ラベル 人権 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 人権 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年3月28日木曜日

弁護士の使命(3)南九州税理士会事件

 

 基本的人権の擁護が弁護士の使命だとしても、八百屋で果物を買うようによりどりみどりに事件を選ぶというわけにはいかない。

いまの日本にはロシアほど人権侵害が多発しているわけではないだろうけれども、暗数は相当ある。すべてに光をあてるべきだろうけれども、多年にわたる膨大な労力を考えるとすべてをすくい上げるというわけにもいかない。

それぞれの弁護士が弁護士になった地域や時期、そして所属することになった事務所や人脈によっても左右される。

福岡は人権侵害の宝庫と呼ばれていた。炭鉱事故事件、カネミ油症事件、サリドマイド事件、スモン事件、空港騒音訴訟、じんぱい訴訟等、日本の裁判所で争われた大規模な被害救済事件のほとんどが福岡で(も)たたかわれたからである。

そういった経験の蓄積もあり、福岡の弁護士は解決力が高い。何年も前に福岡では解決をみた事件を他地域では長々と争っていたりする。

それぞれの弁護士が弁護士になった時期も大きい。どうしてもその時期に世間を騒がせていた事件、解決が望まれていた事件に飛び込んでいくことになる。

ある先輩はカネミ油症事件に取り組むことになった。カネミ油症事件は、一審で勝利し、約27億円の仮払金を得た。しかし、二審で敗訴したため、最高裁が提示した低額和解を受け入れざるを得なかった。仮払金は原告被害者に分配されていたため、先輩はその返還交渉を担当した。これはつらい。

当職の場合、南九州税理士会事件に参画することになった。事務所所長である稲村晴夫弁護士の先輩であった馬奈木昭雄弁護士のお声がかりである。弁護士になる直前、1審判決がでて、勝訴していた。

南九州税理士会は、政治連盟に政治献金するため、会員から特別会費を強制徴収することを決めた。税理士会は、大型間接税(いまでいう消費税。逆進性が強い。)を導入する(税理士の仕事が増える)ため、政治連盟を通じて与党政治家に政治献金をおこなっていた。

ときあたかもロッキード事件の金権腐敗を世論がきびしく批判していた。牛島昭三税理士は、特別会費の納入を拒否。税理士会は同税理士の選挙権・被選挙権を停止処分にした。

牛島税理士は、特別会費の納入義務の無効確認等を求めて裁判を提起した。一審熊本地裁は牛島税理士の請求を認めた。

その二審の舞台は福岡高裁である。われわれはそのたたかいに参画したのである。途中から事務局長の大役を仰せつかった。・・・中略。しかしながら、われわれは福岡高裁で敗訴した。

・・・中略。われわれは最高裁で勝訴した。最高裁は、税理士会が牛島税理士に対し特別会費の納入を強制することは同人の思想・信条の自由を侵害し許されないとした。

団体の政治献金の可否に関する最高裁判決には、八幡製鉄事件がある。八幡製鉄が政治献金をしても問題ないという。企業が政治献金するのは、ワイロ性が高い。しかし最高裁はこれを認めた。

同じように税理士会が政治献金をすることについて、最高裁が許容する余地はあった。しかし、強制加入団体が政治献金資金を強制徴収することはいきすぎであると判断した。

思想・信条の自由という中核的な人権に関する最高裁判決であるため、有名である。憲法判例百選にも掲載され、司法試験の論文試験にも出題された。手もとの模範六法にも憲法19条の参考判例として紹介されている。

最高裁で勝利判決を受けたときには、「人類の多年にわたる自由獲得の努力」に連なることができた感激につらぬかれ、天にものぼる気持ちだった。

2023年7月4日火曜日

憲法に意味はあるのか?

 


 あすから北海道は大雪山縦走にでかける計画だった。が、予定していた白雲岳のキャンプ地に熊の母子が出没しているということで、今年は縦走を断念することにした。まことに残念。

さて、米連邦最高裁が、これまで容認していた中絶権を否定したり、大学が人種による入試選考をおこなうことを平等権に違反すると判示したと紹介した。

憲法解釈をめぐるこのようなブレを目の当たりにすると、思い出されることがある。ハンセン病訴訟に勝利して、各地でその報告をしてまわっているときだ。北九州のカトリック教会関係者に依頼されて、講演をおこなった。

ハンセン病問題は政府・行政による人権侵害にとどまらない。われわれは、らい予防法という国会の立法行為による人権侵害、それが違憲であると訴えた。

熊本地裁判決は、らい予防法の違憲性を断罪した。小泉首相は、自身の思惑もあっただろうが、これに対して控訴を断念し、判決は確定した。そうした報告をおこなった。

報告後の質疑応答。「憲法9条は戦力を保持しないと明記しているにもかかわらず、憲法解釈により自衛隊が存在している。憲法に意味はあるのか?」という質問がなされた。

一般に、法解釈は算数の問題とはちがう。算数の問題であれば、誰がやっても同じ答えになる。しかし法解釈はちがう。背後には価値判断が存在し、人によって解釈は分かれる(ただし、国会議員の考え方の幅に比べれば、法律家の解釈の幅は狭い。法律の文言を前提とするのであるから、あたりまえだ。)。

憲法解釈となるとなおさら。憲法は法といいながら、半分は政治である。歴史的にも、ちがいがある。フランス革命期には政治的宣言にすぎなかったものが、次第に法に近づいてきている(規範性が増している)。

英米法と大陸法によっても、ちがいがある。大陸法というか憲法裁判所が存在する国では、事件を離れて違憲・合憲の判断がなされる。英米法のばあい、個別事件を審理するなかで、その事件を解決するのに必要な限りで判断がなされる。日本は後者だ。

日本最高裁が憲法9条に基づき自衛隊を違憲だと断じたことはないかもしれない。しかしそのことは憲法が無意味であることは意味しない。

究極の人権は、国民の抵抗権である。憲法とくに人権規定は、政府に対する抵抗のシンボルである。国民がその下に結集できる「錦の御旗」である。それが存在しない場合を思い浮かべれば、その意味は容易に首肯することができる。

憲法とくに人権規定は、国民の運動に支えられている。国民の運動が強くなれば憲法も強くなるし、運動が弱くなれば憲法も弱くなる。

憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって(97条)、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない(12条)。憲法や人権に関するこのような性格は、憲法に明記されているところである。

質問された方はずっと運動経験が豊富そうで釈迦に説法と思ったが、そのように回答した。歴史的な憲法判決と控訴断念の威光もあり、素直に納得していただいた。と思う。

2023年6月29日木曜日

大学入学選考で黒人など人種考慮は違憲@アメリカ連邦最高裁

 


 今朝、NHKニュースが報じていた。ハーバード大学などが入学選考で黒人などに下駄をはかせている措置について、アメリカの連邦最高裁が違憲と判断したと。

憲法の平等条項に違反するという保守派の学生らの訴えにこたえたもの。45年前の最高裁判決(すなわち、人種考慮は合憲とした判断)を覆した。

この判決について、多様性を損なうとバイデン大統領は批判していた。

憲法の保障する「平等」とは何か?形式的平等か実質的平等か。機会の平等か結果の平等か。

フランス革命期の「平等」は形式的平等だった。国王の恣意による、国民の自由・平等の侵害を許さないという文脈だから、それでよかった。

その後、資本主義が発達し、貧富の格差を生じた。そのため、形式平等を保障することが結果において不平等を招来することとなった。

その後の憲法は、このような経済的不平等を是正する社会権を保障する。社会権を保障する憲法が保障する「平等」は、形式的平等では足りず、実質的平等をいうのではないか。

残念ながら、いまの日本では、実質的な不平等が生じる社会になってしまっている。平等に受験ができるといっても、所得の格差によって事実上、受験ができない家庭の生徒が増えた。教育(塾代)に10万円かかるようになれば、月収20万円の家庭の生徒は勉強や受験をすることができないだろう。

米国では長らく黒人などに下駄をはかせることが合憲だとされてきた。そうしなければ、キャンパス内はいわゆるWASPだらけになってしまうから。

成績だけで考慮せよというのも、一見もっともである。しかし、社会に存在する貧富の格差を前提にすれば、貧困層に下駄をはかせることのほうが、ほんとうの平等というものではないか。

バイデン大統領が指摘する多様性が損なわれるという指摘も、今日的で重要だ。

多様性(ダイバーシティ)の尊重は、日本でもその重要性が認められてきている。SDGs(持続可能な開発目標)の観点からも重要だ。多様性を尊重する企業こそが、競争でも優位であるとの研究結果もでている。

米最高裁はいまトランプ大統領時代に指名された保守派の判事が多数を占めている。そのため、民主党のバイデン大統領と意見を異にする判断がつづいている。

先日も、中絶する権利を認めなかったばかりだ。こちらもそれまでの最高裁判例を半世紀ぶりに覆した判断だった。大きな揺り戻しが進行している。アメリカよ、どこへ?

それでも、米最高裁は、このようなスイングを繰り返しながら歴史を進めてきている。いつもいつも保守的な判断しかできない日本の最高裁よりマシである。

2021年9月30日木曜日

パリに終わりはないーはなれて輝く

 

 (焼け落ちるまえのノートルダム大聖堂まえにて)

 憲法は、国内移動の自由・海外渡航の自由という人権を保障している。人権というのは本質的に少数者のものである。多数派は、憲法が別に保障する選挙、国会・議院内閣制を通じて自己の政治的意思を実現できるから。

コロナ禍はその例外だ。多数派も含め、国内移動の自由・海外渡航の自由が制限されるようになった。公衆衛生という公共の福祉による制限である。それもようやく今日から緩和された。

空気とおなじで、人権も制限されるまでは、なかなかその重要性に気づかない。フランスの市民革命で人権を勝ち取った人たちにとっては命がけであった人権も、われわれにとっては空気のような存在になりがちだ。でもこんかい、移動の自由・海外渡航の自由を制限され、これを失ってから、その貴重さを切実に体感することになってしまった。

 「サイズの問題」の次の章、そして『移動祝祭日』全体の結びの章のタイトルは「パリに終わりはない」である。サイズはともかく、タイトルって重要だなと思う。

「パリに終わりはない」に書かれていることのほとんどは、パリのことではない。ヘミングウェイ夫婦が冬のパリを脱出して、オーストリアのシュルンスでスキーを楽しむ幸せな姿が詳細に描かれている。

では「看板にいつわりあり」かというと、そうではない。シュルンスでの描写が美しければ美しいほど、なぜかパリの懐かしさ、パリでの幸せが読者の心のなかに浮かび上がってくるのである。

『スタートレック・ヴォイジャー』は、ある事情で宇宙の果てに飛ばされてしまったヴォイジャー号とクルーが地球を目指す物語である。そこに地球は登場しない。しかしクルーたちが地球での思い出を語るたびに、美しい地球、懐かしい地球がみんなの心のなかに輝く。そんな感じ。

「パリに終わりはない」とタイトルをつけたら、ふつうはパリのよさを一生懸命に描こうとするだろう。でもパリの素晴らしさを描くのに、必ずしもパリじたいを描く必要はないのだ。

このタイトルはもう一つのことも示唆している。「パリに終わりはない」ということは、別の何かは終わったということだ。ネタバレになるけれども、その答えはヘミングウェイの最初の妻であるハドリーとの幸せな結婚生活である。

ハドリーとの幸せな結婚生活が終わったのは、ヘミングウェイの2番目の妻となったポーリーン・ファイファーとの不貞が原因である。ポーリーンは『ヴォーグ』誌の女性記者。まるで小説か映画の筋立てのよう。運命だったのだろう。

本書では、ハドリーとの幸せな結婚が破綻したのは、ヘミングウェイ自身の責任ではなく、ポーリーンら「リッチな連中」の術策によるものとされている。ところが解説を読むと、ヘミングウェイ自身の責任を認める原稿も存在するようだ。

そりゃそうだ。ヘミングウェイは61歳で自死したのであるが、『移動祝祭日』はそのすこし前に書かれている。若気の誤りを認めるのに十分な年齢である。

ヘミングウェイはアラ60歳となり、パリ時代、作家としての修業時代、最初の妻との幸せを懐かしんで、この回想録を書いた。そして自死したのである。

まとめると、最初の結婚が破綻した原因と責任について、それが2番目の妻にあるという原稿と、ヘミングウェイじしんにあるとする原稿がある。『移動祝祭日』はそのうち前者の原稿によっている。

この選択をしたのは、じつはヘミングウェイではない。亡くなる前の妻であるメアリー夫人のようである(解説)。メアリー夫人はいかなる動機にもとづき、この選択をしたのだろうか。純粋に文学的なものだろうか、それともポーリーンに対する反感や嫉妬も含まれていただろうか。

『移動祝祭日』はつまるところ、パリにおける最初の妻との幸せな結婚生活について、ヘミングウェイが描いた回想録である。本書が出版されたのはヘミングウェイの死後、メアリー夫人によってである。メアリー夫人は、ハドリーには嫉妬しなかったのだろうか。

いずれにせよ、ヘミングウェイは自死した。3人の裕福で美しい妻と結婚し、名作といわれる数々の短編・長編をものにし、それらが映画化され、ノーベル文学賞を受賞したのに。ことほどさように、人生はなかなかに難しいものなんだなぁと思う。

同書のエピグラフをもういちど紹介して結びとしよう(このエピグラフもメアリー夫人の選択によるものである)。

もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。

2012年1月17日火曜日

「運命の人」(2) by.山歩きの好きな福岡の弁護士



 きょうは早朝から西鉄電車が人身事故のため止まり
 ブログを書く時間があまりありません。

 時間がないときはプライオリティをつけ
 大事なことから処理する必要があります。

 でもブログを書くうえで
 大事なことってなんでしょう?

 大事なことを話していたのに、小さなことだけど気になるネタで
 話がズレてしまった経験がありますよね。

 またマスコミの報道をみていて、大事なことが議論されるべきなのに
 スキャンダルばかり報道されていると感じることもありますよね。

 西山事件はそんな経過をたどります。
 小さなスキャンダルに目を奪われ、大きなものを失ってしまう…。

 このとき、大きな問題としては
 つぎの2つの問題があったと思います。

 ひとつは、沖縄返還協定の裏に密約があったのかどうか?
 政府がないと説明した密約はほんとうになかったのか?

 もうひとつは、ジャーナリズムが政府のウソを追求する自由
 ひいては国民の知る権利が保障されるのかどうか?

 知る権利は、憲法21条が保障する表現の自由に含まれる
 重要な人権です。

 でも論争点はそこからズラされ、西山記者が情報を入手した方法が
 倫理的かどうかというスキャンダルにすり替えられてしまいます。

 一般の会社で株主に内緒で400万ドルないし3000万ドルもの
 裏金を相手方に支払えば背任、横領が成立する疑いがあります。

 また社長が株主に対し、そんな金を支払っていませんと
 株主総会でウソの説明をすれば、それもやはり大問題でしょう。

 一般の会社・社長・株主だろうと、国・政府・国民だろうと
 このことに違いはありません。

 政府がこのようなウソをついているときに
 そのウソをあばくのがジャーナリズムの役目でしょう。

 ジャーナリズムがこの役目を果たすことにより
 われわれの主権者・有権者としての知る権利も満足が得られます。

 これこそが大きな問題で
 大きな問題は大きな問題としてきちんと議論すべきだったでしょう。

 ところが取材の方法が倫理的でない!ダブル不倫だ!とかいわれると
 まんまとそれにひっかかっちゃうんですねぇ。

 「そんな下ネタ、いま関係ないでしょ!(別に議論しましょ!)」と
 誰か言ってくれなかったのでしょうか?
 
 この事件の後、毎日新聞は、本スキャンダルを理由とした
 不買運動により発行部数が減少、全国紙の販売競争から脱落。

 また以後、大手メディアの政治部が国家機密に関わる事項について
 スクープするということがなくなったらしい。

 ほんとうに大きな運命の事件
 天下分け目の事件だったんですね。

           ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳