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2024年3月7日木曜日

「世界遺産 大シルクロード展」@アジア美術館(4)

 
菩薩座像
馬頭観音


如来像
 
 シルクロードを東へ西へ文物が運ばれた。東から西へは絹や陶磁器が。西から東へもさまざまな文物が。その最大のものはやはり仏教である。仏教東漸。

菩薩座像は河南省竜門石窟近くから出土。唐代のもの。コルセットを着用した女性のようにウエストをしぼった姿が印象的。右脚をおろし、豪華な装飾品をつけている。優雅。インドのグプタ美術の影響である。

仏像というのはぶっちゃけ偶像崇拝だ。エホバ神がモーゼにさずけた十戒でも、偶像崇拝は禁止されている(旧約聖書、出エジプト記)。映画「十戒」では、金の子牛像を崇拝した罪深き人々は割れた大地の間に落ちていった。

旧約聖書をベースにしているユダヤ教、イスラム教は偶像崇拝を禁止し、キリスト教ではカトリックではゆるやか、プロテスタントでは厳格であろうか。

仏教でも、もともとは仏が人間の姿で表現されることはなかった。菩提樹、仏足石、法輪などで象徴的に表現された。星の王子さまで言われるとおり、大切なものは目に見えない。

それに畏怖の感覚もあろう。こういう感覚は古代から日本でもある。『源氏物語』が読みづらいことの一因として、登場人物の呼び名がくるくる変わることがある。本人の名前を呼ぶことがはばかられるため、官職名で、女性のばあいさらに親の官職名で呼んだりするからだ。

話を戻す。じゃいつころから、どこで、仏が人の姿に造形されるようになったのだろうか。それは、♪そこにいけばどんな夢もかなうという~遙かな世界、ガンダーラである。

ではなぜ、ガンダーラでは仏が人間の姿に造形化されたのか?この答えは世界史の雄大さを実感させてくれる。キーマンは、あのマケドニア王アレクサンドロス大王である。

ガンダーラはインダス川上流部に位置している。この地域は、アレクサンドロス大王が大東征をおこなった東端にあたっている。

東征後、西はギリシア・エジプトから東はインダス側流域に至る大帝国が建設された。域内では東方の文化と融合した新しいギリシア風文化が普及した。いわゆるヘレニズム文化である。

東方の文化というばあい、ここでは仏教である。それがギリシア文化と融合した。ギリシアでは神々が人の姿で造形されている。仏も人の姿で造形化されたことは必然である。

ガンダーラの仏がどこかギリシアの神々の面影を残しているのはこのためである。しかし、時代が下ってグプタ朝になると様式のインド化が進み、繊細・優雅な表現となった。こうして造形化された仏たちはシルクロード上を東へ向かった(東漸)。

むかしから観音様のなかに馬頭観音様がいらっしゃることに違和感をおぼえていた。しかし、仏教がシルクロードを東漸してきたのであれば、その間、騎馬民族がひごろお世話になっている馬が仏になるのも自然な流れかなと思う。

シルクロード各地の遺跡にのこる仏たちは、日本の仏たちのご祖先さまにちがいない。みな、法隆寺の百済観音、釈迦三尊像や、興福寺の仏頭にそっくりでいらっしゃる。

2023年10月23日月曜日

太宰府路散策(4)四王寺山

 

 太宰府路は、北をのぞめば、どこからでも四王寺山が見える。観世音寺横のコスモス畑からとくに美しい。

四王寺山は標高400Mちょっとだ。最高峰の大城山のほか、大原山、岩屋山、水瓶山の四峰からなる。

四王寺と呼ばれるのは古代、仏教の守護神である四天王がまつられたからだろう。四天王は須弥山(しゅみせん)で帝釈天(たいしゃくてん)を守護しているという。帝釈天というのは寅さんに出てくるアレである。

須弥山は世界の中心にそびれる高山。広島・宮島の最高峰である弥山(みせん)や、仏像の基壇を須弥壇(しゅみだん)と呼ぶ由来である。

四王寺山の山頂には、いまでも増長天、広目天の礎石、毘沙門堂が残されている。増長天は南、広目天は西、毘沙門天は北の守護神。

東をまもる持国天は大原山のあたり、いまは15番札所・十一面観音石像があるのみである。

四天王像としては東大寺戒壇院のものが有名であり、大好きである。四人組の強者のことを四天王と名付けて恐れ敬うのはいまもおなじ。われわれの世代ではアタックナンバーワンに出てきた○○四天王にしびれたものである。

北方の守護神である毘沙門天は、四天王の一角をなすときは多聞天という。独尊として崇拝されるときに毘沙門天という。戦の神様。強烈に戦がうまかったという上杉謙信は毘沙門天を崇拝していたという。

大和朝廷は百済に加勢して白村江で唐・新羅連合群に敗れた。その後、唐・新羅による列島侵略を心配して、四王寺山には朝鮮式山城が築かれた。大野城という。いまでも山頂には当時の倉庫跡や堤防跡が残されている。

大野城は水城や基山とともに、大宰府政庁をまもる壮大な防衛施設となっている。重機などなかった古代のことだから、唐・新羅による侵略の恐怖が強烈であったことがうかがえる。

物理的な防御だけではとんでもなく心配だったので、四天王の力にすがりたかったのだろう。

いまは写真のとおり、のどか。やはり平和がいちばんである。

2012年1月30日月曜日

宝満山の名は? by.山歩きの好きな福岡の弁護士



 (山頂の岩。「宝満山上宮碑」)

 さてきょうは婚活話からやや脱線して
 宝満山の名前の由来に関する一考察。 

 玉依姫(タマヨリヒメ)が鎮座する山であれば
 玉依山となりそうですが、そうではありません。

 玉依と御笠はほぼ同じ意味なので
 御笠山でいいようですが、いまはそう呼ばれていません。

 祖母山は豊玉姫が鎮座するところ
 豊玉姫は神武天皇の祖母にあたるので祖母山。

 豊玉姫と玉依姫は姉妹ですから
 大叔母山でもよさそうですが、違います。

 玉依姫は豊玉姫の子を養育し神武天皇を産んだとされるので
 母山でもよさそうですが、それも違います。

 じゃ、なぜ宝満山なのか?
 それは玉依姫が別名、宝満大菩薩だから。

 日本人にはもともと神を信じていたところ
 6世紀に仏教が伝来。

 その後神仏は融和し
 10世紀初めころには神仏習合。

 グローバル宗教(といってもアジア限定でしょうが)である仏教の
 日本語バージョンが神道であると理解されるように。

 日本では玉依姫と名乗る神も、仏教の本地インドでは
 宝満大菩薩であるとの理解だったんですね。

 太宰府市が建てた中宮跡の説明板によると
 「この山の本地仏十一面観音」とあります。

 こうして1000年くらいは神仏の仲がよかったのですが
 明治維新ののち仲違いして神仏分離、廃仏毀釈に。

 宝満山の7~8合目にあった中宮も
 廃仏毀釈の憂き目に。

 十一面観音をまつっていた大講堂はとりこわされ
 中宮跡は茅野になりました。

 かくて神仏分離、廃仏毀釈により
 玉依姫≠宝満大菩薩となったはず。

 でもそこは日本人の宗教的おおらかさでしょうか
 宝満山の名は残ったんですねぇ。

 ま、先に挙げたどの候補よりも宝満山。
 なんとなくリッチな気持ちになれますよね。

                   ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳