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2023年9月3日日曜日

如意輪観音

 


 土曜は四王寺山のお鉢めぐり。四王寺山にはお鉢を中心に、33の石仏がおまつりされている。

いずれも観音(菩薩)様である。庶民の旅が簡単ではなかった江戸時代。代表で西国三十三所めぐりをした人が、かの地の土をもちかえり(高校球児が甲子園の土を持ち帰るように)、四王寺山におまつりしたという。

これにより、福岡の人々も遠く関西までいかずとも、西国三十三所めぐりができるようになった。なんちゃってであるが、ないよりよい。

三十三という数字は観音様が三十三の姿に変化されて、世を救うため。四王寺の石仏も、十一面観音、千手観音、聖観音、如意輪観音、馬頭観音などの姿に彫られている。

これまで十一面観音や千手観音を頼もしく思っていた。われわれたくさんの諸衆を救うために、頭一面、手2つではとても心細い。やはり十一面、千手・千眼は必要だろうと。

これに対し、如意輪観音はやや頼りない感じがしていた。左手の平を上に向けて、その上で宝珠や法輪を回しておられる。われわれが手の平の上でコマをまわすような感じ。その法輪を自在に回すから、如意輪観音。

如意宝珠はすべての願いをかなえ、法輪はわれわれの煩悩を破壊するという。この日はなぜか、如意輪観音さまが頼りがいのある存在に思えた。心が弱っていたのだろうか。

2023年2月16日木曜日

赤後寺の十一面観音

 
 架山は、その後も、琵琶湖畔の十一面観音を訪ね歩く。大三浦がいることもあれば、他の人と同行することもある。

四体目は赤後寺(日吉神社)の十一面観音(重文)。やはり琵琶湖の北岸で、先の渡岸寺の十一面観音の近くである。

https://kitabiwako.jp/spot/spot_931

手間かもしれないが、アドレスをクリックして、それぞれの仏さんを拝んで頂きたい。そのうえで、井上靖の文章を読んでいただきたい。一口に十一面観音といっても、井上が描き分けたように千差万別である。

できれば自分が撮影した写真を掲載したいところ。だが、自分が訪ねたのはもう20ほども昔であるし、拝観できたとしても撮影はできないところがほとんどであるから、当該寺院や観光協会の写真をお借りするしかない。

さて、本仏について『星と祭』にはこう書かれている。

 架山がそに見たものは、今まで拝んで来た十一面観音とはまるで違ったものであった。厨子の中には二つの像があった。
「右手が十一面千手観音さま、左手が大日如来さまでございます」
 架山は口から、すぐにはいかなる言葉も出すことはできなかった。十一面観音は頭上の仏頭全部を失っており、左手七本、右手五本の肘から先の部分を尽く失っている。無慚な姿と言うほかない。・・

「このようなお姿ですが、お顔はなかなかご立派でございます。先年専門家の人が見えまして、冴えた彫りの美しさを褒めておられました。」・・
 
「賤ヶ岳の合戦の時お堂に火がかかりまして、その時土地の人が肩に背負って救い出し、近くの赤川という川に沈めて、戦火の鎮まるまで匿しておいたということが伝えられております。そういう過去を持ちでございます」

・・現在この十一面観音像がここにあるということは、これを尊信したこの土地の人々の手で、次々に守られ、次々に伝えられて、今日に到ったということであろう。・・

※引用はいずれも能美舎刊から。

2023年2月15日水曜日

福林寺の十一面観音

 
 『星と祭』で、架山が3つ目に訪ねたのは、福林寺の十一面観音である(重文)。渡岸寺と石道寺の翌日のことで、この二寺と違い、琵琶湖の南岸・森山である。大三浦は同道していない。

http://tendai-shiga.com/yaritu-19.html

http://butuzouclub.blogspot.com/2016/11/blog-post_23.html

「ご立派な観音さまですね。」・・

 顔と、体躯の一部は胡粉でも塗ったように白くなっているが、あとは漆地の黒さで覆われている。顔はゆたかできゅっと緊まって、意志的であるが、いささかも威圧感はない。・・

 頭に戴いている十一の仏面はいずれも小さく、そのためか、天冠台から上は本当に冠を戴いているように見える。そして瑶珞をたくさん胸もとに垂らしているところなどは、やはり咲く花の匂うような天平の貴人が一人、そこに立っている感じである。ひたすら気品高い観音像である。
「もとは、ここも大きな寺だったようです。織田氏の焼打ちに遇って、寺は焼けてしまい、この観音さまだけが助かりました。誰かが火の中から救い出したのでしょう、背中に火傷の跡があります」

※引用は能美舎刊から。

2023年2月14日火曜日

石道寺の十一面観音


 『星と祭』で、子を亡くした架山らが次に訪れたのは、石道寺の十一面観音(重文)。平安末期の作。琵琶湖の北岸には十一面観音が集中していて、石道寺も渡岸寺からほど近い。

井上靖が小説を書いた当時、村の人たちが仏をお守りしていて、いつでも簡単に見られるということではなかったようだ。小説中でも、気難しそうな老人が逃げ回ったあげく、しぶしぶ仏を見せるというふうである。

https://kitabiwako.jp/spot/spot_1052

「きれいな観音さまですね」
 架山は言った。思わず口から出た言葉だった。美人だと思った。観音さまと言うより、美人がひとり立っている。

 ・・そこに立っているのは、古代エジプトの威ある美妃でもなければ、頭に戴いているのは王冠でも、宝冠でもなかった。何とも言えず素朴ないい感じの観音さまだった。唇は赤く、半眼を閉じているところは、優しい伏眼としか見えなかった。腰を僅かに捻り、左手は折り曲げて宝瓶を持ち、右手は自然に垂れて、数珠を中指にかけ、軽く人差し指を開いている。

ーこの十一面観音さまは、村の娘さんの姿をお借りになって、ここに現れていらっしゃるのではないか。素朴で、優しくて、惚れ惚れするような魅力をお持ちになっていらっしゃる。・・何でも相談にのって下さる大きくて優しい気持を持っていらっしゃる。恋愛の相談も、兄弟喧嘩の裁きも、嫁と姑の争いの訴えも、村内のもめごとなら何でも引き受けて下さりそうなものを、その顔にも、姿態にも示していらっしゃる。

・・〝石道の観音さん”の制作者が誰であるか知るべくもないが、往古、一人の仏師はこの地方に発見した一人の美女をモデルにして、その素朴さ、美しさ、優しさを神格化して、あの観音像を刻んだのに違いない。

観音さまには遠くおよばないにしても、大きくて優しい気持ちを持ち、何でも相談にのれる弁護士でありたいものだ。

※引用はすべて能美舎版から。

2023年2月13日月曜日

渡岸寺の十一面観音

 
 

 井上靖著『星と祭』は、琵琶湖で娘を亡くした架山が、湖岸の十一面観音を巡礼し、癒やされていく話である。

娘といっしょに亡くなった青年の父親である大三浦に導かれるようにして、それは始まる。

まず訪ねたのは渡岸寺の十一面観音(国宝)である。

https://shigamania2.shiga-saku.net/e307214.html

「渡岸寺の観音さまは平安時代の作でございます。ものの本にそう記してございます。」

・・その内陣の正面に大きな黒塗りの須弥壇が据えられ、その上に三体の仏像が置かれてある。中央正面が十一面観音・・

架山は初め黒檀か何かで作られた観音さまではないかと思った。肌は黒々とした光沢を持っているように見えた。そしてまた、仏像というより古代エジプトの女帝でも取り扱った近代彫刻ででもあるように見えた。・・

「宝冠ですな、これは。ーみごとな宝冠ですな」
思わず、そんな言葉が、架山の口から飛び出した。丈高い十一個の仏面を頭に戴いているところは、まさに宝冠でも戴いているように見える。・・

大王冠を戴いてすっくりと立った長身の風姿もいいし、顔の表情もまたいい。観音像であるから気品のあるのは当然であるが、どこかに颯爽としたものがあって、凛として辺りを払っている感じである。

・・いずれにせよ、観音というものがそういうものである以上、観音信仰というものは成立する筈であった。片方はこの世の苦しみや悩みから必死になって抜け出して生きようとしている人間であり、片方はその衆生の苦しみや悩みを救うことを己れに課し、それによって悟りを開こうとしている菩薩である。そうした信仰によって、この像もまた今日に伝えられて来たものであろう。

※引用は能美舎刊から。昔読んだ角川文庫は書棚をさがすも見つからず。ネットでさがすも廃刊のよう。出版不況のなか、再読することは図書館に行かねばなるまいと思った。

しかしなんと同社から復刊されていた。発行者はずばり『星と祭』復刊プロジェクト、能美舎の住所は滋賀県長浜市木之本町大音1017『丘峰喫茶店』内。

湖岸の十一面観音は、いずれも信長の兵火をのがれ、村人が抱きかかえるようにして守りつたえてきたものである。井上靖の『星と祭』もまた、おなじようにして守りつたえられていることに感慨を覚えた。

2023年2月12日日曜日

四王寺山の十一面観音たち

 





 日曜は天気がよかったので四王寺山に登り、お鉢を一周した。井上靖の『星と祭』を読んでいるので、三十三石仏のなかでも、十一面観音に目がいった。

8番、15番、17番、18番、21番が十一面観音だった。頭部に11の顔をもつ。いままで千手観音との区別があいまいだったが、こんかいはっきりした。

仏をあらわす象徴物を三昧耶形(さんまやぎょう)という。仏が手に持っていたりするもの。西洋絵画だとアトリビュートと呼ばれる。

十一面観音の三昧耶形は水瓶と開蓮華。四王寺山の観音さまたちはいずれも水瓶をもっていらっしゃる。開蓮華のほうははっきりしない。

その深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩である。病気にかからないなど10種類の現世での利益と今生のあと極楽浄土にうまれかわるなど4種類の来世での果報をもたらすとされる。

2023年2月7日火曜日

塚も動け!

 



 きのうはウランバートルよりは敦煌に行きたいと書いた。それには頭のなかにあった井上靖の小説『敦煌』(新潮文庫)が影響している。

われわれより上の世代はシルクロードへの憧れをもっている。敦煌はシルクロードの出発点である。

かっての敦煌の繁栄は、砂に埋まってしまっていた。しかし20世紀初頭になって、莫高窟で敦煌文献が発見された。

井上靖の小説はこれに着想をえて、なぜ敦煌文献が莫高窟に隠されたのか、その謎を解くストーリーである。

何を食べようかと定食屋に入る、すると隣のおじさんがおいしそうにサンマを食べている、これを見て頭のなかがサンマに占拠される、かくて自分もサンマを注文してしまう、そういうことがよくある。

頭のなかが『敦煌』のイメージで占拠されていたのは、先週書いた『天平の甍』の残像が影響している。どちらも井上靖の小説であり、往古の中国大陸ロマンであるから。

じつはいま『星と祭』を読み返している。これもまた井上靖の小説である。娘を琵琶湖で亡くした主人公の架山がその死を悼むため、琵琶湖周辺に祀られている十一面観音を参拝してまわるというストーリーである。

先週、ブレイクの詩から「一と全の同時把握」のことを書いた。仏教にも同じような考えがあったはずだ。井上靖の小説のどれかに、その言及があったはずだと思った。

最初にあたりをつけたのが『星と祭』。主人公が十一面観音を参拝してまわるストーリーであり、仏教色満載であるから。

書いたとおり、その言及は『天平の甍』のなかにあった。先週のブログを書くだけであれば、それでおしまいである。

しかしすでに頭のなかが『星と祭』のイメージで占拠されてしまった。そこで、いまいちど読んでみようと思い立った次第である。

いぜん小説を読んだのは30年くらい前だろうか。ある種感動したのでそのあと、自身でも琵琶湖周辺の十一面観音を見て回ったことがあった。

その後、竹生島へ行き、その帰りに島から長濱まで船に乗った(主人公の娘が亡くなったのは竹生島の南とされている。)。また西国三十三所めぐりの一貫として琵琶湖畔の長命寺へも行った。そういった経験を踏まえ、こんかいの再読は以前は気づかなかったことにいくつか気づくことができた。

なかでも「あっ」と思ったのはつぎにのくだり。主人公・架山の娘はある若者といっしょに貸しボートに乗っていて転覆したものと推定された。その若者の父親が大三浦である。

 大三浦は、彼自身が言ったように、現世の欲望というものは、全部払い落としているのに違いなかった。金にも、仕事にも、なんの野心もなければ、執着もないのである。ただひたすら死んだ息子に執着しているのである。
 困った奴だ、と架山は思う。しかし、また大三浦の方が本当かと思うこともある。人間の悲しみというものは、もともと消えたり、薄らいだりするものではないかも知れない。水のように蒸発したりするものではなく、石に刻まれた跡のように、それは永遠に残るものかも知れない。塚も動け!大三浦の悲しみの中には、そんな烈しいものがある。

ここで「塚も動け!」というのは、芭蕉の句の一部である。以前読んだ際には、まったく気づかなかった。おくのほそ道金沢の章。

 一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、

 塚も動け我泣声は秋の風

もちろん、竹生島へ行ったことがなくても、長浜まで船に乗ったことがなくても、長命寺その他の十一面観音に参拝したことがなくても、金沢に行ったことがなくても、おくのほそ道を読んだことがなくても、作品の鑑賞はできる。でも・・。

2022年1月10日月曜日

冬の旅(2)-谷汲山華厳寺

 







 大垣駅から樽見鉄道に乗る。1984年国鉄から三セクに移行。住友大阪セメントの輸送に使っていたらしい。途中、綾部駅から西に石灰岩の採掘跡が見えるが、あそこででセメントを作っていたのだろう。

いまはセメント輸送にも使用されず、客車が一両のみ。ご多分にもれず経営は苦しいようで、いろんな企画列車が走っている。一本前はプラレールのラッピングがしてあったが、これはどなたか社長の顔が標識板に掲げられている。

東大垣駅をすぎてしばらくすると、揖斐川を渡る。西側がおおきく開ける。前山の奥、冠雪した伊吹山が美しく輝いている(ワンクリックして拡大すると、11時の方角に)。

40分ほどで谷汲口駅。バスに乗り換え10分余。そこからまた10分ほど門前町を歩くと山門前に着く。途中、雪かきが精力的に行われていた。

谷汲寺は正式には谷汲山華厳寺。天台宗の寺院で、本尊は十一面観音。西国三十三所の三十三番目の札所である。三十三所のなかでは、唯一近畿地方以外にある。

ガイドブックによると、西国三十三所めぐりはどの寺からはじめてもよいとされている。しかし昔は1番から順番に徒歩にて巡礼したようである。そのため満願の寺とされている。

いまの世で1番から順番に巡礼しないといけないとなると、途中で挫折する人が続出してしまう。全集ものや、上中下三巻もののうち、最初だけ読んであとは読まないようなものだ。

そのためどこから初めてもよいことになっているのだろう。そうでなければ谷汲寺を参拝する人は半減してしまう。自身もいきなり最終回の本寺を参拝することはできなかった。

華厳とは、多くの修行・功徳を積んで徳果が円満にそなわり、仏になること。まさにこの寺の名にふさわしい。雪がふったあとであり、いつもとちがう風景に接することができた。ありがたい。


2021年12月15日水曜日

道明寺、道明寺天満宮、葛井寺参拝記

 




 
 古市古墳群のなかには、道明寺、道明寺天満宮、葛井寺が点在しているので、これら寺社もあわせて参拝した。

道明寺、道明寺天満宮は、天満宮とあるとおり、菅原道真公とふかいかかわりがある。道明とは道真の号である。花団とはなんの関係もない(神尾葉子の頭のなかは知らないが)。

菅原氏はもと土師氏で、葬送を職掌としていた。土師氏の家祖は野見宿禰であり(相撲の祖神でもある。太宰府天満宮に碑と力石がある。)、根拠地はこのあたりだった。近鉄道明寺駅の隣は土師ノ里駅である。

野見宿禰の野見は、陵墓に適した土地を探す意味だとか。宿禰は王の死に際し、殉死の代わりに、陵墓をかざる埴輪を考案したとされる。そのことから土師氏(埴輪をつくる人々)の姓とこの地を与えられたという。

道明寺はもと土師寺と呼ばれ、土師氏の氏寺だった。道真の叔母にあたる覚寿尼はこの寺にいた。大宰府に左遷される際、道真は同女を訪ね、別れをおしんだ。

歌舞伎、人形浄瑠璃の演目に『菅原伝授手習鑑』がある。道真が藤原時平の陰謀により大宰府に流された事件をめぐる群像劇である。博多座でも地元ものであるせいか、何度かかかっている。

そのなかでも、道真と覚寿尼が別れを惜しむシーンがでてくる。今回、道明寺を訪ねてみようと思ったのも、そのせいである。

謡曲にも『道明寺』がある。道明寺で、僧尊性が天神の使いである白太夫の神から菅公と道明寺の関係を聞き、木げん樹の実を数珠玉として与えられる話である。

同寺には道真が彫ったといわれる国宝の十一面観音があるが、この日は開帳されていなかった。残念。

天満宮も、もとは土師神社。道明寺と習合していた。大学同級生のお連れあいがこのあたりのご出身だそうだ。子どもさんが小さいときは七五三などよくお参りしていたらしい。この日も何家族かお参りしていた。

結びは葛井寺(ふじいでら)。藤井寺市の葛井寺。西国三十三所5番札所。本尊は十一面千手千眼観音、国宝である(秘仏)。

帰りは天満にある食器等ギャラリーを訪ねようと思った。が、リサーチ不足。日曜は休業日だった。上記各観音さまの拝観ともども、またの機会をうかがいたい。

2021年12月8日水曜日

長谷寺参拝記-玉鬘の旅

 



 岡寺から近鉄吉野線で橿原神宮、そこから近鉄橿原線で大和八木、さらに近鉄大阪線で5つ目が長谷寺である。途中、お腹がすいたので、橿原神宮でタコ焼きを買った。

車窓から、大和三山が順に見える。畝傍、耳成、天の香具山。百人一首持統天皇の歌が思い浮かぶ(じっさいには、秋すぎて冬来にけらし・・だが)。

 春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山

さらに、左手に三輪山が見える。活玉依姫のもとに美しい若者がかよい、姫は懐妊。正体を知るべく若者の服に針をさして糸をたぐると、若者の正体は三輪山の神だった。『古事記』のエピソードが頭をよぎる。

さて長谷寺は、源氏物語、枕草子や更級日記にもでてくる有名な寺だ。なかでも源氏物語のなかでは、大宰府や観世音寺と縁がふかい。

夕顔と頭中将の遺児が玉鬘(たまかずら)。夕顔の失踪後、玉鬘は乳母一家に伴われて筑紫に下向し、大宰府のちかくで美しく成人。

噂をきいた肥後の大夫の監が強引に求婚。これを逃れて上京したものの、あてもなく一行は長谷寺に参詣。そこで、かって夕顔につかえ・いまは源氏につかえている右近と運命的な出会いをはたす。その際、観世音寺に参ったときの話がでる。

紫式部は鄙に対する偏見をにじませつつも、玉鬘が大宰府・観世音寺から長谷寺へ変転し、運命が好転していくさまを描いている。観音さまのお導きであることはいうまでもない。

枕草子はこうだ。

 九月二十日余りのほど、初瀬に詣でて、いとはかなき家に泊まりたりしに、いと苦しくて、ただ寝に寝入りぬ。
 夜更けて、月の窓より漏りたりしに、人の臥したりしどもが衣の上に、白うて映りなどしたりしこそ、いみじうあはれとおぼえしか。さやうなる折りぞ、人、歌詠むかし。

更級日記はこう。

 ・・初瀬川などうち過ぎて、その夜御寺に詣で着きぬ。
 祓へなどして上る。三日さぶらひて、暁まかでむとて、うちねぶりたる夜さり、御堂の方より、「すは、稲荷より賜る験の杉よ」とて、物を投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば、夢なりけり。

寺は長谷山の中腹に伽藍を形成している。駅から北西に見えている。駅前でさきほど買ったタコ焼きをほおばる。

坂をくだり、川をわたる。これが初瀬川だろうか。茶店などが並ぶ狭い参道を草餅に心ひかれながら進む。

ようやく入口の仁王門に達する。特別拝観つきの拝観券を購入し、本堂まで長い長い登楼を登る。登楼からは紅葉が疲れを癒やしてくれる。

本堂は国宝。本尊は十一面観音、10メートルを超える巨像である。当日は特別拝観中で、本堂のなかに入ることができ、観音さまのお御足に触れることができた。

特別拝観後、あらためて正面礼堂にまわって拝顔し、人類の幸せを祈願した。が、清少納言先生とちがい、歌は詠めなかった。