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2021年12月19日日曜日

『武器よさらば』


 『武器よさらば(A FAREWELL TO ARMS)』(ヘミングウェイ著・高見浩訳・新潮文庫)を読了。『誰がために鐘は鳴る』とおなじく、大学以来2度目の読了である。

『誰がために』はかなり覚えていたのに対し、『武器よ』はあまり記憶になかった。なぜだろう。映画鑑賞をはさんでいるので、記憶の定着度合いに差が出たのだろうか。

以前はロマンスとして読んだ記憶、今回はルポルタージュとして読んだ。新聞記者をしていたという作家のアイデンティティーを考慮してのことだろうか。

こういうと多数の異論をうけそうだけれども、『義経千本桜』とプロットが似ている(以下、ネタバレあり)。アメリカ人なのに、第一次世界大戦中のイタリアにわざわざ加勢する。大ケガをし、病院でキャサリンと運命的な出会いをはたす。

キズが癒えて全線復帰するも、イタリア軍の大規模な撤退に巻き込まれる。あろうことか脱走兵として処刑される直前、からくも窮地を脱する。以後、脱走兵となり、キャサリンとともにイタリアを脱出する。しかし・・・。

人間は敗れるべく運命づけられている。自身の戦争体験、戦争取材体験などに基づくヘミングウェイの哲学である。

「それと、英語の〝Arms”には、もちろん〝腕”という意味もあるから」、本書のタイトルには「愛する人のたおやかな腕に別れを告げる意」もある。(解説)。



2021年11月16日火曜日

理想か現実か(2)『誰がために鐘は鳴る』


  きのうの『スタートレック・ヴォイジャー』のプロットは、駅馬車をはじめ、西部劇のプロットとおなじだ。もっといえば、ベトナム戦争、イラク戦争やアフガン戦争ともおなじかも。

ちょうどおなじころ、ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』(上・下)(高見浩訳・新潮文庫)を読み終えた。40年ぶりの再読だ。

若いころは戦争スペクタクル、戦場恋愛ドラマとして読んだのだと思う。それが『日はまた昇る』より理解しやすかった理由だろう。

しかし、再読してみて、困難な課題を遂行する際の、不安、責任、孤独をよく描いていると感じた。こちらも年齢を重ねて、困難な課題をなんどか遂行し、これらの状況や感情をよく理解できるようになったからだろう。

ヘミングウェイじしん、共和国軍に加勢した経験とその際の義憤に基づくためか、簡潔を旨とする文体からすると、やや冗長なところがみられた。

(以下、ネタバレ)

舞台は、スペイン内戦。主人公ロバート・ジョーダンはアメリカ人。国際旅団義勇兵として共和国軍に荷担している。そして共和国軍の攻勢の一環として、敵の増援路にあたる山中に架かる橋を爆破するよう命じられる。敵はフランコ率いるファシスト軍である。

ここでも共和的価値観と全体主義的価値観の対立・抗争になっている。ボーグ集合体とたたかうヴォイジャーとおなじだ。ただし、当時の国内・国際情勢を反映して、複雑な構図となっている。

フランコ軍を支援しているのは、ファシズム国家であるドイツ、イタリアなど。こちらは分かりやすい。しかし、共和国軍を支援しているのは、20年まえに革命をなしとげたソビエト。共産勢力の伸張をおそれた英仏は共和国への支援をためらっている。

橋の爆破を遂行するため、ジョーダンは地元の山岳ゲリラたちの助けを借りる。そのなかには、ジョーダンと恋におちるマリアもいた。物語はジョーダンがゲリラたちと合流し、橋を爆破するまでの4日間のことである。

フランコ軍は、ドイツなどの援助により、多数の航空機をはじめ、戦車など機動力・戦力が圧倒している。対するジョーダンたちは貧弱な装備にくわえ、圧倒的な敵勢力をまえにした裏切りが生じたりして、死を覚悟せざるを得ない状況である。

ジョーダンは裏切り者をだしながらも、マリアとの愛を深め、ゲリラたちと家族のような気持ちの結びつきを強める。その結果ここでも、全体主義とのたたかいという大義と家族のようなゲリラたちとの犠牲という両立しがたい価値の選択に直面する。ヴォイジャーのジェインウェイ艦長が、宇宙平和とクルーたちの命との相克に悩んだように。

人間の弱さはゲリラ内部だけではなく、軍の主導部内にも蔓延していて、こちらの攻勢の情報は敵に筒抜けである。ファシスト軍は、こちらの攻勢を手ぐすねをひいて待ち構えている。味方の攻勢の失敗は明らかである。敵陣深くに潜入しているジョーダンには、誰よりそのことが分かる。それが分かりつつも、ジョーダンは作戦を実行する。

誰がために(弔)鐘は鳴る?タイトルの問いが重く響く。

浜崎あゆみのMが頭のなかをリフレインしていた(笑)。

2021年10月24日日曜日

日はまた昇る


この週末で、ヘミングウェイ『日はまた昇る』(高見浩訳、新潮文庫)を読んだ。

大学時代にいちど読んでいるので40年ぶりの再読である。学生のころは『武器よさらば』や『誰がために鐘はなる』はおもしろく感じたが、『日はまた昇る』はいまいちと思った。

再読してとても面白い小説と読んだ。ヘミングウェイは61歳で亡くなっている。彼よりすでに長生きしているから、あたりまえかもしれない。

でも 彼はこれを20代で書いたというのだから、さすがだ。冷徹な人間観察と克明な筆力がすごい。

 (以下、ネタバレ)

いわゆるモデル小説で、当時、ヘミングウェイがパリで交友していた仲間たちは、登場人物のひとり一人がAはだれ、Bはだれと分かったそうだ。小説家の友だちはもちたくないものだ。

学生のころは、小説家のイマジネーションがつくりだしたフィクションとして読んだ。しかし35年弁護士をやってみて、人間というのはこういうものだと思う。そういうリアリティを感じた。

第一次世界大戦で心に傷を負った登場人物たち、かれらはパリで交友しているが、みな不全感に悩んでいる(ロスト・ジェネレーション)。

そんななか、スペインへ鱒釣りと闘牛見物にみなで出かける。まずは鱒釣りをしながら、自然と交流し、癒やされていく。

そして闘牛。フィエスタという祭りの熱気が舞台となって、各人の生のあり方をあぶりだしていく。そんななか、かれらとは対照的な生き方が示される。生と死の狭間で凛として生きる闘牛士としての生き様である。

自堕落なかれらであるが、すんでのところで矜持をみせる。ラスト、日が昇った感じはしないが、そのような希望を抱かせるものにはなっている。