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2024年6月10日月曜日

光源氏って誰?

 

  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに
         乱れそめにしわれならなくに  河原左大臣

 陸奥産のしのぶ摺りの乱れ模様のように、私の心はひどく乱れている。いったい誰のせいで乱れはじめたというのでしょう、私のせいではないのに。すべてあなたのせいなのに。

 百人一首14番の歌。河原左大臣は、源融(みなもとのとおる)。『源氏物語』主人公である光源氏のモデル候補一番である。嵯峨天皇の皇子でありながら臣籍に降下、源姓を名乗る。藤原基経が天皇の外戚として摂政に任じられると自宅にひきこもるなど、光源氏の境遇と似ている。

その他、先に紹介した実方や伊周(これちか)もモデルとして考えられている。実方は一条天皇により奥州に左遷され、伊周も大宰府に流されている。須磨・明石の段のストーリーに影響を与えているのだろうか。


 融は陸奥出羽按察使を任官したため、陸奥にまつわるエピソードが多い。この歌もそのひとつである。

 福島市の東には信夫(しのぶ)の里がいまもある。そこには文字摺石もある。「おくのほそ道」で芭蕉も訪れた。

 明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遙か山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。里のわらべの来たりて教へける、「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面、下ざまに伏したり」といふ。さもあるべきことにや。
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

 なぜ、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべってのか?それは虎女伝説のため。

 昔々、都から河原左大臣源融という貴人がこの地にやってきて、虎女という美少女と愛し合うようになった。やがて、都に帰った融を忘れかねて、虎女がもじ摺り石の面に麦をすりつけると、融の面影が浮かび出たという。 


 (渉成園) 

 融は六条河原院(現在の渉成園)に塩竈の風景を模した庭園を造らせた。そして藻塩を焼く煙を立ち上らせ、池にはわざわざ難波・尼崎から海水を運び込ませていたという。当代きっての風流人で、在原業平とも深い親交があった。


(陸奥塩竈神社)


(塩竈)

 『伊勢物語』塩竈(81段)

 むかし、左のおほいまうちぎみいまそがりけり。
 加茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。
 十月のつもごりがた、菊の花うつろひあかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王たちにおはしまさせて、夜ひと夜、酒飲みし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。
 そこにありけるかたゐおきな、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。
 塩竈にいつか来にけむ朝なぎ釣する船はここによらなむ
となむよみけるは。陸奥の国にいきたりけるとに、あやしくおもしろき所々大かりけり。・・・。

これを元に、世阿弥は謡曲『融』を書いた。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2021年5月20日木曜日

吾妻山・登山記

 


信夫の里から、芭蕉一行は北へむかい、月の輪の渡しで阿武隈川を越えて、瀬の上方面へ向かわれました。われわれは、一度福島駅へ戻り、そこから福島・山形県境に連なる吾妻山に登りましょう。

おくのほそ道の旅なのに、途中で山登りが多いなぁとお思いのみなさん、話は逆です。実際は、日本百名山を踏破するついでに、おくのほそ道の足跡を尋ねたのですから。

吾妻山は福島駅から西方にのぞむことのできる百名山、山形まで複数の山が連なる連峰。西吾妻山が最高峰で、2035メートル。火山、峰、沼、湿地といろいろな顔が楽しめるのが魅力です。

10年以上まえに1度だけ登っています。その後、夏に1度、冬に1度計画しましたが、前者は火山情報のため、後者は悪天のため中止になりました。

駅から車を利用して1時間で登山口の浄土平に着きます。名前からして火山ぽい。そこから一切経山に登り、魔女の瞳と呼ばれるコバルトブルーの五色沼を望んで、縦走となります。

家形山のあたりは笹がはえ藪漕ぎ、烏帽子山、昭元山、東大嶺といくと湿原となります。全行程のコースタイムは10時間40分なので、山と渓谷社のガイドブックはその先にある弥衛平小屋で一泊することを奨めています。

でも当時は元気だったのでしょうね、西吾妻山まで全行程を1日で踏破しました。最高峰は西吾妻山なのですが、樹林となっていて展望はききません。登った回数が少ないのはそのせいですかね。ただ最近は冬期のスノーモンスターの美しさが人気で、わたくしも一度見てみたいと思っています。

西吾妻山頂から少し戻って、下りはリフト、ロープウェイを利用して天元台、白布温泉に着きます。そこから車で30分で米沢です。米沢はNHK大河ドラマ『天地人』で、妻夫木くんが北村一輝とともに転封を余儀なくされたところです。経営者には、上杉鷹山も人気があります。

米沢からは新幹線で北上すれば、まもなく山形です。山形から東へ向かえば蔵王、仙山線で仙台方面に向かえばほどなく山寺(立石寺)に着きます。蝉の声が岩にしみ入る、あの寺です。でもあまり先回りすると師匠に叱られますから、福島に戻りましょう。

福島まで新幹線で30分ほどです。左手は蔵王連峰、右手は吾妻連邦という樹林の谷を通って、山形県から福島県に戻ることになります。

2021年5月19日水曜日

信夫の里・しのぶもぢ摺りの石(6)

 

さいきん同行トミーの姿が見えぬなぁと心配して、信夫の里で長居をしておりましたら、昨夜の弁護士会議でそろそろ書きますと反省の弁を述べておりました。もうまもなく追いつくことでしょう。乞うご期待!

さて、なんでしったっけ?そうそう、源氏が若紫を垣間見て、惚れてしまうやろ~と言ったところでしたね。「ちら見」で惚れてしまうのは、日本人の美意識とも関係しているかもしれません。「秘すれば花なり」といいますから(世阿弥「風姿花伝」)。

断っておきますが、のぞきは現代では犯罪となりえます。正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者は、拘留又は科料に処せられます(軽犯罪法1条23号)。

ですが、美少女の若紫は源氏に垣間見られてマイ・フェア・レディになりました。のぞくは恥だが役に立つというわけです。

脱線がながくなったので、そろそろ出発しましょう。最後に、むかし男に関するクイズを2つ。1つ、むかし男は信夫の里に行ったことがあるのか。2つ、むかし男は太宰府に来たことがあるのか。

まず、むかし男が信夫の里に行ったことがあるのか。『伊勢物語』に、信夫の里に行ったとの記述はないのですが、すぐ西にある「しのぶ山」に行ったことがあるとの記述はあります(15段)。なので、おそらく行ったことがあると思われます。いわく。

むかし、陸奥にて、なでふことなき人の妻に通ひけるに、あやしう、さやうにてあるべき女ともあらず見えければ、
 しのぶ山忍びて通ふ道もがな 人の心の奥も見るべく
かぎりなくめでたしと思へど、さるさがなきえびす心を見ては、いかがはせむ

つぎに、むかし男は太宰府に来たことがあるのか。この点は筑紫に行ったと『伊勢物語』に明記されています(61段)。「東へ西へ」、色男・好き者は忙しい。いわく。

むかし、男、筑紫まで行きたりけるに、「これは、色好むといふ好き者」と、簾のうちなる人の言ひけるを聞きて、
 染河を渡らむ人のいかでかは 色になるてふことのなからむ
女、返し、
 名にし負はばあだにぞあるべきたはれ島 浪の濡れ衣着るといふなり

天満宮参道甘木屋角を南に下ると光明禅寺があります。寺に入らず、国博通りをそのまま西に50mほど行くと、左手に藍染川が流れていて、これが『伊勢物語』にいう染河だそうです。

藍染川の端には、玉垣に囲まれて梅壺侍従蘇生の碑があります。ここは謡曲「藍染川」の舞台で、その筋はこうです。

京都の女性・梅壺は天満宮の神官・中務頼澄を慕って筑紫に下ってきました。しかし彼女は彼に会えず、悲しみから藍染川に身を投げました。頼澄はそれを知り天神様に祈ったところ、彼女は生き返りました・・とさ。もとい、げな。

2021年5月18日火曜日

信夫の里・しのぶもぢ摺りの石(5)

 


河原左大臣と虎女の話を読んで、どこかで聞いたことがあると思いませんでしたか。浅香山のところで紹介した葛城王と采女の話に似ていますね。変奏されたのかもしれません。

河原左大臣の歌はさらに変奏されています。『伊勢物語』の初段です。芭蕉の頭のなかの歌枕の理想郷には、当然この話も燦然と輝いていたと思います。いわく。

 むかし、男、初冠して、奈良の京、春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みにけり。この男、かいま見てけり。思ほえず、古里に、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、信夫摺の狩衣をなむ、着たりける。
 春日野の若紫の摺衣 しのぶの乱れかぎり知られず
となむ、おいづきて言ひやりける。

『伊勢物語』の主人公である「むかし男」のモデルは、いろいろなエピソードが共通であることから在原業平とされています。かれが成人して狩りに行き、初恋をしてしまったときに来ていた着物が信夫摺だったというのです。

とはいえ、在原業平の生まれが822年、源融のそれが825年ですから、むかし男のほうが3歳年長です。これだけだと、どちらの話が先行しているか分かりません。しかし、『伊勢物語』のつづきにこうあります。

・・ついでおもしろきことともや思ひけむ、
 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに
といふ歌の心ばへなり。

河原左大臣の歌の趣向を踏まえての行動だというのです。『伊勢物語』の初段が河原左大臣の歌の変奏であることは明らかです。

さらにこの初段、どこかで読んだことありませんか。あさきゆめに見たような・・。そう『源氏物語』ですね。

まず『帚木』の段冒。

・・大殿には絶え絶えまかで給ふ。忍ぶの乱れやと、疑ひ聞ゆることもありし・・

大殿は源氏の義父である左大臣家。源氏は娘のもとには新婚早々ときどきしかやってこない、これはどこかで忍ぶの乱れの恋におぼれているのではないか、と疑われててしまう。左大臣の頭のなかでは、『伊勢物語』の初段、さらには源融の歌が思い浮かべられています。

つぎに『若紫』。当時の感染症に罹患した源氏は治療のため北山を訪れます。その地で、かれは大好きな藤壺そっくりな美少女を垣間見てしまいます。

夜目・遠目・傘の内、いまならマスクの内。男性は「ちら見」に弱い生き物です。そのようにプログラミングされているのですねぇ。

垣間見は、垣根の間から屋敷のなかを見る行為。これも「ちら見」の一種。むかし男・在原業平も、源氏もこれで恋に落ちたんですねぇ。

これにとどまらず、『源氏物語』による『伊勢物語』の変奏は随所に見ることができます。紫式部も幼いころから『伊勢物語』を愛読したんでしょうね。みなさんが『あさきゆめみし』を愛読されたように。

2021年5月17日月曜日

信夫の里・しのぶもぢ摺りの石(4)

 


さて前提となる知識の解説がようやく終わったので、おくのほそ道の本文に戻ります。

「信夫の里に行く。遙か山陰の小里に、石半ば埋もれてあり。」

あこがれの石はなんとも無残な状態にありました。歌枕のシンボルである、しのぶもぢ摺りの石はなぜ、なかば地中に埋もれていたのでしょうか。その答えは里の子どもが教えてくれました。

「里のわらべの来たりて教へける、『昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面、下ざまに伏したり』という。」

虎女伝説を知った男女が遠くの愛する人に会いたいあまり、麦をちぎって畑を荒らして、石に麦を擦りつけるもんだから、畑の主が怒って石を谷に突き落としたというのです。その結果、芭蕉が訪れたときには、石は面を下にして半分埋もれてしまっていました。

それまで芭蕉の頭のなかでは、河原左大臣の歌、虎女伝説が理想的に輝いていました。ところが、現実ではこのざま。この理想と現実の落差に、芭蕉のガッカリは相当のものでした。ここは歌枕における3大ガッカリの1つと言っていいでしょう。

後の「壺の碑」の段で、このような事態をつぎのように述べています。

「昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代われば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみ」

歌枕について芭蕉が抱いていた理想が「流行」のなかで、つぎつぎと打ち砕かれていったわけです。ああ~時の流れのなかで~。そうした「流行」の厳しさにぶちあたればあたるほど、芭蕉はなんとかして芸術における、人生における「不易」を救い出さなければならないと考えたと思います。

芭蕉は現地でそうとうガッカリしたにもかかわらず、本文では「さもあるべきことにや。」とおだやかな感想になっています。なぜしょう。

おくのほそ道の本文はなんども推敲されています。現地では「遠路はるばるここまで来たのに、木戸銭返せ~」と怒り心頭にたっしました。が、不易流行の考えが深まるにつれ、怒りもおさまり、ま、流行とはそういうことじゃろねという感想になったわけです。

われわれも現地でこの石を見て、感動の嵐というわけにはまいりません。わたくしの写真の腕が悪いわけではなく、しのぶもぢ摺り石だけを見て感動するのは至難のわざといわざるをえないのです。

じゃ、どうすればよいのか。それはこのブログをよく読んで、「そうかそうか、さすが芭蕉!」と理解したうえで、現地を訪れてくだされ(宣言明けに)。

2021年5月16日日曜日

信夫の里・しのぶもぢ摺りの石(3)

(窓開けて田園を聞かねば)

みちのくのしのぶもぢずりの模様のように忍び心が乱れはじめたのは誰のせい?(私のせいではないよね)

河原左大臣がこう詠みかけた相手はだれでしょう?その答えのひとつとして虎女伝説があります。

みちのくに赴任した際、融は虎女さんという美人とふかい仲になりました。それなのに任期を終えた融はひとり都へ帰ってしまいます。

虎女は融が忘れられません。ある時、かの女がもぢ摺り石に麦をこすりつけると、あら不思議、石が鏡のようになって、融の面影が浮かび上がりました。とさ。(あれ?石に擦りつけるのは忍草じゃなかったっけ?ま、いいか)

この話をきいた若い男女は、誰もかれも、畑から麦をとってきてこの石に摺りつけ、遠くにいる恋人を偲びました。とさ(九州弁だと「げな」となります。げなげな話)。

福岡にも似たような名所があります。宝満山のキャンプセンターから女道をすこし下がったところです。サイカチの木が生えています(竈門神社境内にも生えています)。

この木に向かい、愛する人との再会を願うと、あら不思議、願いはかなえられるのだそうです。なぜなら、サイカチの木→再会の木だから。・・・けっして、駄洒落ではありません。はい。

いまならラインで、京都だろうとイタリアだろうと、動画つきで会話ができます。いわばスマホの「しのぶもぢ摺り石」機能、あるいは「サイカチの木」機能です。

ですが、虎女さんといまの若い男女のどちらが幸せなのでしょう。その判定がむずかしいところが人間の愛、人間の幸せの一筋縄でいかないところでしょうか。

2021年5月14日金曜日

信夫の里・しのぶもぢ摺りの石(2)

 

たとえ川柳じゃないと突っ込まれたっていいじゃない。柳に川、じゃくて柳に風としなやかにうけながしましょう。不易流行というぐらいだから、流れ流れて行きましょう。阿武隈川の流れに沿って。

えっと・・、河原の左大臣の

 みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに

の歌の話でしたね。

「もぢずり」とは信夫の里で作られていた、乱れ模様の摺り衣。摺り衣は忍草(しのぶぐさ)の汁をつかい、模様のある石の上に布を擦りつけて染める方法だそうです。

上の写真が忍草(シノブソウ)です。小倉百人一首にはもういちど出てきます。100番〆の順徳院の歌。

 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり

こちらの歌のほうが忍草のイメージにあいます。百人一首は、秋の田のの天智天皇、春過ぎての持統天皇の歌で幕があき、人もをしの後鳥羽院、ももしきやの順徳院で幕が閉じられます。

承久の変で武家に敗れ、後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ流されます。御所や院の建物には忍草がさぞやたくさん生えたことでしょう。おくのほそ道の主題としても、こちらのほうがあっているようです。

下の写真はネジバナ。別名モジズリ。ネジバナがモジズリと呼ばれる由来は分かりません。またもぢずりの乱れ模様がどのようなものだったのかも分かりません。が、このような柄だったのかもしれませんね。

2021年5月13日木曜日

信夫の里・しのぶもじ摺りの石(1)



・・福島に宿る。明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遙か山陰の小里に・・。

福島駅から東に車で20分ほど行くと、遙か山陰に信夫(しのぶ)の里があります。そこにしのぶもぢ摺り石があります。ここも有名な歌枕です。

小倉百人一首に、河原の左大臣の歌が採られています。

 陸奥のしのぶもぢ摺り誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに

河原左大臣は、源融。光源氏のモデルといわれています。紫式部をかわいがった藤原道長がモデルの筆頭ですが、嵯峨天皇の子でありながら臣籍降下し源氏となったこと、彼が建てた河原院が光源氏の邸宅・六条院のモデルと思われることなどが根拠です。

河原院(東六条院)はいまの渉成園(枳穀邸)。東本願寺と鴨川の間にあります。名前からして、昔は鴨川までおよぶ広大な敷地だったのでしょう。

融はここに陸奥の塩竃をモデルとして庭をつくり、わざわざ難波の浦から潮水を運ばせて塩を焼かせたといいます。庭造りの好きなおじさんはいまもいっぱいいますが、その先駆者ですね。河原院は河原左大臣という呼称の由来でもあります。

陸奥の塩竃はあとで芭蕉一行も訪れます。われわれものちほど訪れましょう。

いまの渉成園(枳穀邸)には塩竃がなかったように思いますが、京都の南西にある、在原業平ゆかりの十輪寺で、塩竃を見たことがあります(写真)。

融は河原院がだいすきだったようで、死後も亡霊となって、後の所有者である宇多院のまえにあらわれたという話が宇治拾遺物語にあります。

宇多院「あれは誰そ」
融「ここの主に候ふ翁なり」
院「融の大臣か」
融「しかに候ふ」
院「さはなんぞ」
融「家なれば住み候ふに、おはしますがかたじけなく、所狭く候なり。いかが仕るべからん」
院「それはいといと異様の事なり。故大臣の子孫の、我に取らせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りてゐたらばこそあらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」
と高やかに仰せられければ、かい消つやうに失せぬ。

建物売買の際の告知事項として、その建物内部で人が死亡したかどうかがあります。そのような事情があった場合、心理的瑕疵となり、買主に告知しなければなりません。河原院も融の亡霊が悪さをしていたのであれば、心理的瑕疵の可能性ありだったでしょうね。

また融と河原院を題材にした謡曲『融』もあります。融は本作ではワキ僧を悩ませることもなく、われわれともども美の世界にいざなってくれます。世阿弥作、本来の曲名は『塩釜』。

融は陸奥の塩竃にならって庭造りをするほど、陸奥がだいすきだったようです。ただし、彼の官暦にはたしかに陸奥出羽按察使があるのですが、実際には赴任しなかったのではないでしょうか。

実際に赴任したかどうかはともかく、彼の陸奥に対する愛はひとかたならず、河原院をつくったほか、前記しのぶもぢ摺りの歌を残したというわけです。ようやく歌の話までたどりつきましたが、執務時間となったのでその解説は次回。