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2021年11月16日火曜日

理想か現実か(2)『誰がために鐘は鳴る』


  きのうの『スタートレック・ヴォイジャー』のプロットは、駅馬車をはじめ、西部劇のプロットとおなじだ。もっといえば、ベトナム戦争、イラク戦争やアフガン戦争ともおなじかも。

ちょうどおなじころ、ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』(上・下)(高見浩訳・新潮文庫)を読み終えた。40年ぶりの再読だ。

若いころは戦争スペクタクル、戦場恋愛ドラマとして読んだのだと思う。それが『日はまた昇る』より理解しやすかった理由だろう。

しかし、再読してみて、困難な課題を遂行する際の、不安、責任、孤独をよく描いていると感じた。こちらも年齢を重ねて、困難な課題をなんどか遂行し、これらの状況や感情をよく理解できるようになったからだろう。

ヘミングウェイじしん、共和国軍に加勢した経験とその際の義憤に基づくためか、簡潔を旨とする文体からすると、やや冗長なところがみられた。

(以下、ネタバレ)

舞台は、スペイン内戦。主人公ロバート・ジョーダンはアメリカ人。国際旅団義勇兵として共和国軍に荷担している。そして共和国軍の攻勢の一環として、敵の増援路にあたる山中に架かる橋を爆破するよう命じられる。敵はフランコ率いるファシスト軍である。

ここでも共和的価値観と全体主義的価値観の対立・抗争になっている。ボーグ集合体とたたかうヴォイジャーとおなじだ。ただし、当時の国内・国際情勢を反映して、複雑な構図となっている。

フランコ軍を支援しているのは、ファシズム国家であるドイツ、イタリアなど。こちらは分かりやすい。しかし、共和国軍を支援しているのは、20年まえに革命をなしとげたソビエト。共産勢力の伸張をおそれた英仏は共和国への支援をためらっている。

橋の爆破を遂行するため、ジョーダンは地元の山岳ゲリラたちの助けを借りる。そのなかには、ジョーダンと恋におちるマリアもいた。物語はジョーダンがゲリラたちと合流し、橋を爆破するまでの4日間のことである。

フランコ軍は、ドイツなどの援助により、多数の航空機をはじめ、戦車など機動力・戦力が圧倒している。対するジョーダンたちは貧弱な装備にくわえ、圧倒的な敵勢力をまえにした裏切りが生じたりして、死を覚悟せざるを得ない状況である。

ジョーダンは裏切り者をだしながらも、マリアとの愛を深め、ゲリラたちと家族のような気持ちの結びつきを強める。その結果ここでも、全体主義とのたたかいという大義と家族のようなゲリラたちとの犠牲という両立しがたい価値の選択に直面する。ヴォイジャーのジェインウェイ艦長が、宇宙平和とクルーたちの命との相克に悩んだように。

人間の弱さはゲリラ内部だけではなく、軍の主導部内にも蔓延していて、こちらの攻勢の情報は敵に筒抜けである。ファシスト軍は、こちらの攻勢を手ぐすねをひいて待ち構えている。味方の攻勢の失敗は明らかである。敵陣深くに潜入しているジョーダンには、誰よりそのことが分かる。それが分かりつつも、ジョーダンは作戦を実行する。

誰がために(弔)鐘は鳴る?タイトルの問いが重く響く。

浜崎あゆみのMが頭のなかをリフレインしていた(笑)。

2021年11月9日火曜日

『日はまた昇る』


  ヘミングウェイの『日はまた昇る』(高見浩訳・新潮文庫)2回目を読み終えた。反芻読書の実践である。以前は1回読めば、ほぼ理解できると思っていた。しかし最近は1回読んだくらいでは、ほとんど理解できないと思うようになった。

むろん、できる人もいるだろう。法曹を養成する司法研修所には優秀な人が集まっていた。東大や京大をでて司法試験に受かったのだから、あたりまえにも思える。しかし、そのなかにもやはりレベルに歴然たる差がある。

研修所での教育は、一般的・抽象的な法規範を個別・具体的な事実関係にあてはめる訓練を中心としていた。過去に起きた実際の事件の記録からプライバシー情報を抜き取った記録(白表紙と呼ばれた。)が配付される。それを読んで、事案を分析、事実上・法律上の問題を抽出し、自説を述べて小論文を完成させる。それを半日でやらされた。

われわれというか、自分は、白表紙を1回読んで薄ぼんやりと事案を把握、2回読んでようやく問題点がぼんやりと分かるというかんじだった。しかし、Kくんは違った。さーっと1回読んだら、問題点を的確に分析・指摘できたのである。

KくんはT大を現役で合格していた。学生時代は先生がたの論文を読んでいたそうである(そしてヨーロッパをバッグパックで歩いたそうである。)。そのせいか、われわれが知っている受験知識は乏しかった。

が、白表紙を読みこなす分析能力は格段に優れていた。裁判官になり、いきなり内閣官房に入れられた。その後もエリートコースを歩んだ。

話が脱線してしまった。Kくんならともかく、われわれ凡人は1度読んだくらいでは、小説は読み解けないと思う。自分の能力というか、その限界をそのように正確に把握できるようになったことが、この間の進歩といえるかもしれない。

(以下、ネタバレ)

 『日はまた昇る』は、6人の男女の愛憎劇である。女性1人に男性5人のアンバランス。女性はブレット、いわゆるファムファタル。運命の女性であり、男たちを破滅させる存在である。

男性側はブレットを中心にして、「ぼく」(ブレットの元恋人)、ぼくの友だち(ぼくの釣友だちのアメリカ人、ブレットを気にいっている)、ブレットの婚約者(破産手続中のイギリス人)、ブレットと最近交渉をもった彼氏(元ボクサーでユダヤ人)、新進気鋭の若き闘牛士(物語終盤、ブレットの彼氏となる)である。

「ぼく」らは、第一次大戦後心に深い傷を負って、パリで自堕落な生活を送っていたところ、スペイン旅行へ行き、釣や闘牛を通して、そこから回復していく(日はまた昇る)。

闘牛というお祭りの盛り上がりを背景に、物語も盛り上がっていく。闘牛は、日本の祭りと同じで、本来は神事のようだ。そのお祀りの周りに、お祭り(フィエスタ)が発生し、その目玉が闘牛という構造になっている。

岸和田出身のわれらに照らして言えば、だんじり祭りのようなものだ。その際に、一人の女子をめぐって、複数の男子が恋をして告り、誰が勝者となったのかという、どこかで聞いたようなプロットである。そうなると、われわれとヘミングウェイの違いは、このような素材にあるのではなく、構想力、筆力にあるということである。そうなのか。

闘牛は、一言で言えば、強い雄牛を闘牛士が殺すドラマである。その雄牛の興奮をなだめるため、本番まで去勢牛があてがわれる。

また闘牛士にも2つのタイプがある。牛の角のすれすれまで体をさらして、生と死のギリギリの線で魅せるタイプと、派手な装飾でそれっぽく見せるタイプである。新進気鋭の闘牛士は前者である。

そして、ヘミングウェイの作家としてのあり方や文体も前者である。派手な装飾で読者をあざむくあり方と決別し、そういう作家たちを非難してもいるのだろう。

フィエスタは、闘牛に出場する雄牛を中心としてグルグルと展開する。そういう意味でのこの小説の中心は、「ぼく」ではなくブレットのようだ。

まわりの男性陣は、あるいは、去勢牛のようにふるまい、あるいは、欺瞞的な闘牛士のようにふるまい、あるいは、正統派闘牛士として振る舞う。

1回目はストーリーを追うことに手一杯。2回目を読んで、このような楽しい読みをすることができた。本はまた読める。

2021年10月24日日曜日

日はまた昇る


この週末で、ヘミングウェイ『日はまた昇る』(高見浩訳、新潮文庫)を読んだ。

大学時代にいちど読んでいるので40年ぶりの再読である。学生のころは『武器よさらば』や『誰がために鐘はなる』はおもしろく感じたが、『日はまた昇る』はいまいちと思った。

再読してとても面白い小説と読んだ。ヘミングウェイは61歳で亡くなっている。彼よりすでに長生きしているから、あたりまえかもしれない。

でも 彼はこれを20代で書いたというのだから、さすがだ。冷徹な人間観察と克明な筆力がすごい。

 (以下、ネタバレ)

いわゆるモデル小説で、当時、ヘミングウェイがパリで交友していた仲間たちは、登場人物のひとり一人がAはだれ、Bはだれと分かったそうだ。小説家の友だちはもちたくないものだ。

学生のころは、小説家のイマジネーションがつくりだしたフィクションとして読んだ。しかし35年弁護士をやってみて、人間というのはこういうものだと思う。そういうリアリティを感じた。

第一次世界大戦で心に傷を負った登場人物たち、かれらはパリで交友しているが、みな不全感に悩んでいる(ロスト・ジェネレーション)。

そんななか、スペインへ鱒釣りと闘牛見物にみなで出かける。まずは鱒釣りをしながら、自然と交流し、癒やされていく。

そして闘牛。フィエスタという祭りの熱気が舞台となって、各人の生のあり方をあぶりだしていく。そんななか、かれらとは対照的な生き方が示される。生と死の狭間で凛として生きる闘牛士としての生き様である。

自堕落なかれらであるが、すんでのところで矜持をみせる。ラスト、日が昇った感じはしないが、そのような希望を抱かせるものにはなっている。