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2023年5月25日木曜日

『コメンテーター』奥田英朗著

 
 奥田英朗著『コメンテーター』(文芸春秋刊)を読んだ。

「コメンテーター」、「ラジオ体操第2」、「うっかり億万長者」、「ピアノ・レッスン」、「パレード」の短編小説集。

『イン・ザ・プール』、『空中ブランコ』、『町長選挙』につづく、人気シリーズ4作目。久しぶりの登場。17年ぶり。つまり、復活!

前3作を読んだことがある人であれば、本作の内容も容易に推測できる。同工異曲とはこのことだ(失礼)。

シテはトンデモ精神科医の伊良部。ツレ(連合いのツレではなく、能でシテの助演役のこと)は美人看護師で夜はロック歌手のマユミさん。ワキは各短編ごとに入れ替わる「患者さん」。

(以下、ネタバレ)

「コメンテーター」の患者は、低視聴率に悩むワイドショーのプロデューサー。「ラジオ体操第2」では、営業車の軽自動車に乗っていて後ろから煽られる会社員。「うっかり億万長者」では、短期間で5億円をかせいだデイトレーダー。「ピアノ・レッスン」では美人のピアニスト。「パレード」では、都内一人ぐらしの大学生。

コロナ禍のなか、まじめなワキの皆さんは少々精神を病んでいる。しかたなくシテの診察室を訪れる。

前場では、いまの社会により適合しているワキの目から見た伊良部の子どもぶりが描かれる。伊良部はある種の発達障害で、子どものまま。フィギュアを集め、マユミさんが患者に注射するのに興奮し、キテレツなコメントを連発する。コロナ禍なんて関係ない。

以上は表紙の絵にも描かれている(写真)。赤く描かれた舞台は、ワイドショーのスタジオ。左上に描かれている子ども(逆さまで、天使っぽい)が伊良部である。マスクをすっとばしている。

後場では、伊良部は華麗に舞う。というか、あいかわらず自由気ままに振る舞う。変化しているのは、最初は伊良部の言動を奇異に思い、辟易していたワキの面々の価値観のほう。

伊良部(とマユミさん)とつきあううち、いつか価値観の転倒がおとずれる。世間の決まりに過剰にしたがっていた自分が間違っていたと思えるようになる。その結果、病は癒えている。

コロナ禍で少々心を病んだかなと思うみなさん、伊良部(とマユミさん)に癒されてくだされ。自分は関係ない!というあなた、そこが問題かも。

2023年5月18日木曜日

『ドライブ・マイ・カー』

 

 テレビがつまらない。しかたなしにNetflixを見る夜が増えている。先日、映画「ドライブ・マイ・カー」(2021年)をみた。

(以下、ネタバレあり)

西島秀俊が主演。俳優・舞台演出家の家福を演じている。その妻・音は霧島れいか。夫婦は子どもを失い、家福はさらに妻を2重に失う。そこからの回復や気づきを描く。

家福は緑内障を患い、自分では愛車サーブの運転ができなくなってしまう。そのため、渡利みさき(三浦透子)に運転を委ねることになる。まさにドライブ・マイ・カー。

自然と、みさきと会話をしたり、みさきの過去を知ることになる。そうした交流を通じて、先にみた家福自身の傷が別の視点から見直されることになる。

ドライブ・マイ・カーは、もとはビートルズのヒットソングである(1965年。歌詞を知っていれば、ストーリー展開を予想することができる)。

その曲に依拠して(たぶん)、村上春樹が2014年に短編小説化している。『女のいない男たち』という短篇集の冒頭の短篇だ。

映画は、同じ短篇集のなかの「シェエラザード」や「木野」のストーリーも取り込んでいる。

さらにチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』も重要な役割を果たしている。チェーホフの戯曲を演じていると、自己の内面をさらけだすことになってしまうのだそうだ(俳優・舞台演出家の家福談)。おそろしい。

映画はカンヌ国際映画祭などで高い評価を得ている。

2023年2月16日木曜日

赤後寺の十一面観音

 
 架山は、その後も、琵琶湖畔の十一面観音を訪ね歩く。大三浦がいることもあれば、他の人と同行することもある。

四体目は赤後寺(日吉神社)の十一面観音(重文)。やはり琵琶湖の北岸で、先の渡岸寺の十一面観音の近くである。

https://kitabiwako.jp/spot/spot_931

手間かもしれないが、アドレスをクリックして、それぞれの仏さんを拝んで頂きたい。そのうえで、井上靖の文章を読んでいただきたい。一口に十一面観音といっても、井上が描き分けたように千差万別である。

できれば自分が撮影した写真を掲載したいところ。だが、自分が訪ねたのはもう20ほども昔であるし、拝観できたとしても撮影はできないところがほとんどであるから、当該寺院や観光協会の写真をお借りするしかない。

さて、本仏について『星と祭』にはこう書かれている。

 架山がそに見たものは、今まで拝んで来た十一面観音とはまるで違ったものであった。厨子の中には二つの像があった。
「右手が十一面千手観音さま、左手が大日如来さまでございます」
 架山は口から、すぐにはいかなる言葉も出すことはできなかった。十一面観音は頭上の仏頭全部を失っており、左手七本、右手五本の肘から先の部分を尽く失っている。無慚な姿と言うほかない。・・

「このようなお姿ですが、お顔はなかなかご立派でございます。先年専門家の人が見えまして、冴えた彫りの美しさを褒めておられました。」・・
 
「賤ヶ岳の合戦の時お堂に火がかかりまして、その時土地の人が肩に背負って救い出し、近くの赤川という川に沈めて、戦火の鎮まるまで匿しておいたということが伝えられております。そういう過去を持ちでございます」

・・現在この十一面観音像がここにあるということは、これを尊信したこの土地の人々の手で、次々に守られ、次々に伝えられて、今日に到ったということであろう。・・

※引用はいずれも能美舎刊から。

2023年2月14日火曜日

石道寺の十一面観音


 『星と祭』で、子を亡くした架山らが次に訪れたのは、石道寺の十一面観音(重文)。平安末期の作。琵琶湖の北岸には十一面観音が集中していて、石道寺も渡岸寺からほど近い。

井上靖が小説を書いた当時、村の人たちが仏をお守りしていて、いつでも簡単に見られるということではなかったようだ。小説中でも、気難しそうな老人が逃げ回ったあげく、しぶしぶ仏を見せるというふうである。

https://kitabiwako.jp/spot/spot_1052

「きれいな観音さまですね」
 架山は言った。思わず口から出た言葉だった。美人だと思った。観音さまと言うより、美人がひとり立っている。

 ・・そこに立っているのは、古代エジプトの威ある美妃でもなければ、頭に戴いているのは王冠でも、宝冠でもなかった。何とも言えず素朴ないい感じの観音さまだった。唇は赤く、半眼を閉じているところは、優しい伏眼としか見えなかった。腰を僅かに捻り、左手は折り曲げて宝瓶を持ち、右手は自然に垂れて、数珠を中指にかけ、軽く人差し指を開いている。

ーこの十一面観音さまは、村の娘さんの姿をお借りになって、ここに現れていらっしゃるのではないか。素朴で、優しくて、惚れ惚れするような魅力をお持ちになっていらっしゃる。・・何でも相談にのって下さる大きくて優しい気持を持っていらっしゃる。恋愛の相談も、兄弟喧嘩の裁きも、嫁と姑の争いの訴えも、村内のもめごとなら何でも引き受けて下さりそうなものを、その顔にも、姿態にも示していらっしゃる。

・・〝石道の観音さん”の制作者が誰であるか知るべくもないが、往古、一人の仏師はこの地方に発見した一人の美女をモデルにして、その素朴さ、美しさ、優しさを神格化して、あの観音像を刻んだのに違いない。

観音さまには遠くおよばないにしても、大きくて優しい気持ちを持ち、何でも相談にのれる弁護士でありたいものだ。

※引用はすべて能美舎版から。

2023年2月7日火曜日

塚も動け!

 



 きのうはウランバートルよりは敦煌に行きたいと書いた。それには頭のなかにあった井上靖の小説『敦煌』(新潮文庫)が影響している。

われわれより上の世代はシルクロードへの憧れをもっている。敦煌はシルクロードの出発点である。

かっての敦煌の繁栄は、砂に埋まってしまっていた。しかし20世紀初頭になって、莫高窟で敦煌文献が発見された。

井上靖の小説はこれに着想をえて、なぜ敦煌文献が莫高窟に隠されたのか、その謎を解くストーリーである。

何を食べようかと定食屋に入る、すると隣のおじさんがおいしそうにサンマを食べている、これを見て頭のなかがサンマに占拠される、かくて自分もサンマを注文してしまう、そういうことがよくある。

頭のなかが『敦煌』のイメージで占拠されていたのは、先週書いた『天平の甍』の残像が影響している。どちらも井上靖の小説であり、往古の中国大陸ロマンであるから。

じつはいま『星と祭』を読み返している。これもまた井上靖の小説である。娘を琵琶湖で亡くした主人公の架山がその死を悼むため、琵琶湖周辺に祀られている十一面観音を参拝してまわるというストーリーである。

先週、ブレイクの詩から「一と全の同時把握」のことを書いた。仏教にも同じような考えがあったはずだ。井上靖の小説のどれかに、その言及があったはずだと思った。

最初にあたりをつけたのが『星と祭』。主人公が十一面観音を参拝してまわるストーリーであり、仏教色満載であるから。

書いたとおり、その言及は『天平の甍』のなかにあった。先週のブログを書くだけであれば、それでおしまいである。

しかしすでに頭のなかが『星と祭』のイメージで占拠されてしまった。そこで、いまいちど読んでみようと思い立った次第である。

いぜん小説を読んだのは30年くらい前だろうか。ある種感動したのでそのあと、自身でも琵琶湖周辺の十一面観音を見て回ったことがあった。

その後、竹生島へ行き、その帰りに島から長濱まで船に乗った(主人公の娘が亡くなったのは竹生島の南とされている。)。また西国三十三所めぐりの一貫として琵琶湖畔の長命寺へも行った。そういった経験を踏まえ、こんかいの再読は以前は気づかなかったことにいくつか気づくことができた。

なかでも「あっ」と思ったのはつぎにのくだり。主人公・架山の娘はある若者といっしょに貸しボートに乗っていて転覆したものと推定された。その若者の父親が大三浦である。

 大三浦は、彼自身が言ったように、現世の欲望というものは、全部払い落としているのに違いなかった。金にも、仕事にも、なんの野心もなければ、執着もないのである。ただひたすら死んだ息子に執着しているのである。
 困った奴だ、と架山は思う。しかし、また大三浦の方が本当かと思うこともある。人間の悲しみというものは、もともと消えたり、薄らいだりするものではないかも知れない。水のように蒸発したりするものではなく、石に刻まれた跡のように、それは永遠に残るものかも知れない。塚も動け!大三浦の悲しみの中には、そんな烈しいものがある。

ここで「塚も動け!」というのは、芭蕉の句の一部である。以前読んだ際には、まったく気づかなかった。おくのほそ道金沢の章。

 一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、

 塚も動け我泣声は秋の風

もちろん、竹生島へ行ったことがなくても、長浜まで船に乗ったことがなくても、長命寺その他の十一面観音に参拝したことがなくても、金沢に行ったことがなくても、おくのほそ道を読んだことがなくても、作品の鑑賞はできる。でも・・。

2017年12月13日水曜日

『ニュー・シネマ・パラダイス』と『雪国』と能


 一人息子(高校生)がいる女性と『ニュー・シネマ・パラダイス』の話題となった。その人によると,あの映画をみるときには,主役の映画監督ではなく,映画監督の母親の視点でみてしまうのだそうだ。

 そのときは,それはかなり変則的な見方ではなかろうかと思った。映画は(小説などでも)観客が主役に感情移入して観るものであり,そうならなかったとしたら,作者なり制作者の失敗ではないだろうか。でもまぁ,映画なんて楽しんでなんぼだから,息子がいる母親が,話中の母親に感情移入して楽しむのもありかなぐらいに思った。

 しかし,今般,認識をあらためた。フェイスブックでやりとりをするなかで『雪国』が話題になったので,あらためて読みなおしてみた。これまでには気づかなかった点に,いろいろ思い当たった。なかでも,主人公と思っていた島村に関する注解(郡司勝義,新潮文庫175頁)。川端康成「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで,ただ駒子をうつす鏡のようなもの,でしょうか。」(昭和43年12月『雪国』について)。能でいえば駒子のシテに対するワキといえようか。

 能を知らなければ,この注解は意味不明だろう。少しでも囓れば,明白である。能における主役はシテである。この世に未練を残し,成仏できない霊的な存在であることが多い。これに対するワキは,諸国一見の僧であることが多く,シテを呼びだし,その鎮魂を行う存在である。つまり,主役は駒子(その純な生きざま)なのである。島村は彼女とその渦巻く感情を呼びだし,その純粋さを読者に伝える存在にすぎない。それであれば,島村に感情移入しているだけでは大事なことが見えない。このように理解して『雪国』を読めば,いろいろなことが見えてくるし,理解できるところもでてくる。なるほどなるほど。

 そういう立場に立てば,『ニュー・シネマ』についても,母親を主役として鑑賞することもあり得るように思えてきた。むしろ日本人の見方としては多数派なのかもしれない。少なくとも,伝統に忠実な見方といえるかもしれない。あるいは,企業などで社長型と参謀型・秘書型にパーソナリティが分かれるとすれば,後者の人たちはこのような鑑賞のしかたをしているのかもしれない。
 
 西欧人には主体性があるが日本人には主体性がないとかいう議論も,少なくとも中世以来のこのような日本人の心性と深くかかわっているのではなかろうか(飛躍しすぎ?笑)。

2013年6月9日日曜日

『タイガーズ・ワイフ』



本を読んでいて
信じられない話がでてくると微妙。

なんか子どもだましに
あっているような気にさせられるから。

村上春樹の小説が好きになれない人は
その辺につまずいているのではないでしょうか。

科学的な事実に基づいて書くことだけが
小説ではないという立場に立てるかどうかですね。

なぜ小説を読むのか?
という点にかかわってきます。

魂を揺さぶられるためだ,とするならば
必ずしも科学的な事実に基づく必要はありません。


テア・オルブレヒトの『タイガーズ・ワイフ』
(新潮クレスト・ブック)を読みました。

「2013年本屋大賞」の
「翻訳小説部門」第1位。

著者テア・オブレヒトは,ベオグラード生まれの
セルビア系の女性作家。

よくぞ
選んでくれました。


はっきりとは書かれていませんが
舞台は,紛争・分裂前後のユーゴスラビア。

旧ユーゴは,民族,宗教,政治体制等が
モザイクのように入り交じっていた。

セルビアの首都ベオグラードは戦略的拠点として
古代から現代まで140回も戦いの場となったという。

物語中でもくり返し
紛争の舞台になっている。

人々の心も戦争で
キズだらけになっている。


また旧ユーゴは東隣が
ルーマニアである。

あのドラキュラで
有名なお国柄。

ふるくからの迷信や幻想のたぐいが
色濃く残っている。


旧ユーゴは文明の十字路であり
現実と幻想の十字路でもある。


そのような場所で,主人公の女医が
祖父の個人史をたどる。

それがそのままユーゴの現代史や
迷信・幻想の世界をたどることにもなる。


祖父の人生は
主に二つの物語で構成されている。

「不死身の男」と
「トラの嫁」の物語。

前者は祖父が大人→子どもに戻り
後者は子ども→大人になる物語。


読みながら,なんどもガルシア・マルケスの
『百年の孤独』に似ているなぁと思いました。

解説を読むと,案の定,オルブレヒトが
最も好きな作家のひとりはガルシア・マルケスだそう。


さて,ちょっと信じられない話がいっぱいでてきますが
いちばんは,オルブレヒトが1980年生まれだということ。

すごい。
天才ですね。

2013年5月29日水曜日

大菩薩嶺(2057m)





週末,東京出張だったので
ついでに大菩薩嶺に登りました。

大菩薩嶺より
大菩薩峠のほうが有名でしょうか。

中里介山の小説
『大菩薩峠』のタイトルになっているので。

評価はたかいようですが
なにぶん長編なので未読です。


新宿にいくと
青梅街道がありますよね。

あの道はどこへ通じているか
ご存知ですか。

名前からして
青梅市を通っていることは明らか。

その終点は
山梨県甲府市なんですね。

八王子や大月(中央線沿線)を通る甲州街道にたいし
甲州裏街道と呼ばれていました。


青梅街道を西にむかい
甲州に入るには山越えをしなければなりません。

その最高標高点が
大菩薩峠だったんですね。

(いまはすこし北西側
柳沢峠になっています。)

山越えをするより
甲州街道をいったほうが楽そうですが

距離がみじかかったのと
関所がゆるかったというメリットがあったのだとか。


でも,そこから遠望する富士山
その絶景も捨てがたいポイントだったでしょうね。

2013年5月9日木曜日

『黄金の騎士団』





(オオカメノキの花
 花言葉 黙っていても通じる私の心)


知りあいのなかには
先に結末を読むという人が何人かいる。

サスペンスだろうが一般だろうが
おかまいなしに結末を読む。

そうしないと
落ち着いて本など読めないというのだ。

これは作者泣かせな
読者たちであろう。

小説にかぎらず,芝居やなんかもいかに視聴者を
ハラハラドキドキさせるかが勝負だから。

最後にカタルシスが訪れることにより
あ~面白かったとなるのであろう。

それが
だいなしである。


しかし,面白かった作品を
2度読むということはある。

この場合は,結末が知れているわけだけれど
やはり面白い。

結末が知れていることは
必ずしも作品を楽しむ障害にはならないわけだ。


そういえば昔の映画は
先に結末を知って,そこに至る筋を観ることがあった。

昔の映画館は,いまのように入れ替え制ではなく
途中入場もできるし,何度でも同じ作品を観てもよかったから。

(昔の映画館はかくて,細切れの時間でも
映画を楽しむことができた。いまはそうはいかない。)

たしかに
それでも面白かった。

こういう観方の面白さは
伏線がよくわかることだ。

最初から順に観ていくと
結構,伏線を見逃しているものだから。


さて,話を戻して
結末を先に読みたい人泣かせな小説である。

井上ひさしさんの
『黄金の騎士団』(講談社)。

未完。
井上ひさしさんの遺作のひとつ。

結末を先に読もうにも
結末がない。

だからつまらないかというと
逆で,だから面白い。

結末は自分であれこれ
想像するしかない。


それか,漱石の『明暗』のように
われこそはと思う方,続きを書いてください。

なるほど,そうだよね
となるのか

え~っ,それちょっとちがうのでは?
となるのか

それもまた
面白いでしょう。

天国の井上さんも
よろこばれると思います。

2012年12月25日火曜日

『完全黙秘の女』





法律家の書いた文章は悪文である
と,よく言われる。

そのとおり。
いやになる。

誤解を避けるためといわれる。
ほんとうだろうか。

弁護士には
本を書く人がおおい。

なかには
小説に手をだす人もいる。

でもなんというか
やはり準備書面調。

準備書面は民事訴訟にあって
当事者の主張を詳しく説明するもの。

弁護士の小説も説明であって
表現でないことがおおい。

自費出版の愛好家がおおいことと
相関関係にある。

弁護士としての能力と
小説家としてのそれは別ものだ。


そうしたなか
法坂一広さんの快挙だった。

『弁護士探偵物語 天使の分け前』(宝島社)
『このミス』大賞を受賞。

文章の実力により
本屋で平積みになった。


『完全黙秘の女』(宝島社)は
弁護士探偵物語の第2段。

文章は前作よりこなれて
ますます上手くなった。

1行ごとになにがなんでも
うんちくを語る。

その語り口はあいかわらずだけれど
くさみは減った。(慣れただけかもしれない)

シリーズものの強みで
作品世界に入っていきやすい。

福岡市とその近郊が舞台になっていて
なじみやすい。

弁護士や裁判官の生態,弁護士業界の現況
刑事裁判の問題など,いろいろ勉強になる。

半分ほど読んだところで
犯人がわかってしまうのが難点。

でも犯人がわかっても
人間愛で読ませる。


なにより新人女性弁護士
土田さんの成長物語なのがいい。

法坂先生,こっそり
土田さんのメルアド教えてください。

2012年3月13日火曜日

『シャーロック・ホームズの冒険』 by.映画も小説も好きな福岡の弁護士



 きのう映画のシャーロック・ホームズと
 小説のそれは別ものだと書きました。

 小説のホームズは理知的な推理家であり
 活劇的な要素はそれほどないはずだと。

 しかし,そういえばホームズには
 『シャーロック・ホームズの冒険』というタイトルもあったなぁ。

 と思い当たり
 念のため,いま読み直しているところです。

 その結果,映画と小説が別ものとの評価は
 正しいことを確認しました。

 ちょっと認識をあらためたのは
 ワトスン博士の役割です。

 ホームズはもっとワトスン博士と会話をするなかで
 謎解きをすすめていくものだと思っていました。

 でもワトスン博士は実際のところ
 謎解きにはまったく貢献していません。

 じゃ,なにをしているかというと
 いくつかの役割があります。

 ひとつは,狂言回しというか
 物語の進行役,説明役です。

 テレビドラマでいえば
 ナレーターみたいな。

 ワトスン博士はホームズの伝記ライターという役どころで
 この役割をはたしています。

 そこから,彼は,問題や謎の提示者としての役割があります。
 ホームズものの醍醐味は鮮やかな謎解きですから,これは不可欠です。

 ホームズの頭の中ではほぼ最初から仮説としてであれ
 謎の解決ができてしまっています。

 ですから,ホームズのモノローグでこの小説を書いていくとすると
 たいへんつまらない展開になってしまいます。

 そこに一般人・平均人としてのワトスン博士の観察力・推理力を導入すると
 ホームズの頭の中にある答えが見えなくなり,事件が謎になります。

 謎解きはもっぱらワトスン博士の頭の中で
 「理解」という形でなされるわけです。

 そのため,両者の会話を通じて謎解きがなされる
 かのごとき錯覚をしてしまいます。

 ワトスン博士の観察力・推理力が一般人レベルに設定されていることから
 彼にはわれわれ読者の代弁者としての役割もあります。

 ワトスン博士の発する「なぜじゃ~」「誰がじゃ~」「どうしてじゃ~」
 などの問いはわれわれ読者の発する問いでもあるわけです。

 最後に,彼には,ホームズの探偵としての能力の賛美者
 謎解きの見事さの賞賛者としての役割があります。

 ホームズが自分で「じょうじゃ~」と自慢するのは鼻持ちならないところ
 他者の立場から賞賛するので読者も受け入れやすいわけです。

 その他,人手が足りないときはホームズの雇ったアルバイトたちと
 端役もこなしたりします。

 名探偵ホームズは,ワトスン博士がこのようにいろいろな役割を分担
 してくれることで,後顧の憂いなくきわだった活躍ができるわけです。

 これと対比すると,助手のいない
 フィリップ・マーロウの大変さが理解できます。

 ワトスン博士の役割もぜんぶ自分でやらないといけませんから
 自然とモノローグで多弁,自己陶酔的にならざるをえません。

 これはお笑いのコンビとピンの関係に似ています。
 コンビであれば,ボケとツッコミの役割分担ができます。

 ピンのばあい,ひとりでやらねばなりませんから
 解説がいらない際だった芸を見せる必要があります。

 ピン芸人は一発芸で当てて短期的には売れても
 長続きしないのはそこら辺に原因がありそう。

 以上,ピンが長続きしない原因に関する
 私の推理でした。

              ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳

2012年2月13日月曜日

『弁護士探偵物語 天使の分け前』 by.読書も好きな福岡の弁護士



 雨ですねぇ。
 一雨ごとに春めいてはきていますが。

 昨日は更新していません。
 のぞいてみてくれた方、すみません。

 さる団体の旅行で
 土曜から台湾に行ってました。

 そのご報告はまたのちほど
 ということで、本のつづき。

 きょうは法坂一広さんの『弁護士探偵物語 天使の分け前』
 (宝島社)。

 どこの書店でも平積みになっているので
 もうご存知でしょう。

 福岡県弁護士会の名簿を法坂一広、法坂一広…といいながら
 めくっていると、作者におもいあたります。

 それほど本名にちかいペンネームです。
 というか、巻末にも答えが載っています。

 うちわ褒めを警戒しつつも
 これはなかなかよくできていると思います。

 本文中でも明かされているとおりレイモンド・チャンドラーの
 私立探偵フィリップ・マーロウ・シリーズが下敷き。

 『さらば愛しき女よ』や『ロング・グッドバイ』など
 さいきんは村上春樹訳も出ているのでご存知の方もおおいでしょう。

 (もっとも清水俊二さんの訳と村上春樹さんのそれとではかなり
 世界がちがいます。だからこそ、新訳をする価値があるのでしょうが)

 シャーロック・ホームズなどと趣が異なり
 ハードなアクションも交えるためか、ハードボイルドものと呼ばれます。

 シャーロック・ホームズもののばあい、筋の読めないワトソンくんと
 対話しながら謎解きがすすみます。

 でもフィリップ・マーロウもののばあい、そんな「相棒」がいませんから
 対話がなく、どうしてもひとりでブツブツ言ってしまうことになります。

 すると客観的視点が弱くなり
 どうしても自己愛的世界がおおく語られることになります。

 またひとりで動きまわることになって
 あちこちに頭や体をぶつけます。

 その結果、相手から響いてくる音や反応をたよりに
 謎解きがすすむわけです。

 謎解きの手法が対話と異なり、対象に体ごとぶつかっていきますから
 話の展開がどうしてもハードボイルドにならざるをえません。

 というわけで『弁護士探偵物語』。弁護士ものではリアリティを欠く
 と考えたのか探偵ものをブレンド。

 薬師丸ひろ子さんの『探偵物語』を
 念頭においたわけではないようです。

 文体もレイモンド・チャンドラーを彷彿とさせます。
 これは立派。

 そもそも法律家の文章は読みづらい。『悪徳の栄え』事件のころから
 作家の先生がたからご批判をいただいているところです。

 これはやむを得ないところもあります。詩的な文体の文芸作品に対し
 二義的な解釈を排する文章を心がけているので。

 弁護士をやっていればいるだけ
 文章がスポイルされるわけです。
 
 そんななか、法坂さんの文章は先輩諸氏と異なり
 読みやすいと思います。

 最初のころこそ違和感をおぼえますが
 すぐに慣れ、作品世界にひきこまれます。

 法坂さんがよほどの天才でないかぎり、一行一行に
 相当の創意工夫が凝らされています。

 ですから1,470円の単行本も安いと思います。
 一読をどうぞ。

                ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳