ラベル 芭蕉庵 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 芭蕉庵 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年3月29日月曜日

不易流行


 芭蕉庵は草庵ですから、その跡が残っているわけではありません。
ですが、深川にいくと芭蕉庵跡という石碑があります。
なぜ、ここが芭蕉庵跡なのでしょう。

大正6年9月の台風の高潮のあと、このあたりから石のカエルが出土しました。そのため、ここが芭蕉庵跡であるということになりました。なぜ、石のカエルが出土すると、芭蕉庵跡なのでしょうか。

古池やの句があるからでしょう。でも、ほんとうでしょうか。やや強引というか、うさんくさいというか。ちょっとがっかりしませんか。でもいいんです。

このエピソードをわざわざ紹介したのは、これも「不易流行」を体現していると思うからです。芭蕉や弟子たちが参集した草庵は、時間の流れのなかで朽ち果て、文字どおり流れて行ってしまいました。しかし、そこで詠まれた古池やの句は、いまも輝きをはなち、不易を誇っています。

おくのほそ道の旅では、このような流行と不易が繰り返しでてきます。芭蕉はあちらこちらの歌枕で、「流行」にがっかりします。でもそのままでは終わらないところが、さすがです。ちゃんと「不易」を見いだしていきます。


さて、深川でもたもたして3日もかかりました。
そろそろ旅にでましょう。

なお、この写真に写っているカエルは上記石のカエルではありません。石のカエルはちかくにある芭蕉記念館に保管されています。芭蕉庵跡に行ったら、忘れずにあわせて寄ってみてください。

2021年3月25日木曜日

深川・芭蕉庵


ある会合で卓話をするよう頼まれたので、松尾芭蕉の『おくのほそ道』のお話をしようと思います。準備のついでなので、本ブログでもしばらくこの話をしようかと思います。しばらくおつきあいください。

芭蕉が『おくのほそ道』の旅に出発したのは、深川の芭蕉庵からです。写真は芭蕉庵があったところです。もちろんもう残っていません。前の川は隅田川です。いまの時節、春のうららの隅田川でしょう。

川向こうに日本橋や東京駅があります。つまり、江戸の中心は川向こうです。芭蕉になるまえ、芭蕉は桃青という名前でした。中国古代の大詩人・李白にあやかったものです。桃青は江戸で俳句の売れっ子俳諧師でした。火事の影響か、気ぜわしい生活の影響か、深川に隠棲しました。隅田川の向こう側からこちら側に来たわけです。37歳のときです。

お弟子さんの生け簀の番屋を庵にしたもの。そこの草庵に芭蕉の木が植えられました。これも門人からのプレゼント、バナナの木に似たやつです。それで芭蕉庵と呼ばれるようになりました。芭蕉の葉はよわく、風が吹くと破れてしまいます。芭蕉はじぶんもそう名乗り、そのような弱い存在だと言いたかったようです。

ここで、芭蕉はかの有名な「古池や蛙飛び込む水の音」の句を詠んでいます。蕉風開眼、つまりいままでの俳句とはちがう、芭蕉独自の俳句に目覚めました。長谷川櫂先生は、古池に蛙が飛び込んだのではなく、蛙が飛び込んだ水の音が聞こえてきて、それで芭蕉の心に古池が思い浮かんだのだと詠むべきだとおっしゃっています。

そこから、『野ざらし紀行』、『鹿島詣』、『笈の小文』の旅に出、それから『おくのほそ道』の旅に出ることにしました。この旅で、蕉風はさらに深化しました。よく知られる「不易流行」の考えはこの旅でつかんだものです。

旅に出る際、芭蕉庵は人に譲りました。あたらしい住人には女子がいたのだとか。それを踏まえて詠まれた『おくのほそ道』最初の句。

草の戸も住み替わる代ぞ雛の家

転居の際、芭蕉庵の柱にかけておいたそうです。いまこの句を書いたものが藏から発見されれば、鑑定団行きまちがいなしですね。

※なお、以下、おくのほそ道本文は基本的に角川ビギナーズクラッシックに、蕉風の定義は長谷川櫂氏によっています。誤りや誤読の責任はすべて浦田にあります。ご宥恕くださいませ。