2024年6月11日火曜日

成瀬って誰?

 

 由良のとをわたる舟人かぢをたえ
        ゆくへも知らぬ恋の道かな  曽禰好忠

 由良の門を漕いで渡る船人が、櫂がなくなって、どこへ漕いでいっていいのか、行方がわからないように、これからどうしていいのか、途方にくれる恋の道だよ。

 百人一首46番の歌。曽禰は長く丹後掾をつとめた。丹後といえば、和泉式部の夫の赴任地として先に出てきた。天の橋立があるところである。由良の門は、そのずっと東。いまなら由良川橋梁があるあたりで、鉄ちゃんたちの熱い視線を浴びている。
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 長らく百人一首シリーズをつづけてきたが、それもきょうで結びにしようと思う。その掉尾を飾るのがこの歌だ。なぜ、この歌かというと宮島未奈著『成瀬は天下を取りにいく』に出てきたから。


 『成瀬は天下を取りにいく』はことしの本屋大賞受賞作。さいきんは、本屋大賞や直木賞作に手を出していなかったのだが、春に琵琶湖に行く用事があったので読んでみた。

 成瀬って誰?察しのとおり、本書の主人公である。成瀬あかり。膳所の高校生。九州人に膳所(ぜぜ)と言っても知らない人のほうが多かろう。琵琶湖畔・大津にある。



 九州人である当職がなぜ知っているかというと膳所には義中寺があるから。義仲寺(ぎちゅうじ)の義仲は、あの木曾義仲のことである。墓がある。平家物語「木曾の最後」の場面。

 木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相ばかりのことなるに、薄氷は張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつとうち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎ給へる内甲を、三浦石田次郎為久、追つかかつて、よつ引いてひやうふつと射る。痛手なれば、真甲を馬の頭に当てて、うつぶし給へるところに、石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。

 粟津は、膳所のやや南にある。義仲寺は、巴御前(ともえごぜん)が草庵を結び義仲を日々供養したことにはじまるとされる。


 義仲寺には松尾芭蕉の墓もある。芭蕉は義仲も近江の人々も大好きだった。大阪御堂筋で亡くなった芭蕉だが、遺言は「骸は木曾塚に送るべし」。


残念ながら、『成瀬は天下を取りにいく』には、義仲も芭蕉も登場しない。出てくるのは近江神宮である。近江神宮は、天智天皇が近江大津宮を営んだことから、同天皇を祭神としてしている。

天智天皇といえば、百人一首第1の歌である。


 秋の田のかりほの庵の
      わが衣手は露に濡れつつ  天智天皇


この歌にちなみ、近江神宮では競技カルタの名人位・クイーン位決定戦が毎年一月に行われている。


近江神宮・競技カルタといえば「ちはやふる」である。アニメ原作だが、広瀬すず主演で映画になっている。主人公綾瀬千早は競技カルタの名人・クイーンを目指す。ちはやふるは、在原業平の歌から。


 ちはやふる神代もきかず竜田川
      からくれなゐにみずくくるとは  在原業平朝臣

ずいぶん遠回りしたが、『成瀬は天下を取りにいく』は高校生の成瀬の生きざまを中心に、6つの短篇からなるオムニバスである。その第5話が「レッツゴーミシガン」。

西浦航一郎は、広島県代表として、全国高校かるた大会に出場する。そして、成瀬に一目惚れしてしまう。その際、かれの手中にあった札こそが冒頭の歌である。

 由良のとをわたる舟人かぢをたえ
        ゆくへも知らぬ恋の道かな  曽禰好忠

ミシガンというのは、琵琶湖の観光船の名である。西浦は、成瀬と観光船ミシガンでのデートになんとか漕ぎ着けることができるだろうか?・・・

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月10日月曜日

光源氏って誰?

 

  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに
         乱れそめにしわれならなくに  河原左大臣

 陸奥産のしのぶ摺りの乱れ模様のように、私の心はひどく乱れている。いったい誰のせいで乱れはじめたというのでしょう、私のせいではないのに。すべてあなたのせいなのに。

 百人一首14番の歌。河原左大臣は、源融(みなもとのとおる)。『源氏物語』主人公である光源氏のモデル候補一番である。嵯峨天皇の皇子でありながら臣籍に降下、源姓を名乗る。藤原基経が天皇の外戚として摂政に任じられると自宅にひきこもるなど、光源氏の境遇と似ている。

その他、先に紹介した実方や伊周(これちか)もモデルとして考えられている。実方は一条天皇により奥州に左遷され、伊周も大宰府に流されている。須磨・明石の段のストーリーに影響を与えているのだろうか。


 融は陸奥出羽按察使を任官したため、陸奥にまつわるエピソードが多い。この歌もそのひとつである。

 福島市の東には信夫(しのぶ)の里がいまもある。そこには文字摺石もある。「おくのほそ道」で芭蕉も訪れた。

 明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遙か山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。里のわらべの来たりて教へける、「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面、下ざまに伏したり」といふ。さもあるべきことにや。
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

 なぜ、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべってのか?それは虎女伝説のため。

 昔々、都から河原左大臣源融という貴人がこの地にやってきて、虎女という美少女と愛し合うようになった。やがて、都に帰った融を忘れかねて、虎女がもじ摺り石の面に麦をすりつけると、融の面影が浮かび出たという。 


 (渉成園) 

 融は六条河原院(現在の渉成園)に塩竈の風景を模した庭園を造らせた。そして藻塩を焼く煙を立ち上らせ、池にはわざわざ難波・尼崎から海水を運び込ませていたという。当代きっての風流人で、在原業平とも深い親交があった。


(陸奥塩竈神社)


(塩竈)

 『伊勢物語』塩竈(81段)

 むかし、左のおほいまうちぎみいまそがりけり。
 加茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。
 十月のつもごりがた、菊の花うつろひあかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王たちにおはしまさせて、夜ひと夜、酒飲みし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。
 そこにありけるかたゐおきな、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。
 塩竈にいつか来にけむ朝なぎ釣する船はここによらなむ
となむよみけるは。陸奥の国にいきたりけるとに、あやしくおもしろき所々大かりけり。・・・。

これを元に、世阿弥は謡曲『融』を書いた。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月9日日曜日

伊勢大輔って誰?

 

 いにしへの奈良の都の八重桜
       けふ九重ににほひぬるかな  伊勢大輔

 古都奈良の都で咲いていた八重桜が、今日は新しい都京都に献上されて、九重の宮中で美しく咲き誇っていますよ。

 百人一首61番の歌。伊勢大輔は、伊勢神宮祭主の娘。六条御息所のエピソードといい、当時、都と伊勢は密接な交流があったのだろう。

伊勢はやはり彰子中宮のサロンに仕え、和泉式部や紫式部と親交があった。そして実家である大中臣家は歌人の家としても代々有名であった。

 この歌の詞書。

 一条院の御時、奈良の八重桜を人のたてまつりて侍りけるを、そのをり御前に侍りければ、その花をたまひて歌よめとおほせられければよめる。

 当時、伊勢は新参女房で、いわば初出場、デビュー曲だった。桜の受け取り役は先輩の紫式部から譲られた。中宮彰子はもちろん道長も同席。歌よめと命じたのは道長だった。

本人も緊張したろだろう。自分も大法廷で初めて尋問したときは極度に緊張した。まわりも固唾をのんで事のなりゆきをうかがった。あの代々歌詠みの家系である大中臣家の娘らしいけれど、どれほどの実力かしら?

そうしたら、披露したのがこの歌だ。九重は山の名ではない、宮中のことだ。いにしえの奈良とけふ九重との対比。八重桜と九重との対比。よくもこれだけスケールの大きな歌を新人がものすることができたものだ。

結果、「殿をはじめ奉りて万人感嘆、宮中鼓動す」。そりゃそうだろう。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月6日木曜日

大弐三位って誰?

 

 ありま山ゐなの笹原風吹けば
       いでそよ人を忘れやはする  大弐三位

 有馬山から猪名の笹原へと風が吹きおろすので、笹の葉がそよそよとそよぐ。そうですよ、そのように、私はあなたのことを忘れなどするでしょうか、忘れはしません。

 百人一首58番の歌。大弐三位は紫式部の娘である。和泉式部-小式部内侍の母娘につづいて、母娘での登場。いまなら藤圭子-宇多田ヒカルみたいなものか。才能を受け継ぎ、母娘で栄誉を受ける。

大弐三位も、やはり彰子のサロンに入っている。これもまた和泉式部母娘と同じ。というか逆か。

大弐・三位という名前は、前半は夫が大宰大弐だったから、後半は自身が後冷泉天皇の乳母となり従三位に叙されたため。

東京オリンピック2位、パリオリンピック3位となれば、第2位・3位と呼ばれるだろうか。

知りあいの弁護士に夫が(元)弁護士会会長、自身がロータリークラブ地区幹事、ガバナー補佐(予定)のかたがいらっしゃる。世が世なら、弁護士会会長・地区幹事・ガバナー補佐・弁護士だ。


 めぐりあひて見しやそれともわかぬまに
           雲がくれにし夜半の月かな  紫式部

 やっとめぐり会って、見たのが月だったのかどうかもわからないうちに、雲の中に隠れてしまった夜半の月よ。それと同じように、久しぶりに出会ったのに、幼友達のあなただったのか、はっきりと見分けられないうちに、あなたは姿を隠してしまいました。

 百人一首57番の歌。いわずとしれた「光る君へ」の主人公まひろさん。




 有馬はいまでは温泉地になっている。神戸からいうと、六甲山の向こう側の盆地に位置している。さて有馬山とはどこだろう?

猪名(郡)はいまの吹田、伊丹、尼崎あたりのことらしい。つまり、淀川河口の北岸あたりだ。平安時代は笹原だったのだろう。

しかし、有馬の山から淀川河口あたりまで風が吹き下ろすということがあるだろうか?

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調べると、昔から有馬山と猪名はセットで詠まれることが多かったらしい。有馬山は特定の山ではなく、その周辺の山々の総称だという。それなら、いまの六甲山東部でよくないだろうか。よく分からない。

よく分からないといえば、「笹の葉がそよそよとそよぐように、私はあなたのことを忘れはしません」というロジックもよく分からない。時間が経って忘れることができたと思っていても、なにかのひょうしに思い出してしまい、心がざわざわするということだろうか。なんか、ざわざわする。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月5日水曜日

小式部内侍って誰?

 

 大江山いく野の道の遠ければ
       まだふみも見ず天の橋立  小式部内侍

 母の住む丹後国は、大江山を越え、生野を通って行く道のりが遠いので、まだかの有名な天の橋立を踏んでみたこともありませんし、母からの手紙も届いておりません。

百人一首60番の歌。小式部内侍は和泉式部と橘道貞(和泉守)の間の娘。母同様、彰子に仕えた。

 この歌は詞書といっしょに読まないとこうは訳せない。詞書はつぎのとおり。

 和泉式部、安昌に具して丹後国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかがさせ給ふ、丹後へ人はつかはしけむや、使はもうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などたはぶれてたちけるをひきとどめてよめる


 中納言定頼は、百人一首64番に歌を採られている歌人。あの公任の子である。

 定頼は小式部内侍に気があったのか、すこし失礼な戯れごとを言ってしまった。和泉式部は当時、①橘道貞(小式部内侍の父)、②為尊親王、③敦道親王につづく、第4の男④藤原保昌と再婚し、夫の任地である丹後についていっていた。

そうした折り、歌合が開かれることになり、小式部内侍にもお声がかかった。母の名声があまりに高かったので、定頼は「お母様に頼んだ代作の手紙は届きましたか」と冗談を言ったのだ。それに対する反撃が上記の歌。みごと。


(唐津くんち11番曳山 酒呑童子と源頼光の兜)

 大江山に酒呑童子という鬼が出没し、源頼光(マサカリかついだ金太郎はその家来)が退治した。はねられた酒呑童子の首は宙を飛んで頼光の兜にかぶりついたという。

頼光のほうが年長だが没年はあまり変わらないので、小式部の内侍と頼光は同時代人といってよい。このころ、大江山には酒気を帯びた盗賊団が多数出没したのだろう。丹後までの道は地理的のみならず治安・労力的にも遠かったはずだ。


 定頼のこうした軽率な性格は父譲り。父・公任は紫式部におなじような戯れごとを言って、聞き流しの返礼をこうむっている(『紫式部日記』五十日の祝い)。

 左衛門の督(公任)、
 「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」とうかがひ給ふ。源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上はまいていかでものし給はむと、聞き居たり。

 若紫は『源氏物語』に登場する源氏の最愛の女性・紫の上の幼いころの呼び名。公任としては「さいきん評判の源氏物語の作者さんはいらっしゃいますか?若紫の名で呼んじゃおうかな?」みたいなつもりだったろうが、紫式部のまじめな性格をまえにして玉砕。おのれのみ砕けてものを思ふころとなった。まるで「虎に翼」における伊藤沙莉と沢村一樹の間のやりとりのよう。

 清少納言と行成のやりとりが『枕草子』に複数記載されていることは前に紹介したとおり。女官たちは男性官僚たちのちょっかいに悩んだり、かけあいを楽しんだりしたことだろう。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月4日火曜日

和泉式部って誰?

 

 あらざらむこの世のほかの思ひ出に
       いまひとたびのあふこともがな  和泉式部

 私はもうすぐ死んで、この世からいなくなるでしょう。あの世への思い出として、せめてもう一度だけあなたにお逢いしたいのです。

百人一首56番の歌。『和泉式部日記』の作者。日記は冷泉天皇の子である兄・為尊親王(花山天皇の異母弟)が亡くなったあと、その弟・敦道親王との燃え上がる恋を描いたもの。敦道親王が亡くなったあと、和泉は日記を執筆した。

その後、和泉は中宮彰子に仕えた。彰子は、道長と倫子との間の娘。赤染衛門が倫子のサロンのあと、彰子のサロンに仕えるようになったのは、母→娘という自然な流れである。

一条天皇は、文学好き。当初、漢詩文など教養のある定子(高畑充希)にぞっこん。定子には清少納言が仕えていた。定子は道隆と儀同三司母の子である。伊周らの失脚に伴い、落飾してしまう。

その後継をねらったのが、道長と娘・彰子。道長は文学好きな一条天皇の気をひこうと彰子のサロンに華麗な女流歌人をスカウトしまくった。赤染衛門しかり、紫式部しかり、和泉式部しかり。どこぞの野球チームのよう。

和泉式部の人生や日記はスキャンダラスなのだけれども、道長はそこらへんも踏まえつつ、一条天皇の気をひく人材のひとりとしてスカウトしたのだろう。彰子サロンでは、紫式部の4年後輩である。

紫式部は、日記に、和泉式部評を書いている。

 和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたことあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたる言どもに、必ずをかしき一ふしの目にとまる詠み添へ侍り。それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらむは、「いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめり」とぞ見えたるすぢに侍るかし。「恥づかしげの歌よみや」とおぼえ侍らず。

的確といわれるが長いので、『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』の和泉評を引用する。

 和泉式部は、その身体表現、官能性、豊かな表現力において、他の歌人とは一線を画する、独自の恋歌の世界を形成する。

天皇の血をひく貴公子兄弟をはじめ、男にモテモテで恋多き人生から得た糧をすべて恋歌に昇華したのだろう。

ところで、和泉式部の和泉は泉州岸和田というばあいの泉州のことである。先日、和泉葛城山に登った報告をしたが、あの和泉である。

和泉は何度か結婚している。最初の夫・橘道貞が和泉守になったので、和泉式部と呼ばれる。岸和田にはゆかりの地がいくつかある。

 https://www7b.biglobe.ne.jp/~kiku-uj/yukari/izumi.html

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月3日月曜日

赤染衛門って誰?


  村上天皇の天徳四年内裏歌合の最終回、平兼盛と壬生忠見の勝負はどちらが勝ったのか。百人一首で平兼盛が40番、壬生忠見が41番となっていることにあらわれているように、兼盛の歌が勝った。

しかし両者互角。いまでいえば優劣つけがたく、両作ともに直木賞をあげちゃう感じ。だがしかしそこは村上天皇主催の歌合。判者の藤原実頼が勝敗を決めかねて天皇の気色をうかがった。すると天皇はひそかに「忍ぶれど」とつぶやいたので、兼盛の勝ちとなった。

兼盛は自分が勝ったと知ると、他のことは聞かず退出したという。儀礼にとんちゃくしない芸術家肌だったようだ。


 やすらはで寝なましものをさ夜ふけて
          かたぶくまでの月をみしかな  赤染衛門

 ぐずぐずとあなたの訪れを待ったりせず、さっさと寝てしまえばよかったのに、夜が更けて、西の山に傾くまで月を見てしまいました。

百人一首59番の歌。赤染衛門は赤染時用の娘とされるが、実父は兼盛かもといわれる。兼盛が妻と離婚したときすでに妊娠しており、時用と再婚したあと出産したため、兼盛は娘の親権を主張して裁判で争ったが認められなかったという。

平安時代に親権や親子関係の存否について裁判ができたことに驚く。現代であれば親子関係の存否確認はDNA関係で高度の蓋然性をもって証明することができる。


しかし平安時代には血液型の知識もなかったろうから、兼盛は上記状況証拠だけで争ったのだろう。いまでもこれだけの状況証拠では勝てない。しかし、赤染衛門が立派な女流歌人に成長したことからすれば、兼盛の血筋だった可能性は高い。

赤染衛門は「光る君へ」に描かれたとおり、藤原道長の妻倫子(黒木華)に仕えた。その後、中宮彰子に仕えた。ドラマでは紫式部も倫子のサロンで会っている。この後、彰子のサロンで再会することになるのだろうか。

先の歌には「中関白少将に侍りける時、はらからなる人にもの言ひわたり侍りけり、頼めてもうで来ざりけるつとめて、女にかはりてよめる」と詞書がある。中関白少将は藤原道隆(井浦新)。つまり、儀同三司の母=高階貴子(板谷由夏)の夫。赤染衛門の姉妹と恋仲になったので、赤染衛門が歌を代作した。

ドラマでは儀同三司=伊周(三浦翔平)が勅命に違背して大宰府から舞い戻ったものの、母はすでにみまかったあとだった・・・。母が

 「今日をかぎりの命ともがな」

と最後に言ったかどうかは分からない。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。