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2023年3月14日火曜日

医王寺@おくのほそ道

 



 東北南部の山旅は4日間を予定していた。しかし、残る2日間は北風が強く、山上では風速20メートルを超えることが予報されていた(実際、平地でも北風が強かった)。そのため、登山はあきらめ、おくのほそ道・芭蕉の足跡をたどることにした。

まず訪れたのは医王寺である。といってもほとんどの九州人は知らないだろう。下記地図を参照してほしい。福島駅から北へ福島交通・飯坂線がのびている。それに乗って8つ目の駅が医王寺前になっている。そこから北西へ歩いて15分である。地図を拡大するとわかる。

しのぶの里のことは、以前、本ブログに書いたことがある(1枚目の写真)。そう、河原左大臣による有名な和歌ゆかりの地である。

 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに

地図を拡大すると、福島駅の東北東、115号線を行ったところにある。文知摺観音(もぢずりかんのん)とあるのがそれだ。芭蕉一行はそこから北北西へ北上した。

福島駅の東には阿武隈川が流れている(2枚目の写真)。流れは北上している。宮城県に入り、あとで紹介する岩沼駅の手前で180度向きを変えて南流し、太平洋にそそぐ。

一行は月の輪の渡しで、川を越えた。そして瀬の上という宿に出た。瀬上は阿武隈急行線の駅もあり、どこであるかはわかりやすい。

そこから西方向は飯塚の里である。鎌倉殿の十三人のドラマがはじまったころ、ここを治めていたのは佐藤庄司(基治)である。かれは奥州藤原氏の家臣で、義経の忠臣である継信・忠信の父である。

芭蕉は悲運の義経ファンであるから、その忠臣である継信・忠信もだいすきである。ついでに、その父・佐藤庄司や継信・忠信たちの嫁までだいすきだった。

佐藤一族の菩提寺が医王寺である(3枚目の写真)。薬師如来を本尊とする真言宗の寺である。むかしの医療は漢方薬の投与が基本だから、薬師如来=医王なのである。

本堂の左手の杉木立を進むと、その奥に薬師堂がたっている。佐藤基治が建立したという。その回りに、基治や佐藤兄弟の墓がある。墓といっても、いっぷう変わっていて、石版の碑である(4枚目の写真)。

杉木立を戻ると本堂横に瑠璃光殿という宝物殿がある。そこに弁慶の笈など、ゆかりの品々が展示されている。芭蕉は感動のあまり、涙を落とし、袂をぬらした。

 笈も太刀も五月に飾れ紙幟

2021年5月31日月曜日

飯塚の里ー佐藤兄弟の悲劇

(阿武隈川@二本松付近) 

 (左が弁慶@安宅関)

 草枕とは道野辺に草を枕にして寝る意で、旅にかかる枕言葉です。

 草枕旅行く君を幸くあれと いはひへ据ゑつ我が床の辺に(万葉集)

 われらが草枕の旅は、月の輪の渡しで阿武隈川を越え、瀬の上の宿を経て、佐藤庄司の旧館・城跡に至りました。

庄司は庄の司という意味で、本名は佐藤元治。義経の家来、佐藤兄弟の父です。佐藤兄弟は、継信と忠信。奥州藤原三代目・秀衡の命により、義経の家来に。

継信は、屋島の戦いで、平教経の放った矢に義経の身代わりになって戦死。黒羽の段で、源氏方の那須与一の剛弓の話をしましたが、その逆です。「平家物語」や謡曲「屋島」に出てきます。

忠信は、頼朝から追われ落ち延びる際、義経の身代わりになって都に潜伏。居所が密告により追っ手にバレて囲まれ自害。芭蕉は忠義に生きた彼らの霊を召喚しながら、涙を落としました。こちらは歌舞伎の「義経千本桜」に出てきます。

こうして佐藤兄弟は、若くして亡くなってしまったわけですが、能や歌舞伎を通じて、不易の名をいまに伝えることになったのでした。パチパチ。

 またかたはらの古寺(医王寺)には石碑があり、ふたりの嫁も召喚しました。そのしるしが、まづあはれ。佐藤兄弟に代わり、凱旋姿を姑に見せたといいます。

芭蕉は、女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしました。「女なれども」というのは芭蕉がおっしゃっていることなので、悪しからず。

寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀・弁慶が笈をとどめて什物とす。そして一句。

 笈も太刀も五月に飾れ紙幟(かみのぼり)

 きょうは6月1日、五月じゃないぞ、もたもたしているからだと芭蕉に叱られているわけではありません。芭蕉のいう五月は旧暦ですから、新暦でいえば6月10日から30日間。いまから飾っても間に合います。智に働かなくても角は立ちません。

 ※ところで、博多大丸地下2階の和菓子屋「鈴懸」ご存知ですね。鈴懸というのは、弁慶がひっかけている上っぱりのことですよ。