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2023年1月31日火曜日

一片の氷に世界を見る(3)

 


 高校生の一時期、日本史の教師になりたいと思っていた。S先生の授業がすばらしかったから。2年だったか3年だったか、2学期が終わった時点で近世までしか進んでいなかったので、学校の図書館で近代の補講をやっていただいた。その時の感動は忘れられない。日本史って面白いと思った。

その先生に「読んどいたほうがいいよ。」と言われて読んだのが井上靖『天平の甍』(新潮文庫)。唐招提寺を開いた唐の高僧・鑑真を日本に招聘した日本の若き学僧たちの物語。そもそも入唐そのものが命がけだった時代にハードルが高すぎる課題である。

その冒頭7頁に、つぎの一節がある。

 大安寺の僧普照(ふしょう)、興福寺の僧栄叡(ようえい)の二人に、おもいがけず留学僧として渡唐する話が持ち出されたのは、二月の初めであった。二人は突然、当時仏教界で最も勢力を持っているといわれていた元興寺の僧隆尊の許に呼び出されて、渡唐の意志の有無を訊ねられた。普照も栄叡も、隆尊と親しく言葉を交えたのはこの時が初めてであった。二人とも隆尊の華厳※の講義を聞いたことはあったが、平生は傍へも近寄れぬ相手であった。

華厳に付された※は注解の印である。末尾203頁に次の注解がある。

※華厳
 釈迦成道後はじめての説法を録した華厳経を所依として建てた宗派のこと。世界を太陽の顕現であるとして、かすかな塵の中に全世界を映し、また一瞬の中にも永遠を含むという一即一切の世界観が根本教理である。
 印度では竜樹・世親を祖とし、中国では唐の賢首によって大成され、天平8年(736)唐僧道璿がその章疏をもたらし、同12年、新羅僧審祥が、はじめて華厳経を講じた。そのため、審祥を元祖とする華厳経が、東大寺を根本道場として成立した。

ウィキペディアからの引用で申し訳ないけれども、華厳経の内容について次の解説がある。

 智顗の見解では、この経典は釈迦の悟りの内容を示しているといい、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。「ヴァイチャナ・ブッダ」を「太陽の仏」と訳し、「毘盧遮那仏」と音写される。毘盧遮那仏は大日如来と同一の仏である。・・
 陽光である毘盧遮那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧遮那仏の宇宙は衆生で満たされている。これを「一則一切・一切即一」とあらわす。・・

いうまでもなく、奈良の大仏さんは毘盧遮那仏である。


2021年8月16日月曜日

玄昉の墓

 
(観世音寺の隣にある玄昉の墓)

 平家物語の「倶利伽羅落」「篠原の戦い」「真盛」のつぎの章は「還亡」です。おくのほそ道からすれば脱線ですが、太宰府ゆかりの人ですので「還亡」の話までしましょう。

還亡というのは玄昉のことです。日本史で習いました。ご存知でしょうか。玄昉は遣唐使として中国に留学しています。その際、学僧仲間から、玄昉は還亡と共通の音であるから、日本に帰ってよくないことが起きるといわれたそうです。実際そうなりました。それで還亡という章題になっています。

倶利伽羅峠・篠原の戦い、実盛の話のあとに玄昉の話は、時代も話題も大きく離れ、つながりが悪い。なぜつながるかというと、こう。

源平合戦における北国の戦いで、多くの平家武者が亡くなり、都はその妻や親たちの悲嘆につつまれました。そこで戦乱がしずまったのち、伊勢神宮へ行幸が行われることになりました。

その伊勢神宮への行幸がはじまったのは、約450年前、藤原広嗣の乱のとき。藤原広嗣は、橘諸兄、吉備真備とともに、玄昉をのぞこうとして乱を起こしたからです。広嗣と玄昉は因縁の対決みたいなところがあり、後記のおどろおどろしいエピソードもあります。

玄昉は遣唐使として中国に留学し、法相宗を学びつつ18年間在唐し、玄宗皇帝にも認められています。鑑真の招へい時の苦難を描いた井上靖の『天平の甍』にも、たしかちらりと出ていたと思います。

奈良時代の歴史は、台頭した藤原不比等にはじまる藤原氏と皇族の政争が激しく、ややこしい。皇族がたの長屋王のあと、いわゆる藤原四兄弟が政権を握るも、おりから流行した天然痘により全滅。そのあとを引き継いだのが皇族がたの橘諸兄です。

橘諸兄はすでにこのブログにでてきました。覚えていますか。浅香山の段です。

 浅香山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに

葛城王は饗応のまずさに気分を害したものの、采女がうたったこの歌に機嫌をなおしました。その葛城王こそがのちの橘諸兄です。

橘諸兄は唐帰りの吉備真備と玄昉を重用しました。玄昉の権勢はそうとうなものだったよう。藤原広嗣の乱後、動揺した聖武天皇に大仏建立を勧めたのは玄昉だとか。

皇族がわの橘諸兄政権に対し、面白くないのは藤原氏側。藤原広嗣は大宰小弐に任じられ、大宰府に赴任したものの、これを左遷と受け止め、九州で乱を起こしました。

その鎮圧を命じられたのが大野東人。多賀城の壺の碑に名前が刻まれていましたね。彼に乱はまもなく鎮圧されました。

その後も藤原氏側の巻き返しは続き、藤原仲麻呂が勢力をもつようになると、橘諸兄政権は失速。玄昉も観世音寺の別当に左遷されました。

藤原広嗣の怨霊はすさまじく、玄昉が彼の供養をしようとして「高座にのぼり、敬白の鐘うちならす時、俄に空かき曇、雷ちおぼただしう鳴って、玄昉の上に落ちかかり、その首をとって雲のなかへぞ入りにける。広嗣調伏したりけるゆゑと聞えし。」(平家物語)

というわけで、観世音寺の隣にはいまも玄昉の墓がひっそりとのこされています。

2013年6月10日月曜日

ボダイジュ





ボダイジュ。
太宰府・戒壇院に咲いています。

この木の下で
お釈迦さんは悟りをひらいたとか。

実際には,インド,中国,西洋など
種類があるらしい。

もちろんお釈迦さんが悟りをひらいたのは
インド種のものということになります。


戒壇院の説明によると
鑑真がもたらしたものだとか。

別の資料によると,ボダイジュを
日本にもたらしたのは栄西だとか。

戒壇院が鑑真説を支持したい気持ちはわかりますが
どうなんでしょう?


シューベルトの歌曲集「冬の旅」に
あるのは,西洋ボダイジュ。

  市門の前の 泉の側そこに
  一本の菩提樹が立っている。

   僕はその木陰で見たものだった
  とてもたくさんの甘い夢を。

  (中略)

  いま 僕は何時間も
  あの場所から離れたはず。

  けれど僕にはずっと ざわめきが聞こえたままだ
  「あなたはここで安らぎを得られたのに!」

失恋した若者が安らぎが得られたはずの
菩提樹の木蔭のある町を捨てて出ていく。

悲しい記憶とともに,故郷を離れる
後悔,迷いが強く表現されています。

おなじボダイジュなのに
東洋と西洋でえらい違いです。


いまオルブレヒトつながりでブルガーコフの
『巨匠とマルガリータ』を読んでいるのですが

そのオープニングの場所は
菩提樹の木蔭になっています。

作家2人に正体不明の男が語りかけ
なにやら不穏な空気がただよっています。

西洋のボダイジュは
悟りとは対照的な感情を喚起するものなのでしょうか?


古くから人類と関わりがあり,とくにゲルマン民族にとっては
自由の象徴として神聖視されてきたらしい。

シューベルトも,ブルガーコフも
このような意味をもたしているのでしょうか?


花言葉は
結婚,情熱の恋。

これまた自由とは対極にあるようで
よく分かりません。

2012年6月14日木曜日

ボダイジュ by.福岡県筑紫野市の弁護士ブログ



 ボダイジュ(菩提樹)
 中国原産の落葉高木。

 太宰府戒壇院で咲いているときいて
 見に行ってきました。

 淡黄色の小さな花がたくさん咲き
 いまが見ごろです。

 ナツツバキが沙羅双樹で,仏がその下で入滅したとすれば
 ボダイジュは,仏がその下で悟りをひらいた木。

 実は,インドボダイジュは
 ちょっと種がちがうようですが。

 シューベルトの西洋ボダイジュも
 ちょっと種がちがうようで。
 
 鑑真が伝えたとの言い伝えがあるとか
 ほんとうでしょうか?それにしては木が小ぶりのような?

 栄西が中国の天台山万年寺で菩提樹の種子を播いたのを持ち帰り
 香椎宮に1190年に植えたとの記録はあるとか。

 鑑真の渡日からは400年以上あとのことですが
 こちらは証拠があります。

 花言葉は,情熱の恋,熱愛というのと
 結婚,夫婦の愛というのが。

 情熱の恋,熱愛も,「悟り」を経て
 結婚,夫婦の愛に変化するのでしょうか?

         ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳