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2022年12月26日月曜日

文楽「曲輪文章 吉田屋の段」


 アバターのつぎは、博多座で文楽(人形浄瑠璃)公演の鑑賞。作品は「端模様夢路門松(つめもようゆめじかどまつ)」と「曲輪文章(くるわぶんしょう)吉田屋の段」。

文楽はまたの名を人形浄瑠璃という。文楽は三業といって、太夫、三味線、人形遣いの3つの専門職でなりたつ。博多座に行けばわかるが、舞台上では人形芝居が、舞台右手に張り出した床上では太夫が浄瑠璃の詞章を語り、三味線が音楽を伴奏している。

人形芝居は世界中にあるようだ。文楽の特徴は3人遣いのものがあるということ。この点は世界に類例がないようだ。

映画「アバター」は、アバターを介して異世界に入り込み、人間とは何か、人生とは何かを問う映画である。文楽の人形も、江戸時代のアバターのようなものだ。

文楽の人形は主役級と端役級にわかれ、主役級の人形は3人で遣うが、端役級は1人で遣う。その人形のことを「つめ人形」と呼ぶ。このことが「端(つめ)模様夢路門松」の話の背景になっている。

門松という名のつめ人形が3人遣いにあこがれていた。ある日夢がかなって3人遣いの人形になれた。が、はたしてそれによって幸せになれるのだろうか。♪べんべん。

文楽の作品はほぼ悲劇。唯一といえる例外が「曲輪文章 吉田屋の段」なのだとか。そのため、年末年始の公演によくつかわれているのだそう。

ところで「文章」は文を偏とし、章をつくりとする一字で表される。しかし実際にはそのような漢字はない。文楽のタイトルは奇数でなければならないというシバリがそうさせている。そのため歌舞伎では「廓文章」と表記されている。むかしの人たちは縁起の善し悪しにしばられ、奇数を好んだのだろう。

豪商藤屋の跡取り息子伊左衛門は無駄づかいがたたって勘当中の身。歳末、もちつきなどで慌ただしいなか、大阪・新町の揚げ屋である吉田屋に伊左衛門が尋ねてくる。

彼の目当ては扇屋の遊女・夕霧。夕霧といえば源氏物語だろうけれども、ここでは実在した遊女。姿美しく芸事に秀でた名妓だったが27歳で亡くなった。美人薄命。その死を惜しみ、追悼作品がいくつも作られた。本作もその一つ。

文楽で1人遣いに飽き足らず3人遣いとなったのは、人の動きのリアリティーを追求するためだったろう。3人のうち2人は黒子(パペットマペット)だから、なんとか頭のなかで消去できる。

残る1人は黒子でもなく、一人の男性として立ち居振る舞っている。その存在感は考えようによっては舞台上でじゃまになる。しかしいつしか夕霧がまるで生きているように動き出し、そのさまに心打たれるのである。

ストーリーはとくになく、2人の痴話げんかが続き、伊左衛門の勘当が解かれる報せが届き、ハッピーエンドに。よく分からないけど、祝賀ムード。♪べんべん。

2022年6月5日日曜日

六月博多座大歌舞伎


  雨の日と日曜日は博多座。ということで、大歌舞伎の観劇。コロナ禍後、初かな。お客さんもやや少なめ。

昼の部の演目は、橋弁慶、鷺娘、義経千本桜からすし屋の段。鎌倉殿の影響だろうか、義経にはじまり義経に終わる。間奏は菊之助の鷺姫。暗闇でしか見えぬものがある、暗闇でしか聞こえぬ歌がある。カムカムの桃剣さんと同一人物とはおもえぬ女方舞踊。

義経千本桜といいつつ、すし屋の段には義経はでてこない。でてくるのは死んだはずの平維盛。絶世のイケメンだったらしい。鎌倉殿では濱正悟が演じていた。

死んだはずというのは、平家物語によるから。一の谷の戦から戦線を離脱した維盛は熊野灘で補陀落をめざして自死したことになっている。しかし、そこははっきりしないらしい。そのため、義経千本桜の作者らの創作意欲を刺激のだろうか。

すし屋の段の主役は維盛でもない。すし屋のドラ息子のいがみの権太。かれは母は騙してお金をせびりとったり、親不孝の数々。この日は父親がかくまっていた維盛とその妻子を鎌倉方に売り渡してしまう。これに怒った父は彼を斬ってしまう。

・・・。刃傷で息も絶え絶えとなった権太は、大どんでん返しの真相を語る。ここは菅原伝授手習鑑の寺子屋の段によく似ている。江戸期の庶民はこのような、ほんとうは自己犠牲で義理堅い、どんでん返し、取り返しがつかない、といった場面が好きだったんでしょうね。

ちなみに、「維盛」を追い、その首を受け取った鎌倉殿の武将は梶原景時。演じるのは中村芝翫。私生活も忙しいらしい。NHKドラマでは中村獅童がしぶく演じている。

2022年3月8日火曜日

『桐竹勘十郎が魅せる人形浄瑠璃 文楽の世界』

 

 昨夕は『桐竹勘十郎が魅せる人形浄瑠璃 文楽の世界』@博多座。昨年10月重要無形文化財(人間国宝)に認定された桐竹勘十郎さんの語りや人形遣い。

①文楽の三業とは。②桐竹勘十郎インタヴュー。③「二人三番叟」の三部構成。会場と一体となるよう気配りがなされていた。

文楽は太夫、三味線、人形遣いの三業から成る。それぞれの芸の見せどころ、見どころの解説。太夫は多様な登場人物の声の使い分け、三味線は喜怒哀楽の音の違い、人形遣いは3人で操作するのでそれぞれの勘所とは。

つぎに桐竹勘十郎さんのインタヴュー。1953年生まれだから、稲村弁護士と同世代。1967年中学2年のときにデビュー。当時は人手不足で、若いというだけでいろいろやらされたとの昔話が興味深い。

やはり人間国宝だった父の名跡を襲名。披露公演は『絵本太功記』。師匠や兄弟子らもバランスよく活躍できるのがよい演目なのだそうだ。なるほど。

関西人らしく、いろいろ笑える企画にチャレンジされている。コロナ禍対応の動画づくりはその一つ。人形が器械に向かって検温する場はいちばん笑えた。

〆の演目は二人三番叟。これは二つの人形が並んで演技することになるので、人形遣いのうまい/下手が左右対比しながら観察できる。比らべられる若手のほうもたいへんなプレッシャーだ。

われわれの仕事もこのようにして年配者と若手が競うようになれば、互いによい刺激になるだろう。そういう場がないわけではない。集団訴訟の証人尋問や意見陳述などがそう。だから、若手はどんどん集団訴訟に参加し、そこで鍛われればよいのだ。

2022年3月7日月曜日

曾根崎心中

 

 先週土曜日は人形浄瑠璃・文楽の観劇。演目は『曾根崎心中』(写真左)。近松門左衛門作。大野城まどかピアでの地方公演。

文化庁の後援及び日本芸術文化振興会の助成事業。博多座公演と比べて安い。このパンフレットも500円と格安。大阪まで観に行くことを考えると夢のよう。でも入りは半分弱くらい。とてももったいない。

梅田から御堂筋を南にブラブラしていると、東側にお初天神(露天神)がある。曾根崎心中は、そのお初と徳兵衛が恋をまっとうし、心中した話。生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段からなる。お初天神は、最後の段の舞台で、2人が心中した場所である。

初の世話物。いまでいえば、時代劇ばかりの番組編成のなかに、はじめて現代ドラマをもちこんだもの。大ヒットした。カムカムの伏線はじつは近松がしかけたのだった。

文楽はお能よりわかりやすい。もともと客層がちがう。お能を観ていたのはいまでいえば高級官僚ら、文楽を観ていたのは庶民。そういうこともあるのか、文楽には字幕がついている(文語であるが、耳だけでなく目を使えるというのが断然ちがう。)。

そもそも人形劇だからわかりやすいということもある。大きな人形を3人で操縦する。世界でも例をみないという。

ストーリーと人形のせりふは舞台右手に座っている太夫がよく通る声で語る。その横では大きな三味線が劇をもり立てる(これはいまのテレビドラマでもそうだ。役者の演技はそこそこでも背景にながれる音楽の美しさに感動してしまうことがある。)。

わが?三浦しをんがファンである。『あやつられ文楽鑑賞』『仏果を得ず』(いずれも双葉文庫)の著作がある。まずはこのへんに手をだし、やがてその術中にはまり、あやつられてみてはいかが。


2022年3月6日日曜日

モデルナワクチン副反応(報告)


  金曜日、ワクチンの副反応がないのも寂しいと書きながら、こんなこと書いたら、よっしゃーと副反応に襲われるのではないかと危惧はしていた。すると案の定

トミーの報告にあるとおり、金曜日の昼からうっすらと熱発した。ぼんやりする。測ってみると36.9度。平熱が36.3度であるから、ややである。若ければ38度くらいまで上がったかもしれないが、60歳もすぎると発熱もぼんやりしている。

病気早退するにも中途半端な症状だったので、午後も執務した。事務局からは顔が赤くなっていると指摘されたが、顧客からは特段の指摘はなかった。

翌朝(土)はもう熱が下がっていた。でも注射部位の5センチほど下は赤みをおびて丘状に腫れている。これが噂のモデルナアームか。他人が噂するほどのものはひととおり体験してみたい派であるが、これはちょっと遠慮したかった。

当日は昼からオンライン会議と観劇(のちほど報告)があったので、昼前から外出し20時ころ帰宅した。

昨日(日)は、怪鳥会の山登り。宝満山から三郡山を経由して若杉山までの縦走を予定していた。山中8時間のロングコースである。しかし病み上がりでもあるし(感染症によるものではないものの、ワクチンにより体内の免疫機構をフル稼働させた分、予備能が費消されている。)、宝満山の山頂まででリタイアさせてもらった。

このような苦痛を高頻度でもたらす異物を、公衆衛生の名のものとに、彼ら自体にそれほど恩恵のない子どもたちにまで打つ必要があるのか疑問である。

2022年1月18日火曜日

初観能ー『翁』『福の神』『石橋』

 

 新大阪駅の文楽ポスターの俤(おもかげ)付けで、能観劇の話。

 日曜日は大濠公園能楽堂で観世流の特別公演。昨年いっぱい同能楽堂の耐震工事やコロナ禍のため公演はなく、ひさしぶり。

お能には上掛二流(観世・宝生)と下掛三流(金春・金剛・喜多)の5流がある。

観世流は室町時代の観阿弥が初代。その息子が有名な世阿弥。室町幕府三代将軍・足利義満に認められ、世阿弥が能を完成させた。現在の宗家は二十六世・観世清和氏。昭和三十四年生まれだから、同い年だ。

正月公演なうえに、大濠公園のリニューアル記念公演でもあり、演目は『翁(おきな)』『鶴亀』『狂言 福の神』『老松』『石橋(しゃっきょう)』など、めでたいものづくし。「うわぁ、お能のおせち料理や~(彦摩呂ふうに)」。

『翁』は古態を残していて、〝能にして能にあらず”といわれる。翁、千歳(せんざい)、三番叟(さんばそう)の三役がめでたい謡と舞を重ねる。「うわぁ、めでたい舞の三段重ねや~(彦摩呂ふうに)」。三番叟は、みなさまも柳川さげもんで見たことがあるでしょう。

『福の神』は出雲大社に初詣にでかけた二人組が福の神から生き方の指導を受ける。豊かになりたいという二人にご託宣。いわく、金銀ではなく、心の持ちようという元手が必要であると。なるほど。

〆は『石橋』。中国・インドの仏跡をめぐる寂昭がワキ僧。中国の清涼山をおとずれたところ、深い谷にかかった細く長い石橋が行く手に。橋のむこうは文殊菩薩の浄土。寂昭が渡ろうとすると、生半可な者には渡れないといわれてしまう。

橋上で紅白の牡丹のあいだを紅白の獅子が華麗に舞い遊んで終局。めでたきものとして「唐獅子・牡丹」のとりあわせは有名であるが、典拠はこの『石橋』である。また歌舞伎の連獅子の元もこれ。

登山をしていると「蟻の戸渡り」などという両側が切れ落ちた断崖絶壁を行くことがある。今後そのような場所で牡丹と獅子があらわれたら、先へすすむことを断念するとしよう。

2021年12月16日木曜日

『菅原伝授手習鑑』


  道明寺、道明寺天満宮を訪れたので、旅の反芻もかねて、『菅原伝授手習鑑』を反芻読書した。

とはいっても、オリジナルの脚本ではなく、河出からでている日本文学全集10のなんちゃって現代語訳である。とはいっても、三浦しをん訳。とても読みやすい。

とはいっても、最初はとても戸惑う。平安時代の話なはずなのに、江戸時代に書かれた脚本なので、セリフや風俗などは江戸時代である。ま、当時からなんちゃって江戸時代訳だったわけである。

でも二読、三読するうちに、そんな違和感はなくなってしまう。いつしか江戸時代の観客と一体化して舞台に見入り、手に汗をにぎってしまう。

時の権力者である藤原時平やその子分たち、かれらの悪逆非道に負けるな道真公!

面白かったので、つづけざまに『義経千本桜』まで読んでしまった。こちらはいしいしんじ訳である。現代の売れっ子小説家による、江戸時代の売れっ子脚本家の翻訳であるから、手慣れたものだ。

義経もでてくるが、主役は彼らをめぐる人物群像である。源平合戦も、壇ノ浦の戦いはでてこない。屋島の戦いのなかで済まされてしまう。こまかいことは気にしない。

壇ノ浦や熊野沖で死んだはずの、安徳天皇や平の知盛、維盛、教経も生きている。そして義経一行にからんでくる。だいたい義理と人情の板挟みというやつだが、いまでも面白いし感動する。

これかと思ったものがあれだったりして二転三転する。ハリウッド映画のようだ。逆か。真似たとすれば、ハリウッド映画のほうだ。この点は歴史的に明らかだ。

さらに『仮名手本忠臣蔵』まで読み進んでしまった。松井今朝子訳というのがいい。『義経千本桜』読了の日がちょうど12月14日だったこともある。討入りの日だ。流れで『仮名手本忠臣蔵』に討ち入ってしまった。

これも読みやすくはない。実話のとおりに書くと、江戸幕府を批判しているともとられかねない。当時の脚本家がその点をはばかって、時代を足利幕府に設定しているからだ。

登場人物は、吉良上野介と浅野内匠頭ではなく、高師直と塩治判官となっている。吉良上野介の役職「高」家→「高」師直、赤穂藩主・浅野内匠頭→赤穂の特産は塩→塩治。こうしたサジェスチョンにより、当時の観客にも実は赤穂浪士の討入りの話だと分かる仕組みになっている。

こちらも読みながら、頭の中でいちいち翻訳しなければならない。足利時代→江戸時代、さらに現代への三段跳び。言論の自由がないというのは、じつに不自由なことだ。

12月10日フィリピンとロシアのジャーナリストにノーベル賞が授与された。彼らが命がけで表現の自由を守っているからだ。

朝ドラ『マー姉ちゃん』でも、太平洋戦争がすすむにつれ言論統制が厳しくなってきた。いま思えばこっけいなことばかりだ。でも当時はみな「死ぬほど」まじめにやっていたのだ。

いまの日本はどうだろう。権力悪にたいし真相究明・真相解明がなされているだろうか。たとえば、森友学園をめぐる財務省の公文書改ざん問題。

自殺した財務省職員の妻が裁判で損害賠償を求めた。国は争わずして妻の請求を全面的に認めた。なぜか。公文書改ざん問題の真相を法廷で追及・明らかにされたくなかったためだろう。

しかし、それでは逆だ。国は責任を全面的に認めたのであるから、すべての真相を明らかにする責任がある。そうでなければ、天神さまの怒りに触れ、天罰がくだること疑いない。