ラベル 実盛 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 実盛 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年8月15日日曜日

実盛の錦ー項羽の選択


小松の多太神社には、甲(かぶと)だけではなく、「錦の切れ」もありました。

「錦の切れ」の由来について、芭蕉は当然のこととして説明しなかったのでしょう。が、現代の読者には意味不明でしょう。平家物語や謡曲『実盛』には、その由来が説かれています。両者で少しニュアンスが異なりますが、ここでは謡曲のほうを引用しておきます。

 「また実盛が錦の直垂を着ること私ならぬ望みなり 実盛都を出でし時 宗盛公に申すよう 故郷へは錦を着て帰るといへる本文あり
 実盛生国は越前の者にて候ひしが近年御領に付けられて武蔵の長井に居住つかまつり候ひき このたび北国に罷り下りて候はば定めて討死つかつるべし 老後の思ひ出これに過ぎじ ご免あれと望みしかば赤地の錦の直垂を下し給はりぬ
 しかれば古歌にも 紅葉葉を分けつつ行けば錦着て家に帰ると人や見るらん と詠みしもこの本文なり
 さればいにしへの朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し 今の実盛は名を北国の巷に揚げ 隠れなかりし弓取りの名は末代にあり・・・」

実盛は、故郷が越前なので、その故郷に錦を飾りたかったのですね。

この「故郷に錦を飾る」という言葉は、みなさんもご存じでしょう。この言葉は、司馬遷の『史記』「項羽本紀」に由来しています。司馬遼太郎の古代中国小説に『項羽と劉邦』がありますが、その項羽です。

『項羽と劉邦』は、中国古代、漢の国が成立する時の話で、二大英雄の戦いを描いたものです。武力だけでいえば項羽が常に上回っていたのですが、人徳の大きさで結局のところ劉邦に負けてしまいます。

いま「キングダム」が人気ですが、あれは秦の始皇帝が建国する時代の話。秦帝国のあとが漢。『項羽と劉邦』の話は、その秦が滅び、漢が成立する直前の話です。

秦の都は関中にありました。関中の占領は劉邦のほうが早かったんですね。項羽はあとから関中に到着しました。勢力は項羽のほうが何倍も上です。劉邦は項羽に殺されそうになりながら、からくも関中を脱出します(鴻門の会)。

その後、劉邦は関中を焼き払ってしまいます。関中は四方が天険であり、ここを都とすれば項羽の勢力は安泰だったかもしれません。

そのように部下に諫められた際に、項羽が言った台詞がこうです。「富貴となって故郷に帰らないのは、錦をきて夜行くようなもの、誰にも知ってもられない」。

これが「故郷に錦を飾る」という言葉の由来です。この台詞の是非は歴史が証明しています。項羽は部下が諫めたとおり、故郷に錦を飾るより、関中を拠点として劉邦と対峙すべきだったでしょう。

『史記』が日本に輸入されて読み継がれるうち、「故郷に錦を飾る」という言葉は、いつしかよい意味に転化したのでしょうね。でなければ実盛も故郷に錦を飾りたいとは思わなかったでしょう。

2021年8月11日水曜日

小松ー実盛

 


 (義仲寺と芭蕉)

 この所多太の神社に詣づ。実盛が甲・錦の切れあり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より賜はらせたまふとかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、竜頭に鍬形を打つたり。実盛討死の後、木曾義仲願状に添へて、この社にこめられはべるよし。樋口の次郎が使ひせしことども、まのあたり縁起に見えたり。

 むざんやな甲の下のきりぎりす

小松駅から南西に歩いて10分ほどいくと多太神社があります。多太神社には、斎藤実盛の兜が奉納されています。

実盛(真盛)といってピンとくる人はすくないと思います。平家物語の巻第七によると、「倶利伽羅落」の次が「篠原合戦」、その次が「真盛」となっています。

本ブログ「忠義を貫かないで名を残した、武藤資頼」で紹介したとおり、武藤資頼はもと平家がたでしたが、源平合戦時に源氏に鞍替えして、いまに名を残しました。

実盛はこの逆。本文にあるとおり、もと源氏がたで、源義朝(頼朝、義経の父)から立派な兜を賜りました。が、源平合戦のおりには平家がたに鞍替えし、主は平宗盛でした。

平家軍は、倶利迦羅峠の戦いで敗れたのち、小松ちかくの篠原まで後退し、ここでリベンジの戦いを挑みます。しかし、ここでも木曾義仲の軍に敗れてしまいます。

実盛は当時73歳、ここを死に所と考え、最期まで奮戦します。が、ついに討たれてしまいます。討たれたけれども、いまに名を残しました。なぜでしょう。

戦さのあと、武功を確認するため首実検を行います。その際、どうも実盛に似ているけれども若すぎる。樋口次郎であれば、よく知っているはずだと訊いてみると、「あなむざんやな斎藤別当にて候ひけるぞや」。

樋口次郎によると、実盛は日ごろ、60を過ぎていくさにのぞむ時は、白毛を染めていこうと言っていたとのこと。老武者とて人にあなどられるのも悔しいと言って。

ちかくの池で洗ってみると、たしかに毛染めは落ちて、白髪に戻ったのでした。やはり首は実盛のものでした。

この話は当時の人々や芭蕉を感動させました。平家物語では特に一章もうけられていますし、謡曲『実盛』にもなっています。

われわれも60を過ぎました。若い連中に老武者とてあなどられないようにする必要がありますね。いまのところ、髪を染める必要はないようですが。

木曾義仲は、子どものころ実盛の世話になり、また彼の心意気にも感じたのでしょう。本文にあるとおり、多太神社に兜と願状を奉納して、実盛の成仏を祈願しています。

芭蕉は樋口次郎の決め台詞「あなむざん」を借用して、むざんやなの句を詠んでいます。夏草やの句に似ていますね。

きりぎりすはいまのキリギリスではなく、コオロギのことです(写真はキリギリス)。あなややこし。

芭蕉は、実盛だけでなく、木曾義仲もだいすきです。義仲が最期に討たれた琵琶湖のちかくに、慰霊のための義仲寺があります。芭蕉は大阪で亡くなったのですが、じぶんも義仲寺にほうむってほしいと遺言をのこしました。そのため芭蕉も義仲寺に葬られています。

義仲寺にはもちろん芭蕉の木が植えられています。芭蕉はバナナに似ています、そして破れやすい葉を風に揺らしています。