2024年2月6日火曜日

~からの、六角堂(頂法寺)


(右は縁結びの六角柳)
(右手の柱に華道発祥の地とある)
(池坊会館) 
 革堂をあとにし、歩いて六角堂(頂法寺)をめざす。まずは寺町通を(南へ)下る。両側に古美術店が軒を連ねている。どこも開店前だ。

夷川通をすぎると、右手(西側)に藤原定家・京極邸跡碑がひっそりとある。嵯峨野で小倉山山荘跡を訪ねる機会はすくなくないが、京極邸を訪ねることはまれ(ところが調べてみると一条京極第跡がほんとうらしい。)。

二条通で右折、西入る。東洞院通で左折して下る。御池通を渡り、中京郵便局をすぎると六角通に到達する。右折、西入ればまもなく六角堂だ。京都の路は分かりやすい。思いがけぬところにでてしまって道に迷うことはない。

本尊は如意輪観音(秘仏)。縁起によれば、聖徳太子ゆらいの如意輪観音で、境内には太子沐浴の古跡や太子堂などゆかりの史跡がある。その真偽はともかく、「光る君へ」の時代までさがれば『御堂関白記』や『小右記』に関係する記述がでてくる。

そして花山院も巡拝した観音霊場。西国三十三所第18番札所。『小右記』の著者・ロバート秋山こと藤原実資も、熱心に参詣したようだ。

華道、池坊の発祥の地としても知られている。太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことが由来、その寺坊が池のほとりにあったことから池坊なのだとか(近世以降)。境内(裏)に池坊の本部ビルがある。

本堂まえの「へそ石」は京都の臍だそう。革堂とおなじく、街中にあるお寺として独特の雰囲気をかもしている。宗教としての超越性はとぼしいが、衆生のなかにあって慣れ親しまれてきた感がつよい。

2024年2月5日月曜日

~からの、革堂行願寺

 




 思いは石山寺にとんだけれども、身はいまだ近江神宮。からくれないの紅葉が美しい。

ところで、あのかるた漫画のタイトルはなぜ『ちはやふる』なのか。漫画のタイトルなので『秋の田の』ではいまいちなことはわかるが・・・。

ちはやふるといえば、むかしおとこ在原業平の百人一首歌が思い浮かぶ。

 ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは 在原業平

 (荒々しい神々の時代でも聞いたことないぜ、竜田川がこんなに唐紅色に水くくるなんて)

ちはやぶるに訳してみたが、ちはやぶるは神にかかる枕詞、勢いが激しいという意味。漫画『ちはやふる』は、ちはやぶるの意味を主人公たちが知り表現し尽くしていくものがたりなのだそう。

かるたの聖地を訪れただけではちはやぶるの意味を知り尽くすことはできなかったが、その日は時間切れ。ホテルに戻る。

窓から京都駅や稲荷山が見えている。深草少将が小野小町のもとへ通ったという道はあのあたりだろうか。

 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町

わが見窓からながめせしまにマジックアワーの色はうつりにけりて、いなり山に日が昇った。

この日の行動はまず革堂(こうどう)行願寺へ。地下鉄で丸太町まで、あとは歩いて行く。そして世界平和を願う。早朝の冷涼な空気が気持ちをひきしめる。尼寺。本尊は千手観音。

九州出身の行円が創建。かれはもと猟師。鹿を射殺したところ、腹から子鹿がうまれるのを見、殺生の非を悟って仏門へ。その後も鹿革をまとっていたことから革聖と呼ばれ、寺の名も革堂に。日本の洗礼者ヨハネといったところ。

西国三十三所第19番札所。西国三十三所は観音巡礼。観音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化することから。その功徳にあずかるため三十三の霊場を巡拝する。コンプリートすると、あらゆる罪業が消滅し、極楽往生できる。

きのうも登場した花山院が那智山で参籠していたところ、熊野権現が示現し、その指示で三十三霊場を巡礼したことから、やがて人々にも広まっていったという。

2024年2月4日日曜日

石山寺と『源氏物語』と「光る君へ」

 



 今回は石山駅から石山寺へは行かず近江神宮を訪ねたことは先週書いたとおり。だが、今年になってんNHK大河「光る君へ」をみながら、石山駅のポスターの奨めに従い石山寺を訪ねるべきだったかなと後悔しきり。

調べてみると、2012年6月に石山寺を訪ねていた。本尊は如意輪観音。縁起によれば、聖武天皇の発願により、東大寺開山の良弁が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音を祀ったのが始まりとされる。

琵琶湖から流れ出る瀬田川沿いにあり、MIHO MUSEUMへの往復路から見えていた。幻住庵からは裏山という位置で、歩いて30分もいけば着きそうだった。

本堂は国宝。硅灰石(天然記念物)の上に建築され、石山寺の名の由来になっている。

紫式部が参籠した際、『源氏物語』「須磨」「明石」の巻の着想を得たとか。「紫式部の間」というのがある。その他、清少納言の『枕草子』、藤原道綱母の『蜻蛉日記』等、文学作品にも多数登場する。

今回、「光る君へ」をみていて、あらためて驚かされたことがある。日本の古典の多くが、この時代に書かれていることである。清少納言が中宮定子に、紫式部が同彰子に仕え、互いにライバル関係にあったことは授業でも習いよく知られている。

しかし藤原道綱母も同時代人であったことはどうだろう。第6回では上地勇輔が藤原道綱として登場した。かれは藤原兼家(段田安則)と母寧子(やすこ、財前直見)の子。道長とは異母兄弟である。そういえば、『蜻蛉日記』には、不実な兼家に対する愚痴が書き連ねてあった。

兼家が道兼と二人で共謀して花山天皇を退位させたくだりは『大鏡』で有名。受験中ラジオ講座で学んだとおりだ。

紫式部の『紫式部日記』、道長の『御堂関白記』は知られているが、ロバート秋山が演じる藤原実資は『小右記』を、渡辺大知が演じる藤原行成は『権記』という呼ばれる日記をそれぞれ書いている。

書く側、読む側の教養・素養や情熱や官僚たちの日常行動が、和紙・筆・墨などの貴族階級への普及などとあいまって、このような状況を生んだのだろうか。

安倍晴明(大鏡にも出てくる陰陽師)や藤原公任(三船の才、百人一首など)も有名。こうしてみると、これまでバラバラに存在していた人たちがきら星のごとく星座配列をなしたかんじ。

ちなみに石山寺は西国三十三所の第13番札所。西国三十三所は花山法王の唱道によるものだ。

花山天皇(本郷奏多)は寵愛した女御藤原忯子(井上咲楽)が妊娠中に死亡。その失意から兼家らの策謀にはまって出家するのであるが、そこから西国三十三所を遍歴するに至る。なにがどう転ぶかわからない。

2024年2月1日木曜日

~からの、近江神宮

 


 ここで時間を巻き戻して京都・滋賀旅行に戻ろう。昨年末、幻住庵まで報告していた。

 http://blog.chikushi-lo.jp/2023/

 幻住庵から京阪石山駅に戻った。さてその後はどうしよう?2つの選択肢の間で悩んだ。一つは石山寺、ふたつは近江神宮である。京阪石山坂本線を北へ向かえば近江神宮であるし、南へ向かえば石山寺である。

駅のポスターは石山寺へ誘っていた。来年(もう今年だが)のNHK大河が「光る君へ」なので、地元は観光客誘致に熱心である。むろん、石山寺は紫式部が『源氏物語』を執筆したところとして名高い。

かなり悩んだが、北へ向かうことにした。芭蕉ゆかりの膳所があることや、さいきん光秀ゆかりの坂本城の「幻の石垣」が琵琶湖の水位低下によって現れたなどのニュースに接していたことから、なんとなく北恋しかったから。

石山から粟津、瓦ケ浜、中ノ庄、膳所本町、錦、膳所、石場、島ノ関、三井寺を経て近江神宮前である。右手に琵琶湖が見え隠れする。

駅から西北へ10分ほど歩く。途中右手に、近江大津宮跡遺跡(史跡)がある。

 近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 柿本人麻呂

 楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ 同

まもなく近江神宮の広大な敷地に到着する。そこからさらに参道をしばらく歩くと、美しい紅葉と響き合う紅い楼門がでむかえてくれた。

天智天皇が祭神。天皇が近江に都を移したことにちなみ、昭和になって創建されている。

天智天皇といえば、なにを思い浮かべるか。われわれ筑紫人としては、百済救援のため斉明天皇とともに九州にやってこられたこと、白村江の戦いで唐・新羅に敗れたこと、その後の防衛のため水城・大野城・基肄城等を築いたこと、斉明天皇の追善のため大宰府観世音寺を創建したこと等が思い浮かぶ。

歴史的・教科書的には、中大兄皇子として中臣鎌足とともに蘇我氏を倒したこと(大化の改新)が有名で、国語教科書・文学的には、大海人皇子とともに額田王に恋したことが有名だろうか。この件は額田王の次の歌で知られている。

 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 

しかし、一般人にはやはりこの和歌の作者として有名でしょう。

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ

百人一首の巻頭歌。為政者として農民たちの辛苦を思いやる主題であるとして、藤原定家が巻頭に置いたとされる。

こうして近江神宮は、百人一首かるたの聖地となっている。毎年1月、競技かるたの「名人位・クイーン位決定戦」がおこなわれている。

ここから漫画『ちはやふる』(末次由紀著)の舞台にもなっている。競技かるたに青春を燃焼させる綾瀬千早たち・・・。

テレビアニメにもなり、広瀬すず主演の映画にもなった。かくて漫画も読み、映画のDVDも見た、そして来た(2回目)。というわけです。

2024年1月31日水曜日

奈良大宮ロータリークラブ45周年(6)

 



 春日大社からは長い長い表参道をくだった。途中、左右に萬葉植物園、鹿園や奈良国立博物館などが手招きしていたが、時間の都合で立ち寄ることはできなかった。

国宝館。千手観音菩薩(国宝)を中心に、阿修羅像を中心とする八部衆(国宝)、十大弟子(国宝)、金剛力士(国宝)、天燈鬼・竜燈鬼(国宝)、白鳳期の仏頭(国宝)など。きら星のごとく、国宝が並んでいる。

緊那羅像(きんならぞう)などは、右腕の乾漆が脱落して支柱が露出してしまっている。乾漆像の構造がよく分かる。

この日は、平日、大雪予報だったこともあり、館内はすいていた。阿修羅像が一人で九州国立博物館までご来遊されたときに長蛇の列であったことを思うと、まるで夢のようだ。

拝観後は奈良ホテルへ。辰野金吾らの設計。辰野は東京駅丸の内駅舎、武雄温泉楼門なども手がけている。

ホテルは奈良大宮ロータリークラブの例会場である。今回は奈良県コンベンションセンター及びマリオットホテルが会場となったが、いつもの周年行事はここで行われている。ご縁なので、ここで昼食をして散会に。

2024年1月30日火曜日

奈良大宮ロータリークラブ45周年(5)




 東大寺三月堂・二月堂のあとは、三笠山麓にそって春日大社をめざす。

まずは手向山八幡宮。手向山の麓にある。菅原道真公が次の歌を詠んだとされる(もうちょっと京都側だったのではないかという説もある。歌の趣旨からしてそうかもしれない。)。

 このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに

それから若草山。東大寺南大門あたりにいた殺気だった鹿たちに比べ、のんびりした連中や子鹿が草を食んでいた。

 潅仏の日に生れあふ鹿の子哉 芭蕉

若草山はまたの名を三笠山。在唐36年におよんだ安倍仲麻呂が故郷を偲んで次の歌を詠んだ。雄渾。ついに故国の土を踏むことはなかった。

 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

わが宝満山は、もと御笠山とも言う。笠をふせた形をしているから。奈良平城京からはるばる大宰府へ赴任してきた大和官人たちも、宝満山を三笠山になぞらえて故郷を偲んだのだろうか。

そして春日大社(国宝)。藤原氏の氏神を祀る。神紋は下がり藤。主祭神のタケミカズチ(鹿島神。雷神、剣の神)が白鹿に乗ってきたことから、鹿を神の使いとする。奈良公園に鹿がたくさんいるのはこのため。そのことを知らずして鹿と戯れる日本人のなんと多いことか。チコちゃんに叱られる。

タケミカズチが剣の神であることから、国宝殿は多数の国宝の刀剣を興味深く見ることができる。刀剣少女という部族がいるそうだが、あやしい魅力というか魔力にとりつかれる人たちがいることも理解できないではない。

2024年1月29日月曜日

奈良大宮ロータリークラブ45周年(4)

(東大寺南大門、組物) 

(金剛力士・仁王像)

(大仏殿)
(八角燈籠)
(盧舎那仏)
(虚空蔵菩薩)
(広目天)
(如意輪観音)
(びんずる尊者)
(三月堂・法華堂)
(二月堂)
(二月堂から奈良市街を望む)
(大仏殿の鴟尾と生駒山)

 太宰府ロータリークラブからの参加者は9人。うち2人は仕事のためトンボ帰り。うち2人はタクシーをチャーターして女人高野・室生寺と唐招提寺をめぐるというしぶい選択。

残されたのはわれわれ5人。そのうち奈良ははじめてという人が1名、奈良には何度も来ているがまいどゴルフばかりで一度も東大寺を参拝したことがないという人が2名であった。なので、定番中の定番ではあるが、東大寺→春日大社→興福寺をご案内することにした。

まずは東大寺。南大門前をスタート。平安時代末・源平の争乱のさなか、平重衡により奈良・東大寺は焼き打ちされた。そして、勧進上人重源(ちょうげん)のなみならならぬ努力で復興した。

謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」で、弁慶は白紙の勧進帳を読み上げる。あれはこの東大寺復興のためのものである。当時、重源の指令を受けて多数の仏教者や行者が全国各地で勧進をおこなっていたなかでのことである。

南大門(国宝)。その木組み、組物がリズミカル。いつみてもほれぼれする。大仏様。中国宋から重源が輸入した最新デザインだった。南画からイメージされる柔らかな宋文化との違いに驚かされる。

勇壮な金剛力士・仁王像(国宝)。運慶・快慶作。武士の台頭による力強さを言われことが多い。が、いまの日本の状況に照らしても、被災後の「復興」による力強さを忘れてはならないだろう。

大仏殿(国宝)。こちらは戦国時代、松永久秀にも焼き打ちされた。ために江戸時代の作である。幅は創建時の3分の2らしい。どれだけ巨大だったのか。

八角燈籠(国宝)。大仏殿前にある。火袋の扉四面には雲のなかを駆ける獅子、その間の四面には楽器を奏でる天人がレリーフされている。天平時代のもの。ピアノ奏者の反田恭平がここでコンサートをやっていたが、天平人たちにも天上の音楽が聞こえていたことだろう。

盧舎那仏・大仏(国宝)。知恵と慈悲の光明をあまねく照らし出す仏。華厳経は釈迦が時間と空間を超えて仏となった瞬間を説く。偉大で、広大で、正しい仏の世界は菩薩の実践の華により飾られなければならない。重源による実践はその教えを体現したものである。

脇侍は如意輪観音菩薩と虚空蔵菩薩。観音は33の姿に変じて衆生を救済する。その一、如意輪観音は、意のまま(如意)に説法し、衆生の苦を抜き利益を与える。虚空蔵菩薩は、大空(虚空)のように無限の福徳・知恵をそなえ、衆生にあたえて諸願を成就させる。

そうした仏の世界の四方を武神の四天王がお守りする。南を増長天、西を広目天、北を多聞天(毘沙門天)、東を持国天が守備している。

大仏殿の外には、びんずる尊者が。釈迦の筆頭弟子。先日、善光寺でもお目にかかった。向こうは撮影禁止だったが、こちらは堂内の諸仏を含め撮影可だった。

大仏殿を出て坂を登り、三月堂・法華堂(国宝)へ。東大寺は大仏殿に目を奪われがちだが、どれか一つといえば、法華堂(あるいは、戒壇院)こそ見るべきところである。

法華堂は東大寺最古の建物。外観の優美さ。左半分が奈良時代の創建当時のもの、右半分があとから付けくわえられた礼堂。あとから付けくわえたにもかかわらず、見事な調和をなしている。

堂内もすばらしい。不空羂索観音(国宝)を中心に、梵天・帝釈天(国宝)、金剛力士像2体(国宝)、四天王立像(国宝)が絢爛豪華に並んでいる。残念ながら写真撮影は禁止。執金剛神像は秘仏なので、拝することができない。

その後はお水取りで有名な二月堂(国宝)へ。傾斜地に、お水取りをするための建物になっている。そのため、建物からの奈良市内の絶景がすばらしい。お約束の、大仏殿の鴟尾と生駒山も望むことができた。