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2021年6月29日火曜日

松島夜泊ー旅愁


 (大観荘から松島湾をのぞむ)
 

 (天拝山のカササギ)

 おくのほそ道の旅を映画にするのなら、松島の夜のバックには唱歌「旅愁」を流してほしいですね。

1 更け行く秋の夜 旅の空の
  わびしき思いに 一人悩む
  恋しや故郷 懐かし父母
  夢路にたどるは 故郷の家路
  更け行く秋の夜 旅の空の
  わびしき思いに 一人悩む
2 窓うつ嵐に 夢も破れ
  遙けき彼方に 心迷う
  恋しや故郷 懐かし父母
  思いに浮かぶは 杜の梢
  窓うつ嵐に 夢も破れ
  遙けき彼方に 心迷う

本歌をふまえて歌を詠む方法が本歌どり。本歌の存在がはっきりとわかるやり方。そこまでいかないけれど、なんとなく匂うという連句の付句の手法が俤付(面影付)の方法です。

おくのほそ道のなかには、俤という言葉はところどころにでてきます。

 秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なほあはれなり。(白河の関)

 五百年来の俤、今日の前に浮かびて、そぞろに珍し。(塩竈神社)

 眉掃きを俤にして紅粉の花 (尾花沢)

 俤松島に通ひて、また異なり。 (象潟)

塩竈の夜から松島の夜にかけて、張継の『楓橋夜泊』を俤にしているような気がしてなりません(西鉄通りの中華・大京園に拓本が掲げられていることは以前書きました。)。

 月落ち烏啼きて霜は天に満つ
 江楓 漁火 愁眠に対す
 姑蘇城外 寒山寺
 夜半の鐘声 客船に到る

詩人が江蘇・浙江に遊んだおり、船で蘇州までやってきたときの作ですが、「塩竈の夜に入相の鐘を聞く。」「船を借りて松島に渡る。」「およそ洞庭・西湖を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮を堪ふ。」あたりの表現ぶりや、瑞巌寺との距離感、旅愁という主題などに俤を感じます。

 鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける 中納言家持

百人一首に採られたこの歌は「月落ち烏啼きて霜は天に満つ」を基にしたものといわれています。烏が鵲になっていますが、カササギはカチガラスといいますから。

張継と家持はほぼ同時代人。張継が安史の乱のため江南に逃れた755年から、家持が没する785年まで30年の間に、12回、16回、17回の遣唐使が帰国していますので、そのどれかで誰かが伝えたのでしょう。いまでいえば本場ニューヨークで流行っている最新のヒットソングみたいなものだったでしょうから。

松島の夜→『楓橋夜泊』→鵲の歌→大伴家持とつなげておくと、つぎの石の巻にうまくイメージがつながります。そのことは石の巻の段で。

2021年6月20日日曜日

塩竈神社(鹽竈神社)

(宮柱ふとしく、採椽きらびやかに) 

(石の階、九仞に重なり)

 あれれ。土日のんびりしているあいだに、トミーが連投しています。少なくとも雨ニモ負ケズの投稿は芭蕉一行が岩手県に入るまで待ってほしかった気がしますが、しかたありません、先を急ぎましょう。

 早朝、塩竈の明神に詣づ。国守再興せられて、宮柱ふとしく、採椽きらびやかに、石の階九仞に重なり、朝日朱の玉垣をかかやかす。かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそわが国の風俗なれと、いと貴けれ。

写真をうまく撮るには斜光線がいい、といわれています。朝夕、日の光が斜めに差すと、被写体が立体的に写り、平板な作品を免れるからです。

芭蕉の描写も、早朝参拝の効果でしょう。清澄な空気のなか、お宮全体がキラキラと輝いています。もともと塩竈神社は小高い丘の上にあり、仰ぎ見るかんじなのです。それに、さらに早朝効果がつけくわわって、神々しさばつぐんです。

(文治三年の宝灯)

 神前に古き宝灯あり。鉄の扉の面に「文治三年和泉三郎寄進」とあり。五百年来の俤、今目の前に浮かびて、そぞろに珍し。かれは忠義忠孝の士なり。佳名今に至りて慕はずといふことなし。まことに「人よく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれに従ふ」といへり。

芭蕉が塩竈神社をキラキラと描いたのは、こちらの本題をより効果的に浮かび上がらせたかったからでしょう。和泉三郎は、奥州藤原三代・秀衡の三男・忠衡です。忠衡という名前をもらったときに、忠衡の運命は定まったのでしょう。

奥州藤原氏については、NHK大河ドラマ『炎立つ』でやっていました。後三年の役ののち勃興して奥州の覇者となったものの、わずか三代で頼朝に滅ぼされてしまいました。

頼朝に追われる義経は、秀衡を頼って奥州に落ち延びます。義経にふところに飛び込まれた秀衡は、さぞや困ったことでしょう。ところが、頼朝との駆け引きがこれからというときに、病没してしまいます。

それが文治三年(1187年)です。芭蕉来訪の500年前。和泉三郎こと忠衡はどのような願いを込めて、この法灯を寄進したのでしょうか。

鎌倉の圧力に屈し、泰衡は義経を殺し、その首を頼朝にさしだしました。忠衡は義経に対する忠義の心からこれに反対し、やはり泰衡に殺されてしまいます。その後、その泰衡も頼朝に攻めほろぼされてしまいます。

判官びいきもあり、のちの人々は、忠衡を忠義忠孝の士なりとして褒め称え、その名をいつまでも慕います。よく道を勤め、義を守れば、不易の名を残すことができるーというわけです。