2023年12月25日月曜日

MIHO MUSEUM(2)

 




 常設コレクションには、エジプト、メソポタミア、ギリシア、ヘレニズム、ローマ、イラン、トルコ、ガンダーラ、中国、日本など幅広い地域と時代にわたる優品2000点以上が含まれている。

感心したのは解説の面白さだ。世界史の教科書だと、政治史中心となっているので、文化・美術や宗教の記述は最後に添え物のように書かれている。そのため相互の影響やつながりが分からない。

ここでは文化・美術や宗教を中心として(あたりまえだが)、発生・流通・交流の視点から解説されているのが面白い。エジプト、メソポタミア、インド、中国における文化・宗教の発生から地域を越えた壮大な交流と独自性の発揮について学ぶことができた。

学芸員の優秀さだろうか。歴代館長も梅原猛氏、辻惟雄氏らそうそうたる顔ぶれだ。

こちら側も目が肥えてきたせいもあるかもしれない。最近は岡山市立オリエント美術館でオリエント美術の流れを、九博「アールヌーヴォーのガラス展」ではガラスという素材を使った工芸品に関する古代エジプト以来の歴史を学んだばかりだから。

きのうきょうとMIHO MUSEUMの訪問記を読んでいただいたみなさま、気になるのは本館の宗教臭さではないだろうか。ぼくも訪問前は気になった。でも現地ではあまり気にならなかった。

宗教臭というのは、考えてみれば「新興宗教臭」あるいは「宗教の押しつけに対する警戒感」のことではないだろうか。なぜなら、京都や奈良に行けば神社・仏閣、仏像・神像だらけなのに、それほど宗教臭を気にしないからである。

本館のコンセプトは「美術を通して、世の中を美しく、平和に、楽しいものに」。それを裏切らない印象だった(注:館からは1円もいただいておりません。)。

2023年12月24日日曜日

MIHO MUSEUM(1)

 





 翌日は朝一でMIHO MUSEUMへ。JR石山駅でおり、そこからはバスで1時間。MUSEUMは信楽の郊外山中にある。

バスを降りて、しばらく歩くとレセプション棟、そこからさらに歩く。トンネルを抜けると、巨大な橋がかかっている。橋をわたるとようやくミュージアムだ。このアプローチは現代の桃源郷と題され、土木学会デザイン賞を受賞している。

建築家イオ.ミン.ペイ氏の設計。同氏はルーブル美術館のガラスのピラミッドの設計者として知られる。そいういわれれば似ている。「光こそ鍵」がテーマ。建築容積の8割は地中にある。

MIHO は小山美秀子(みほこ)氏のコレクションだから。同氏は宗教法人神慈秀明会(きのうの泉屋博古館のお隣)の会主。同会は世界救世教から分立。

同美術館の収蔵品が個人のコレクションであったことに驚かされる。「美術を通して、世の中を美しく、平和に、楽しいものに」がコンセプト。

ソフィー・リチャード著『フランス人がときめいた日本の美術館』(集英社インターナショナル)で紹介されているので、いちどは訪れたいと思っていた。

まずは特別展「金峯山の遺宝と神仏」へ。金峯山は吉野にある。古代より修験道の聖域とされてきた。きのう聖護院でなりたちを再確認したところだ。

修験道は役行者が創始。金峯山で蔵王権現を感得したという。権現は仏・菩薩が人々を救うため仮の姿をとって現れること(権とは仮という意味)。いわゆる本地垂迹説、日本の神は仏の仮の姿という考えから。

なかでも蔵王権現は、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊が合体したものであるから、すごい救済パワーの持ち主である。修験道の本尊。金峯山寺本堂の本尊。

平安貴族は競って金峯山参詣を繰り返した。あの藤原道長はその代表である。その跡が経塚遺物として発掘され、展示されていた。

 この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたるところもなしと思へば

と歌った道長であったが、心中の不安や神仏へすがりたい気持ちはかれにしても、光源氏(光る君)とおなじくあったようである。

2023年12月21日木曜日

~からの、南禅寺

  

 泉屋博古堂は下れば永観堂・南禅寺だし、上れば銀閣寺である。東山観光寺院は人が多くて避けたいところだが、このまま東へむかえば比叡山か大文字山に登ってしまう。宿は京都駅南だったので、南禅寺へ向かった。

途中、永観堂前には列ができ、風情もへったくれもなかった。人混みをおしわけながら、南禅寺についた。

法堂方面は人が多かったので、三門にのぼって済ますことにした。晩秋(初冬?)の京都が一望のもとに見渡すことができた。

絶景かな絶景かな。石川五右衛門でないけれども、満開の桜ではないけれども、ためいきがもれた。

2023年12月20日水曜日

~からの、泉屋博古館<京都・鹿ケ谷>

 

 聖護院をでて、春日北通を東へむかう。浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺の高麗門にぶつかる。南に下り、丸太町通を東へ向かう。鹿ケ谷通とのT字路に住友関係の施設が並ぶ。

きょうの行先は泉屋博古館(せんおくはくこかん)。T字路の北西角にある。なお、その北西には神慈秀明会がある(あす行くところと関係がある。)。

泉屋は江戸時代における住友家の屋号。博古は中国宋時代に皇帝の命により編纂された青銅器図録の名前から。

泉谷博古館は東洋美術館。住友家から寄贈された中国古代青銅器が目玉のコレクション。住友家は別子銅山の開発など銅と深い関係がある。代々、青銅器を収集したのには稼業と関連があるのだろう。

青銅器だけでなく絵画等も収集し、国宝2点を収蔵している。1点は中国南宋時代の絵画「絹本著色秋野牧牛図」。もう1点は12世紀平安時代の銅鏡「線刻釈迦三尊等銅像」。

この日のお目当ては、特別展「表装の愉しみ―ある表具師のものがたり」。

https://sen-oku.or.jp/program/2023_thebeautymountings/

ちくし法律事務所では、春夏の事務所ニュース巻頭の絵画をお願いしていることから、版画家の大場敬介・寿子先生と親しくさせていただいている。

https://keisukeandhisako.com/about.php

親交のなかで学んだことは、表装の重要性である。おなじ版画でも、表装が変わると受ける印象がガラリと変わる。

写真もおなじ。いわゆる額縁効果というやつだ。だから、それに心血をそそぐ人たちがいる。今回の展示からもそのようなことを学んだ。

2023年12月19日火曜日

~からの、聖護院(しょうごいん)

 


 八海山といえばお酒の名前と思っていたという弁護士がいた。八海山は本来、越後の標高1778mの岩峰である。柴門ふみの父親など遭難者多し。

聖護院といえば生八つ橋、あるいはカブやダイコンの名前だと思っている人も多かろう。しかし本来は、修験道の大本山のお寺の名前である。

修験道は古代、山岳宗教・古神道に仏教や道教が習合して成立した。開祖は役行者。われわれ山歩きをする者にとっては、崇拝の対象である。

山歩きだけでなく江戸時代、旅人も崇拝していたようである。おくのほそ道にこうある。

 修験光明寺といふあり。そこに招かれて、行者堂を拝す。

 夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな

聖護院の開山は園城寺の僧・増誉。熊野で修験の修行をおこなっていた。白川上皇が熊野御幸を行った際の先達(せんだつ)をつとめ、その功により本寺を下賜された。

中坊公平氏が日弁連の会長であったころ、本寺で合宿が開催されたことがあった。なんの会合だったかは忘れた。そのときの様子もまったく記憶にない。ただ、本寺で合宿したという抽象的な記憶だけが残っている。

ご本尊は修験道であるから不動明王。大日如来の化身であるから、さきほどの智積院とも根本はおなじである。

30分に1度、女性が寺内の案内をしてくれる。不動明王のいわれなどあらためて聞くと、なるほどと思う。

ご本尊などは撮影禁止、お隣の部屋のみ撮影OK。扁額の文字は研覃。深く深く追求する。自分自身を耕し研鑽する意味である。

2023年12月18日月曜日

~からの、智積院(ちしゃくいん)

 





 京都国立博物館のあとは智積院へ。最後の紅葉に間に合った。

真言宗智山派の大本山。寺の歴史をみると、紀州根来寺の塔頭として出発し、豊臣の世で圧迫され、徳川の世で再興したようである。「どうする家康」は徳川の勝利をもって終了したが、豊臣の世が滅んで浮かんだ寺社もすくなくなかろう。

まえに来たときは安部龍太郎の『等伯』(日本経済新聞社刊)を読んだあとだったから、10年前の2013年である。

今回のお目当ては、「日本の春夏秋冬」を題材にした田淵俊夫の襖絵である。講堂を飾る。2013年にもすでに展示されていたのだが、なんらかの事情(思い出せない。)で見ることがかなわなかった。が、今回はかなった。長谷川等伯よりしぶい水墨画である。

講堂の奥には東山随一といわれる庭園(名勝)。池泉回遊式。利休ごのみ。山は廬山、池は長江である。長江であるため濁っている。わざとである。

紅葉のお庭を回遊して宝物館へ。今年5月開館。長谷川等伯らの障壁画(国宝)を拝見することができる。以前の建物はすきま風が寒い木造だったような気がするが空調のきいた快適な空間である。

2023年12月14日木曜日

東福寺展@京都国立博物館

 





 スタバのあと。そうだ、東福寺展@京都国立博物館へ行こう!ということで、でかけた。

紅葉が残る時期だったのでリアル東福寺へも行きたかったが、インバウンドが回復した京都は京都駅からしてすでにすごい雑踏。東山に並ぶ観光寺院の周辺はとてもとても。紅葉というより人々の頭を拝見することになりそうだったので、あきらめた。

京都国立博物館はほんとうにひさしぶりだ。高校時代に訪れたことははっきりしているが、社会人になってからは1,2度だろうか。

東福寺は、奈良の東大寺と興福寺の二文字をとって名付けられた鎌倉時代の大寺院。いまもすごい大きさだが、当時はもっとすごかったのだろう。

禅宗(臨済宗)寺院である。こんかいの展示を拝見して、東福寺と禅宗のことがよくわかった。

これまで東福寺は5回以上訪れている。が、重森三玲(岸和田城の石庭でご縁がある。)の作庭とかは嘆賞しても、このような理解がなされることはなかった。

東福寺は、1236年、摂政九条道家の発願。上皇を中心とする京都勢が武家の鎌倉勢に敗れた承久の変が1221年であるから、その後のことである。

日本史の教科書では、それ以後、武家の世となる。けれども、その後においても、公家がこのような巨大な大寺院を建立する経済と政治力をもっていたことに驚かされる。

開山は禅僧の円爾。同じ臨済禅を伝えた栄西ほど知られていない。日本史の教科書に記述がなかったかもしれない。けれども、中国・宋で禅の修行をし、南宋禅林の巨匠であった無準師範から法を嗣いだ。

禅を創始したのは面壁9年にして悟りを得たダルマである。ダルマは中国に渡り、禅宗を開いた。弟子たちによって代々受け継がれた。

中学の美術の教科書だったか、切断した腕を差し出す慧可が描かれていたが、かれが2代目である。以降も系図がはっきりしている。したがって、巨匠であった無準師範から法を嗣いだ円爾も栄西に負けず劣らない(かもしれない)。

かれは日本に帰国する際まず博多に上陸した。そして大宰少弐・武藤資頼(太宰府に墓が残る。)に依頼され承天寺を創建した。いまも博多区に伽藍が残る。

承天寺には宝満山の麓にも別院が存在する。宝満山に登り、うさぎ道を竈門神社方面へおりる。内山城跡をみて、すこしくだると右手に山門がある。

円爾は、その後上洛して、東福寺を開山した。その後も、円爾と師の無準との交流は途絶えることなく、手紙や書などの交流を欠かさなかった。いまもむかしも変わらぬ、仰げば尊し我が師の恩・・。

などなど学ぶことができた。