあっているのでしょう。

歌を歌った場所が歌枕だとするなら、登米は最新の歌枕じゃないでしょうか。♪闇雲にでも信じたよ きちんと前に進んでいるって・・それでもいい これはぼくの旅

ということで、道迷いしながらも、芭蕉の旅は念願の平泉に至ったのでした。パチパチ。

2021年7月4日日曜日

こがね花咲く・石の巻

 

 十二日、平泉と志し、姉歯の松・緒絶えの橋など聞き伝へて、人跡まれに、雉兎蒭蕘の行きかふ道そことも分かず、つひに道ふみたがへて石の巻といふ港町に出づ。「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。

芭蕉一行は、松島から平泉をめざしました。途中、姉歯の松、緒絶えの橋などの歌枕を尋ねようとしたものの、道に迷ってしまい、あやまって石の巻についてしまったというのです。ほんとうでしょうか。

『曽良随行日記』によると、実は迷ってはいないらしい。ではなぜ真実のとおり書かなかったのか。人から、姉歯の松はどうでした?緒絶えの橋はどうでした?と訊かれたときに、道に迷いましてな・・・というかんじでしょうか。

ともあれ、芭蕉らは石の巻にある日和山にのぼったらしい。日和山は漁港であればたいがいどこにでもあり、観天望気(天気予報)をするために登る小高い山です。日和見主義とかいうばあいの日和見です。

そこから、まず「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山が見えたといいます。この歌を詠んだのは、松島夜泊で予告した大伴家持です。

大伴家持は、西鉄を毎日走っている旅人の子で、万葉集を編んだといわれています。この歌を詠んだ当時は、越中の国司(富山県知事)。おくのほそ道の後半、奈呉の浦を訪れたときにまたまた登場する予定です。

家持が歌を詠んで奉った相手は聖武天皇。当時、奈良の大仏を建立の途中でした。そして、仕上げのお化粧をする黄金が手に入らないなあと困ってありました。

するとなんというグッドタイミング、奥州のほうから黄金が見つかっりましたぞ~と献上されてきたのでした。

いまの大仏さまを見て金でコーティングされていたといわれてもピンときませんが、光背や脇侍を見ればいまでも金キラキンです。

黄金の献上を祝して元号は天平から天平感宝へ変更。家持の歌もこれを祝したものです。もちろん万葉集歌。

 すめろきの御代栄えむとあづまなる みちのく山に黄金華咲く

芭蕉は『野ざらし紀行』『笈の小文』の旅で奈良をたびたび訪れ、二月堂のお水取りにも参加していますが、大仏についての記述はありません。芭蕉の美的感覚にあわなかったのかなあと思いましたら、当時は松永久秀(吉田剛太郎@麒麟が来る)が焼いてしまって復興まえだったよう。

奥州の黄金は、奥州藤原氏の繁栄の源泉でもありました。平泉の金色堂は奥州で金が産出されていたことの象徴です。芭蕉があえて道迷いしたわけは、平泉をまえにこうした効果をだすためだったのかもしれません。

金華山は恐山、出羽三山とともに奥州三霊場の一つ。三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはないそうです。

ところがなんと、金華山は石の巻からは見えません。金華山は牡鹿半島の東北に位置していて、半島にじゃまされて見えないのです。それを心の目で見てしまう、いや見えてしまったほうがより効果的、芭蕉はそう考えたのでしょう。

「金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。」という部分は、やはり舒明天皇の万葉集歌を本歌ないし俤にしていますかね。

 大和には群山あれどとりよろふ、天の香具山登り立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ、海原は鴎立ち立つ、うまし国ぞ蜻蛉洲大和の国は

ところで石の巻は石ノ森章太郎の故郷です。いまの人なら『仮面ライダー』、ぼくらの世代なら『サイボーグ009』の作者。石の巻→石ノ森、めちゃ覚えやすいです。

古代のみならず現代のヒーローをもうみだした石の巻、とりわけお金に困らなくなる金華山、道迷いしてでも行きたいところです。