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2024年6月5日水曜日

小式部内侍って誰?

 

 大江山いく野の道の遠ければ
       まだふみも見ず天の橋立  小式部内侍

 母の住む丹後国は、大江山を越え、生野を通って行く道のりが遠いので、まだかの有名な天の橋立を踏んでみたこともありませんし、母からの手紙も届いておりません。

百人一首60番の歌。小式部内侍は和泉式部と橘道貞(和泉守)の間の娘。母同様、彰子に仕えた。

 この歌は詞書といっしょに読まないとこうは訳せない。詞書はつぎのとおり。

 和泉式部、安昌に具して丹後国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかがさせ給ふ、丹後へ人はつかはしけむや、使はもうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などたはぶれてたちけるをひきとどめてよめる


 中納言定頼は、百人一首64番に歌を採られている歌人。あの公任の子である。

 定頼は小式部内侍に気があったのか、すこし失礼な戯れごとを言ってしまった。和泉式部は当時、①橘道貞(小式部内侍の父)、②為尊親王、③敦道親王につづく、第4の男④藤原保昌と再婚し、夫の任地である丹後についていっていた。

そうした折り、歌合が開かれることになり、小式部内侍にもお声がかかった。母の名声があまりに高かったので、定頼は「お母様に頼んだ代作の手紙は届きましたか」と冗談を言ったのだ。それに対する反撃が上記の歌。みごと。


(唐津くんち11番曳山 酒呑童子と源頼光の兜)

 大江山に酒呑童子という鬼が出没し、源頼光(マサカリかついだ金太郎はその家来)が退治した。はねられた酒呑童子の首は宙を飛んで頼光の兜にかぶりついたという。

頼光のほうが年長だが没年はあまり変わらないので、小式部の内侍と頼光は同時代人といってよい。このころ、大江山には酒気を帯びた盗賊団が多数出没したのだろう。丹後までの道は地理的のみならず治安・労力的にも遠かったはずだ。


 定頼のこうした軽率な性格は父譲り。父・公任は紫式部におなじような戯れごとを言って、聞き流しの返礼をこうむっている(『紫式部日記』五十日の祝い)。

 左衛門の督(公任)、
 「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」とうかがひ給ふ。源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上はまいていかでものし給はむと、聞き居たり。

 若紫は『源氏物語』に登場する源氏の最愛の女性・紫の上の幼いころの呼び名。公任としては「さいきん評判の源氏物語の作者さんはいらっしゃいますか?若紫の名で呼んじゃおうかな?」みたいなつもりだったろうが、紫式部のまじめな性格をまえにして玉砕。おのれのみ砕けてものを思ふころとなった。まるで「虎に翼」における伊藤沙莉と沢村一樹の間のやりとりのよう。

 清少納言と行成のやりとりが『枕草子』に複数記載されていることは前に紹介したとおり。女官たちは男性官僚たちのちょっかいに悩んだり、かけあいを楽しんだりしたことだろう。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月21日火曜日

行成って誰?


 藤原行成って誰?
 
 きのう書いたように、ドラマでは渡辺大知が演じ、清少納言が「夜をこめて」の和歌を送った(そのことを『枕草子』に書いた)相手であり、道長政治を支えた能吏・四納言の一人であり、能書家で三蹟の一人であり、宮廷日記『権記』の執筆者である。

書は国宝になっている。

https://www.tnm.jp/modules/rblog/1/2016/08/26/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A1%8C%E6%88%90%E3%81%AE%E6%9B%B8/ 

清少納言とは仲良しだったので、『枕草子』49段にも登場する。

 職の御曹司の西面の立蔀のもとにて、頭の辨(行成)、物をいと久しういひ立ち給へれば、さしいでて、「それはたれぞ」といへば、「辨さぶらふなり」とのたまふ。「なにかさもかたらひ給ふ。大辨みえば、うちすて奉りてんものを」といへば、いみじうわらひて、「たれかかかる事をさへいひ知らせけん。『それ、さなせそ』とかたらふなり」とのたまふ。・・・


 あはれともいふべき人は思ほえで
        身のいたづらになりぬべきかな  謙徳公
 
 「かわいそうに」と言ってくれる人がいるとも思えず、この身は恋のために死んでしまいそうです。

百人一首45番の歌。謙徳公は、藤原伊尹(これただ、これまさ)。兼家(段田安則)の兄。行成の祖父である。摂政・太政大臣にまでのぼりつめたが早逝した。 


 君がため惜しからざりし命さへ
         長くもがなと思ひけるかな  藤原義孝

 あなたに逢うためなら捨てても惜しくもないと思っていた我が命だったけれども、あなたに逢えた今朝は、その命までも長くあって、逢い続けたいと思うようになりました。

百人一首50番の歌。藤原義孝は、謙徳公(藤原伊尹)の子で、行成の父。美貌の貴公子だったが、長くもがなと願った命は21歳と短かった。

まとめると、行成の祖父は摂政・太政大臣であり、祖父も父も百人一首に採られるほど歌がうまい家系だったわけである。人もうらやむ華麗なる一族である。

さてNHK大河「光る君へ」の人物紹介によれば、行成は、道長よりも6歳下。道長政権下で蔵人頭に抜擢されると、細やかな気遣いで実務に能力を発揮、欠かせない存在として支え続ける。・・とある。

婉曲に紹介されているが、ズバリいえば「道長に追従する公卿」。そのように、実資(ロバート秋山)から揶揄されている。行成がそのような生き方を選ばざるをえなかったのは、祖父と父が早逝してしまい、後ろ盾をもたなかったから。後ろ盾を持たない悲哀は、源氏物語に描かれているとおり。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月20日月曜日

清・少納言って誰?(4)

 


 夜をこめて鳥のそらねははかるとも
         よに逢坂の関はゆるさじ  清少納言

 夜が明けていないのに、かの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をしてだましても、逢坂の関の関守はだまされませんし、私もだまされて、すぐ戸を開けてあなたと逢ったりはしませんよ。

 逢坂の関で足止めをくらっているうちに、義同三司母の息子たちは没落へ向かっていた(長徳の変 996年)。中宮定子(高畑允希)も巻き添えを食い、サロンの一員である清少納言(ファーストサマーウイカ)も無縁ではいられなかった。義同三司の往生際の悪さを庭から覗き見することはなかったろうが。

先の歌は百人一首の62番。この歌が詠まれた経緯は、清少納言のエッセイ『枕草子』に詳しい。『枕草子』はいうまでもないだろうが、

 春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。・・

という、あれである。

     

 この歌が詠まれた相手の男性は藤原行成(渡辺大知)。道長の全盛期を支えた四納言の一人。他の三納言は、源俊賢(本田大輔)、公任(町田啓太)、斉信(金田哲)。行成は、能書家・三蹟の一人であり、また宮廷日記『権記』を書き残している。


清少納言は後宮という役所の秘書官みたいなものであるから、能吏であった行成や斉信とも親しかった。かれらとの交流は『枕草子』のところどころに書かれている。百人一首の歌が詠まれた下りは136段。

ある夜、清少納言が行成と談笑していたところ、行成は宮中で用事があると言って急遽帰ってしまった。

翌朝、行成は「昨夜は夜明けを告げる鳥の声にせきたてられたので。早く帰って申しわけありません。」などと見え透いた弁解を入れてきた。それに対する清少納言の返しの皮肉がこの歌。 

かの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をしてだましたという故事は、漢籍『史記』に基づく。「孟嘗君列伝 第十五」。

孟嘗君は、秦の昭蕘王のもとから命がけで逃げていた。夜中に函谷関にたどりついた。函谷関の関守は一番鳥が鳴かないと関を開けない。孟嘗君が困っていたところ、従者の一人が鳥の鳴き真似が上手だという。じっさいにやらせてみたら上手で、本物の鳥たちも呼応して鳴き出し、関守も門を開けてくれ、孟嘗君は窮地を脱することができた。

行成さま、あなたがかの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をして私をだまそうとしても、逢坂の関の関守はだまされませんし、私だってだまされて、すぐ戸を開けてあなたと逢ったりはしませんよ。

清少納言の和歌はこの故事を踏まえたもの。行成の弁解をとっさに孟嘗君の鳥の鳴き真似にたとえた。函谷関の関守はだませても、逢坂の関の関守も私もだまされなくてよ。うふふ。

さて気になるのは、清少納言と行成との男女の仲。残念ながら?皆の期待を裏切り、できる女性上司と後輩男子とのやりとりにとどまったようだ(清少納言が6歳年長)。

清少納言は男女の仲より、こういう互いの教養をたしかめあうやり取りのほうが好きだったのだろう。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月16日木曜日

清・少納言って誰?(2)

 

 夜をこめて鳥のそらねははかるとも
         よに逢坂の関はゆるさじ

 夜があけていないのに、かの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をしてだましても、逢坂の関の関守はだまされませんし、私もだまされて、すぐ戸を開けてあなたと逢ったりはしませんよ。

百人一首62番。さすが清・少納言の歌という感じ。漢文の素養がないと読み解けない。

清少納言とは、父は誰か、漢詩文の素養の由来、中宮定子のサロンとは、この歌が詠まれたいきさつ、『枕草子』とは、逢坂の関とは、かの孟嘗君とは、中宮定子と清少納言の運命、「光る君へ」・紫式部との関係等々、どこから書いてよいか迷う。が、まずは逢坂の関から



 2017年1月に訪ねた。雪が降りしきっていた。山城(京都府)と近江(滋賀県)の国境にある。

逢坂は、『日本書紀』によれば、九州ともご縁が深い神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来するという。

交通の要衝であり、現代では東海道線や国道一号線が走る。古代には、逢坂の関が置かれた。京都を守る三関(鈴鹿関、不破関、逢坂関)の一つ。

紫式部は、近江の石山寺に参籠して、源氏物語の着想を得たというのだから、行き帰りには当然この関を通過したはずである。




逢坂の関といえば、清・少納言のまえに、蝉丸の歌だ。


 これやこの行くも帰るも別れては
       知るも知らぬも逢坂の関

 これだよ、これ、これがあの、旅立つ人も、旅から帰る人も、知っている人も、知らない人も、別れてはまた逢う、逢坂の関だよ。

百人一首十番。リズミカルでなめらかな調べ。百人一首を習う際にはまっさきに覚えさせられた。謡曲『蝉丸』によれば、蝉丸は延喜帝の第4王子、盲目のため逢坂山に捨てられてしまう。

これがその逢坂の関である。蝉丸神社で参拝。蝉丸大神、猿田彦命、豊玉姫命を祀る。蝉丸大神は音曲をはじめとする諸芸道の祖神。

この日は雪が降りしきるあいにくの天気だったので、旅立つ人にも旅から帰る人にも出会わなかった。逢坂なのに残念。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月15日水曜日

清・少納言って誰?(1)

 


 
 きのう歴史探偵で「清少納言と枕草子」をとりあげていたので、きょうから清少納言。 

 https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/6XVLZRRX8Q/

「光る君へ」を視聴していて、発音がちがうなぁと思ったのはぼくだけではあるまい。気になるのは「清・少納言」である。

いままでは「せいしょうなごん」とダラッと読んでいた。それがドラマでは「せい・しょうなごん」と発音している。そうなのか?

「清・少納言」とは、清原氏の少納言という意味だ。それならば、たしかに「せい・しょうなごん」なのだろう。

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ
          末の松山波こさじとは

 約束しましたよね。お互いに涙のたまった袖をしぼりながら、あの末の松山を波が越えることがないように、私たちの愛も決して将来変わることがないのを(それなのに、あなたは変わってしまった)。

 百人一首42番、清原元輔の作。元輔は清少納言の父である。劇中、大森博史が演じていた。紫式部の父・藤原為時とは学者仲間という感じ。

この歌は本歌取りでつくられている。本歌はこれ。

 君をおきてあだし心をわが持たば
         末の松山波も越えなむ  東歌 古今集

 もしあなたをさしおいて浮気心を私が持ったならば、あの末の松山を波が越えてしまうだろう 

末の松山は宮城県多賀城市にある。仙台駅から多賀城駅まで電車で20分ほど、駅から歩いて10分ほどである。

https://www.google.com/maps/place/%E6%9C%AB%E3%81%AE%E6%9D%BE%E5%B1%B1/@38.2725102,140.9933707,14z/data=!4m6!3m5!1s0x5f898f570db3b603:0x9539d52b40a2cb2d!8m2!3d38.2877561!4d141.0034366!16s%2Fg%2F11flbt99pb?entry=ttu

多賀城市には奈良時代から東北経営の中心であった多賀城がある。九州の大宰府と類似の機能を担っていた。ために両市は姉妹都市の関係にある。

末の松山は、名にし負う、立派な松がはえている。すこし丘になっている。ちかくには、やはり百人一首92番二条院讃岐の歌の歌枕である沖の石もある。

https://www.google.com/maps/place/%E6%B2%96%E3%81%AE%E7%9F%B3/@38.2844608,140.9911493,14z/data=!4m6!3m5!1s0x5f898f5720ef153f:0xd6138bf3ddf63a85!8m2!3d38.2868342!4d141.0033366!16s%2Fg%2F11bvvxb111?entry=ttu


 古今集が編纂されたのは905年。その30数年まえである貞観11年(869年)には大地震と大津波がこの地方を襲ったものの、末の松山は被害を免れたという。それから、大津波でも波が越さない地として有名になったらしい。

末の松山は東日本大震災の大津波のときにも波が越さなかったらしい。それほどの地をひきあいにだして愛を誓うことこそ末おそろしい。劇的効果としては元輔の和歌のほうがすぐれているかもしれないが、東歌程度にしておくのが本当なのではなかろうか。

https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20210308-OYT8T50014/ 

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2021年12月6日月曜日

壺阪寺参拝記

 


 むかしユングを読んだ。シンクロニシティという言葉を提唱している。共時性と訳す。意味ある偶然の一致のこと。因果関係によることなく、複数の出来事が意味をもって同時に起こることをいう。

むずかしい話をした。言いたかったことは俗だ。山女日記に田中健がでてきて、いまだにしぶいということを書いた。

他方でこのところ、BS・NHK3チャンで『マー姉ちゃん』をやっている。1979年の連続テレビ小説の再放送である。40年以上前の作品。当時、大学2年だった。

マー姉ちゃんは、長谷川町子の姉のこと。長谷川町子は漫画「サザエさん」の作者である。冒頭は福岡での場面、最近は東京での場面になっている。

右脳にすぐれた姉妹である。長谷川町子は漫画家であるが、姉もあの菊池寛の小説の挿絵を頼まれ、売り出し中。

いろんな新聞、雑誌から仕事の注文が舞い込むようになった。その注文者の一人がなんと若き日の田中健である。男前は男前だが、いまのほうがよい。田中健に40年の月日が流れた。などと思うと、自分にも同じ時間が流れたことを実感する。

枕が長すぎた。本ブログとしては、京都・奈良ミッションのつづきである。河井寛次郎の翌日は奈良に行った。

まず訪れたのは壺坂寺である。近鉄で橿原神宮へ行き、そこから普通電車に乗り換えて3つ目の駅・壺坂山で降りる。そこからはバスで坂道をクネクネと登る。

清少納言の『枕草子』で、「寺は壺坂。笠置。法輪。」と筆頭に挙げられている。いまでいえば、才女おすすめの寺ランキングNo.1の寺である。

また『壺坂寺霊験記』で有名。浄瑠璃の演目で歌舞伎にもなっている。盲目の沢市が妻の不義を疑うが、妻のお里は夫の目が治るよう観音参りをしていた。お里の幸せを願って沢市は滝壺に身を投げ、お里もあとを追う。観音さまの霊験により、二人は助かり、沢市の目もなおるというストーリー。

子どものころ「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ~」という名調子をよく聞いた。がさいきんはとんと聞かない。

壺坂寺はインドとの交流が深く、異国の雰囲気がする。本尊は十一面千手千眼観音。大陸的な考えなのか、撮影自由である。ありがたく撮影させていただく。カメラをむけると、ちょっと困ったようなお顔をされる。

寺内にはインドから運ばれてきた石像がたくさんある。ウルトラの母と見まごう巨大な観音像もたっている。ありがたや。

2021年6月14日月曜日

末の松山


沖の石からすこし歩くと、末の松山に着きます。末の松山も有名な歌枕。どんな大波でもここを越えることはないとされます。それを踏まえて

 君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ 東歌

わたしが浮気をするようなことになれば、末の松山を波も越えることでしょう(そういうことはないですよ)。

これを本歌にして、ひねったのが清原元輔の有名な歌  

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 

詞書に「心変はりて侍りける女に」とあります。清原元輔の歌は百人一首でみなさんもご存じのことと思います。元輔は清少納言の父で、『後撰和歌集』の撰者、当時を代表する歌人・歌学者。

この歌をさらにひねったのが芭蕉のおくのほそ道。

 末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松間々皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの末も、つひにはかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竈の浦に入相の鐘を聞く。

「翼を交はし枝を連ぬる契り」は、白居易の「長恨歌」から。白居易は、清少納言の『枕草子』に香炉峰の雪ならんと中宮定子が尋ねた際のもととなった漢詩の作者。

「長恨歌」は玄宗皇帝と楊貴妃の愛を歌ったもの。その契りの言葉。

 天に在りては願わくは比翼の鳥となり
 地に在りては願わくは連理の枝と為らんと

「地上の星」の歌詞みたいですが、比翼の鳥は、夫婦が一枚ずつの翼で並んで飛ぶ鳥。連理の枝は、二本の木でありながら枝が繫がっているものです。

若いころ絶対あだし心をもたないよと契った恋人たち、翼を交わし枝を連ねる契りを結んだ夫婦。不易の愛を誓った彼らも、ついには墓に入ってしまうのだなぁ、悲しいなぁ・・ごーん。

ところで「まつ山のなみ」は古今集の仮名序にも出てくる有名事件。869年の貞観津波を踏まえているとされます。その津波の際に末の松山を波が越えなかったことから歌枕になっているとか。

東北大震災の津波も、末の松山を越えることはなかったといいます。こうした津波をめぐる伝承を不易のものとして語り継ごうという動きもでているようです。

2011年10月27日木曜日

 リンドウ



 リンドウ(竜胆)
 多年生の植物。
  
 むかしの人はなんの根でも一度は食べてみたようで
 リンドウの根は非常に苦いらしい。

 その苦さが唾液と胃液の分泌や腸の蠕動を高め食欲を盛んにするので
 漢方では根を(りゅうたん)といい、健胃剤として用いられます。

 その薬効から、日光(二荒)では霊草とされています。
 それにはつぎのような縁起が。

  昔、役小角が日光の奥山道を歩いているとウサギが現れ
  リンドウの根を雪の中から掘り出した。

  ウサギは、主人が病気なのでリンドウを探していたといって
  走り去った。

  役小角が試しに病人に飲ませると優れた効き目があり
  「二荒神のお告げに違いない」と神意を感得した。

 熊の胆(い)も苦いことが知られていますが
 それよりずっと苦いことから竜の胆ださそうです。
 
 われわれも子どものころ、程度が甚だしいことを
 「鬼のように」などと修飾表現していました。

 そこは古代中国ですから、「竜のように」
 と修飾表現していたのでしょう。

 日本(『和名抄』10世紀ころ)では、衣夜美久佐(えやみくさ)や
 爾加奈(にかな)とされていました。

 やはり苦さから、それぞれ笑止草(えやみぐさ)
 苦菜(にがな)から来ているらしい。ほんとうでしょうか?

 そのリンとした姿に由来するものでしょうか
 「誠実」「正義」「貞節」という花言葉を贈られています。
 
 赤、黄、白色の花も楽しく明るい気持ちになりますが
 きれいな紫~青色の花も魅力的。

 その色に由来するものでしょうか、「あなたの悲しみに寄りそう」
 だとか「悲しんでいるときのあなたが好き」など物語的な花言葉も。

 山でも、他の花が枯れてしまったなか
 リンと咲くリンドウを見かけます。

  草の花は、なでしこ。唐のは更なり、大和のもいとをかし。
  女郎花。桔梗。朝顔。刈萱。菊。壷すみれ。

  竜胆は、枝ざしなどむづかしげなれど、他花のみな霜枯れたる中より
  いと花やかなる色合ひにて、さし出でたる、いとをかし。…

                        清少納言・『枕草子』
 

2011年3月18日金曜日

 春はあけぼの



    契りきな かたみに袖を しぼりつつ

               末の松山 波こさじとは


                          清原元輔

 末の松山は宮城県多賀市
 この歌はいまでは違う意味によめてしまいます。
  
 清原元輔の娘は清少納言
 清少納言の初婚の夫は陸奥守(陸奥国の長官)の橘則光

 陸奥国は、畿内から見て山道と海道の奥に位置し
 道の奥で「みちのく」とも呼ばれ、中国風に略して奥州。
 
 概ね本州の北東部にあたる今日の福島県、宮城県、岩手県、青森県など
 今回の地震・津波・原発の被災地とかさなります。

   春は、あけぼの

   やうやう白くなりゆく山ぎは

   少し明りて…

                      枕草子・清少納言

 被災者のかたがたはいまだ眠られぬ夜を数えておられるでしょう
 すこしずつでも情況がよくなっていくことをお祈り申しあげます。