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2022年2月1日火曜日

奇跡の出会いー玉鬘の旅

 

 玉鬘は母の夕顔を求めているのだけれども、夕顔はもうこの世にいない。なのでもう出会いようがない。でも夕顔には右近というおつきの女がいた。右近は夕顔の死後、源氏に仕えている。

長谷寺の手前に椿市という宿場がある。玉鬘一行はここの宿坊で右近と運命的な出会いを果たす。いや、そこは長谷観音さまのおはからいなのだから、奇跡的な出会いというべきか。

右近と一行は長谷寺のなかでお祈りしながら話をする。姫のおつきのなかに三条という女がいた。三条はつぎのように祈願していた(林望訳)。

 「大悲大慈の観音様、もう他にはなにもお願い申しません。ただ我が姫君に、大宰の大弐の北の方か、さもなくば、当国大和の守の北の方になっていただけますように・・・」

九州から脱出してきた三条の願いからすれば、大宰府の次官か、奈良県知事の妻になれればもう最高!というのである。

しかし源氏に仕えている右近はこれを聞いて〈受領の妻だなど、なんという縁起でもないことを申すものじゃ〉と思って、こうたしなめる。

 「その願いはまた、たいそう田舎びたことじゃな。姫君の父君は昔中将でいらした自分にだって、帝の覚え世の声望がどれほど立派なことでありましたろう。・・・」

三条の反論。

 「なんとまあ、よけいなことを。その大臣うんぬんも、ただいまはまずお置きなされ。あの大宰の大弐さまの北の方さまが、清水の観世音寺にお参りなされました折のすばらしいご威勢、あれはもう、帝の御幸にだって勝るとも劣らぬものでございましたに。・・・」

姫の結婚相手を決める基準は家格のつりあい。中央閣僚か地方官(受領)か、京か田舎か。愛はいずこ。

ところで清水の観世音寺?観世音寺って清水だっけ?念のため、観世音寺にいってたしかめると、たしかに「清水山」という扁額がかかげられていた。

京都清水寺が音羽の滝の霊水を起源とすることはよく知られている。観世音寺にも霊水が湧いていたのだろう。どちらも観音さまだし、観音さまと清水とは深い関係があるのかもしれない。

とまれ、右近の手引きにより、姫は源氏の君と運命的・奇跡的な出会いを果たすことができた。そして源氏が詠んだ歌(玉鬘とは、多くの玉を糸にとおした装飾品)。

 恋ひわたる身はそれなれど玉かづら
              いかなる筋を尋ね来つらむ 

2022年1月31日月曜日

長谷寺へー玉鬘の旅

 

 玉鬘(たまかずら)姫一行は京に着いたものの、そこから先は行くあてがない。将来の展望をもてないので、お付きのもののなかには九州に帰ってしまうものもでるしまつ。

しかたがないので神仏に祈ることに。まずは石清水八幡宮。これが先に紹介した松浦の宮や筥崎の宮とご神体がおなじところ。

おくのほそ道のなかにも、こういうくだりがある。

 室の八島に詣す。同行者曽良がいはく、「この神は木の花咲耶姫の神と申して、富士一体なり。・・・」

室の八島と富士山の浅間神社の神はコノハナサクヤヒメでおなじだというのである。じぶんたちの感覚では八百万の神さまはみな一体化してしまっているように思えるが、昔のひとは識別していたのだろう。

石清水八幡宮のつぎは長谷寺に参詣することになった。京都駅から検索すると、石清水八幡宮まで18キロメートル、長谷寺まで73キロメートルある。時速4キロメートルで歩いたとして、それぞれ片道4時間半、あるいは18時間余かかる。18時間となると一日では無理で、2日に分けても一日9時間歩かなければならない。

さすがに姫は駕籠かなと思いきや、そうでもないらしい(やはり林望先生の訳)。

 この市に着いてからは、もはや歩くなどという様子ではなく、あれこれ手当てをしてはみるけれど、もう足じゅうが血豆になって一歩も動くことができぬ・・・。

当時のお姫さまは日ごろどのように暮らしていたのだろう。深窓の令嬢の言葉どおり、屋敷のなかからめったに出歩かないのであれば、この旅はそうとうきつかっただろう。

いまの人はもっと深刻かもしれない。車社会であるから一日40キロメートル弱、9時間を2日間歩ける人はかなり少ないだろう。そうなると、本当は高貴な生まれであるにもかかわらず、源氏の君と会えないまま人生を終えざるをえない。残念(笑)。


2022年1月30日日曜日

九州脱出ー玉鬘の旅


 
(大宰府政庁跡の紅梅)

 玉鬘(たまかずら)姫をまちかまえていたつぎの苦難は大宰府少弐の死。姫を養護する乳母一家は大黒柱をなくしてしまったわけである。残された乳母たちは姫をお連れして京に帰りたかったが、なかなかこれをはたせず。

さらなる苦難はがさつな男たちだ。姫は大人になり、美人だと評判に。近在の男どもが押し寄せてくるが、姫とは釣り合いがとれない。やむをえず姫には差し障りがあってなどと誤魔かす。

近所の男衆はみなあきらめたけれども、肥後の監(げん)という男はあきらめが悪い。そこはやはり「もっこす」なわけである。ついに屋敷に乗り込んできて、強く結婚を迫る。歌なぞ詠んでみせるが、むさ苦しく田舎ぶりが甚だしい。

ことここに至っては一時の猶予も許されず、姫と乳母一家は九州を脱出。ほうほうのていで都にたどりつく。・・・

紫式部は九州には来ていないだろうから、書いてあることはすべて文字の上か耳学問だろう。読んでいてあれ?と思うことがある。

少弐といえども大宰府の役人であるから大宰府政庁の近くに住んでいたと思われる。しかし乳母らは肥前に住んでいたとある。

それでは基山あたりだろうか。大野城と基肄城は兄弟城であるから可能性はある。肥後の監が懸想したというのだから、熊本に近かったであろうし。

通勤はどうしたのだろう。いまなら自家用車かJRを利用して基山に住んでいる人が太宰府市役所に通勤しているかもしれない。しかし平安時代である。馬だろうか。

と思いながら読み進めると、九州脱出の段にこのような記述がある(引用はいつもの林望先生のもの)。

 〈これでもう二度と、姉さまとは会えないかもしれない。・・・ここで何年も暮らしたとは言っても、どうしても見捨てがたいというほどの所でもないけれど・・・〉と妹は思う。けれども、あの松浦の宮の前の渚と、姉さんに別れるのだけは、何度も何度も、振り返り振り返りするほどに名残が惜しまれるのであった。・・・

などとある。松浦の宮とはいまの鏡神社だし、渚は虹ノ松原だろう。すくなくとも脱出の際、船出したのは唐津のようだ。さらに京都に戻ってからの話であるが、こうある。

 この近くに、八幡の宮という神社がありますが、それは筑紫のほうでも、姫君がいつも参詣しては祈っておられた松浦の宮、そして筥崎の宮と、ご神体を同じくする社です。あの肥前を発って来るときも、松浦や筥崎の宮に、多くの願立てをなさっておいでであったし。・・・

すると肥前というのは唐津のことか。唐津からだと、大宰府まで通勤するには絶望的に遠いのだけれど。

さらに混乱させるのは筥崎の宮。基山から参拝するにも唐津から参拝するにもかなり距離がある。というわけで、姫らが住んでいた肥前がどこかは謎である。

平安時代の京都に住む紫式部が九州の地理に精通していないのはやむを得ない。現代のわれわれだって東北地方の地理については似たようなものだ。しかし読みながら、あれ?と思うのである。

  

2022年1月27日木曜日

都鄙感覚と人権ー玉鬘の旅

 

 『関ヶ原』でだいぶ脱線したけれども、「玉鬘(たまかずら)」の反芻読書に戻ろう。

玉鬘姫は夕顔の娘。夕顔が急死したため、多難な人生を歩むことになる。その多難な人生の大きな部分は九州へ流浪するということ。われわれ九州人からすると、あまり面白くはない。

紫式部は天才だけれども、平安貴族の一人であるから、身分差別はきびしいし、都鄙感覚(都会を無条件によいところとし、田舎を見下す態度)もきびしい。つまり、貴族であっても受領階級は見下しているし、田舎者はバカにしている。いや、実際はそうではなかったかもしれないが、読者層の気持ちを忖度してそのように書いている。

玉鬘は乳母が養育していた。その夫は大宰府の少弐という地方官に着任することになった。玉鬘も連れて行くしかない。そのときの乳母の思案もこんなふうである(先に紹介した林望訳)。

 こうなったからには、やむを得まい。せめてこの姫君だけは行方知れずの母君のお形見として、どこまでもお世話をすることにしよう。・・・筑紫なんて、とんでもない田舎へお連れするについては、都からはるか彼方に下っておいでになる、その悲しいお身の上について・・。

筑紫なんて、とんでもない田舎・・・。とほほ。

ま、ここはそういうふうに描いた方が玉鬘の苦難をより強調することができる、という創作上の仕掛けと考えておこう。

しかしこのような都鄙感覚はいまに至るまで連綿とつづいている。『源氏物語』が古典として読み継がれているせいなのか、それ以前の問題なのか。

怪獣ラドンは阿蘇山の火口から出現した。けっして浅間山からではない。別に富士山から出現したってよいではないか。微妙なところで都鄙感覚が働いている。

連ドラなどでもおなじ。「こんど○○部長、博多に左遷だってよ。」なんて平気で言っている。われわれからすれば、ちょっとそのセリフどうなのってかんじ。紫式部からすれば、東京(板東)だって、とんでもない田舎ではないか。

都鄙感覚が連ドラのセリフどまりであれば問題ない。けれどもきのうハンセン病の偏見・差別問題で触れたように、人権の分野まで及んでくると見過ごせない。

水俣病があれほど長期間放置されたのは東京から遠かったからと言われている。魚が大量に浮いたり、猫が狂ったり、奇病が発生していることは分かっていたが、長らく放置された。

他方、1958年東京で製紙工場排水による江戸川漁業被害が発生した際の国の対応ははやかった。公共用水域の水質の保全に関する法律と工場排水等の規制に関する法律、いわゆる水質二法が制定された。

水俣病の裁判の際には、水質二法で水俣病の発生・拡大を規制できたはずだと主張したが、原因物質がわからなかったのでできなかったなどと国は反論した。隅田川でおなじ被害が起きていたら、そのような反論をすること自体が憚られただろう。

あれれ。優雅な王朝文学の読書をするつもりがまたまた脱線してしまった。優雅な話は来週にもちこし。

2022年1月25日火曜日

武隈の松-玉鬘の旅


 きのうBS-NHKで映画『関ヶ原』をやっていた。岡田准一が石田三成で主役。徳川家康は役所広司。ま、岡田准一と役所広司の喧嘩だ。

役所広司はNHK大河『徳川家康』の織田信長役で強烈な印象を受けた。キレッキレな信長で頭の上から声をだしているような感じ。その役所が徳川家康か~。タヌキぶりがすごい。

そういえば、岡田くんも、NHK大河『軍師官兵衛』で黒田官兵衛をやっていたなぁ。役者はあっちの役をやったりこっちの役をやったりできて、いいなぁ。ま、弁護士も似たようなものか。

岡田くんはそういえば先ごろ、映画『燃えよ剣』で土方歳三をやっていたなぁ。共通点は、どれも司馬遼太郎作品が原作ということだな。

さて、長谷寺に行ったので反芻旅行のため、『源氏物語』の「玉鬘」の段を反芻読書しておこうと思った。もちろん、原文ではなく、『謹訳 源氏物語 四』林望訳・翔文社刊で。

「玉鬘」の前に、「薄雲」「朝顔」「少女」の章段がある。「薄雲」前半は、大井邸に移り住んだ明石の君が幼い娘ひとりを京の二条邸に引き渡すかどうか煩悶し、ついに娘を送りだすくだり。

『おくのほそ道』は漢詩や古歌、そして『源氏物語』などを俤にして書かれているけれども、『源氏物語』もまた多くの古歌を下敷きとして書かれていることがよく分かる。先人の業績をふまえたり、先人の創造した美しいイメージを借りて自己の作品をより美しくするというのは創作に不可欠な作業なのだとあらためて感じ入る。

ついに娘を送り出すくだりを引用する。

 ちょうど片言をしゃべるようになった娘の、その声はたいそうかわいらしい。
 車に乗ると、姫は母君の袖を掴んで、
 「ねえ、乗って、いっしょに」
 と、その袖を引く。母君は、この声を聞くと、もはや涙もせきあえず、

 末遠き二葉の松に引き別れ
 いつか木高きかげを見るべき

 (まだ二葉ほどの幼い松のような姫、これから先長い人生が待っている姫に、今ここで松の根を引くように、引き別れてしまったら、いったいいつ、この姫松が大きな木になったところを見ることができるのでしょう)

 御方は、この歌を最後まではとうてい詠じ切れず、途中から激しくせき上げて泣いた。源氏はそれを見て、〈それはそうであろう、ほんとうにかわいそうに〉と思って、

 生ひそめし根も深ければ
 武隈の松に小松の千代をならべむ

 (こうして親子に生まれてきた、その前世からの因縁も根深いことだから、あの名高い武隈の親松と、この小松とがいずれは千代の長きにわたって一緒に暮らす時もまいりましょう)

 どうか、気を長くもって過ごすのだよ」
 せめては、そう言って慰める。
 昔、藤原元善は、陸奥の守となって下向した時に、武隈の松が枯れてしまっているのを見て、改めて小松を植えたことがあった。やがて任果てて上京の途次、再びこの松を見て、「植ゑし時契りやしけむ武隈の松をふたたびあひ見つるかな」という歌を詠んだと伝えられる。
 源氏は、こんな故事を引きごとにして、いずれは親子いっしょに暮らせるようにしたらいい、と、明石の御方の心を引き立てたのである。

引用が長くなってすみませぬ。さらなる引用で恐縮だけれども、『おくのほそ道』の武隈の段はこう。

 岩沼に宿る。
 武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失はずと知らる。まづ能因法師思ひ出づ。往昔、陸奥守にて下りし人、この木を伐りて名取川の柱杭にせられたることなどあればにや、「松はこのたび跡もなし」とは詠みたり。代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形整ほひて、めでたき松の気色になんはべりし。

 武隈の松見せ申せ遅桜

と、挙白といふ者の餞別したりければ、

 桜より松は二木を三月越し

こうしてつなげてみると、歌枕というものがよく分かる。ただの松、しかも先人が見たものと同じ松ではないけれども、それでもかまわない。あるいは伐り、あるいは植え継ぎしてもかまわない。それに依って先輩歌人や歌そのものを召喚し、自らの歌心を呼び覚まし鼓舞してもらえる場所やモノが歌枕なのだ。

2021年12月8日水曜日

長谷寺参拝記-玉鬘の旅

 



 岡寺から近鉄吉野線で橿原神宮、そこから近鉄橿原線で大和八木、さらに近鉄大阪線で5つ目が長谷寺である。途中、お腹がすいたので、橿原神宮でタコ焼きを買った。

車窓から、大和三山が順に見える。畝傍、耳成、天の香具山。百人一首持統天皇の歌が思い浮かぶ(じっさいには、秋すぎて冬来にけらし・・だが)。

 春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山

さらに、左手に三輪山が見える。活玉依姫のもとに美しい若者がかよい、姫は懐妊。正体を知るべく若者の服に針をさして糸をたぐると、若者の正体は三輪山の神だった。『古事記』のエピソードが頭をよぎる。

さて長谷寺は、源氏物語、枕草子や更級日記にもでてくる有名な寺だ。なかでも源氏物語のなかでは、大宰府や観世音寺と縁がふかい。

夕顔と頭中将の遺児が玉鬘(たまかずら)。夕顔の失踪後、玉鬘は乳母一家に伴われて筑紫に下向し、大宰府のちかくで美しく成人。

噂をきいた肥後の大夫の監が強引に求婚。これを逃れて上京したものの、あてもなく一行は長谷寺に参詣。そこで、かって夕顔につかえ・いまは源氏につかえている右近と運命的な出会いをはたす。その際、観世音寺に参ったときの話がでる。

紫式部は鄙に対する偏見をにじませつつも、玉鬘が大宰府・観世音寺から長谷寺へ変転し、運命が好転していくさまを描いている。観音さまのお導きであることはいうまでもない。

枕草子はこうだ。

 九月二十日余りのほど、初瀬に詣でて、いとはかなき家に泊まりたりしに、いと苦しくて、ただ寝に寝入りぬ。
 夜更けて、月の窓より漏りたりしに、人の臥したりしどもが衣の上に、白うて映りなどしたりしこそ、いみじうあはれとおぼえしか。さやうなる折りぞ、人、歌詠むかし。

更級日記はこう。

 ・・初瀬川などうち過ぎて、その夜御寺に詣で着きぬ。
 祓へなどして上る。三日さぶらひて、暁まかでむとて、うちねぶりたる夜さり、御堂の方より、「すは、稲荷より賜る験の杉よ」とて、物を投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば、夢なりけり。

寺は長谷山の中腹に伽藍を形成している。駅から北西に見えている。駅前でさきほど買ったタコ焼きをほおばる。

坂をくだり、川をわたる。これが初瀬川だろうか。茶店などが並ぶ狭い参道を草餅に心ひかれながら進む。

ようやく入口の仁王門に達する。特別拝観つきの拝観券を購入し、本堂まで長い長い登楼を登る。登楼からは紅葉が疲れを癒やしてくれる。

本堂は国宝。本尊は十一面観音、10メートルを超える巨像である。当日は特別拝観中で、本堂のなかに入ることができ、観音さまのお御足に触れることができた。

特別拝観後、あらためて正面礼堂にまわって拝顔し、人類の幸せを祈願した。が、清少納言先生とちがい、歌は詠めなかった。

2011年10月23日日曜日

 フジバカマ



 フジバカマ(藤袴)は、キクの仲間
 秋の七草の1つ。

 かつては日本各地の河原などに群生していたそうですが
 今では環境省のレッドリストで準絶滅危惧種に指定されています。

 花言葉は「ためらい」
 「優しい思い出」。

 写真は京都嵯峨野にある天竜寺に
 咲いていたもの。

 天竜寺は、開基が足利尊氏、開山が夢窓疎石とされるも
 フジバカマは万葉の昔から日本人に親しまれてきました。

 少なくとも、源氏物語の第30帖のタイトルになっているので
 王朝の時代にはポピュラーだったはず。

 「藤袴」のタイトルは
 物語のなかで夕霧が詠んだ和歌から。

   同じ野の 露にやつるる 藤袴 
 
          あはれはかけよ かことばかりも

  (あなたと同じ野原で露にぬれてしおれている藤袴です。

    せめて、あはれだと同情の言葉をかけてやってください。)

 当然、玉鬘はソデにします。
 こんなメメしい口説き文句ではねぇ。

 ま、この種の男のメメしさは、王朝時代からモテキまで
 絶滅することなく連綿とつづいてきたことは確かなようです。