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2023年5月23日火曜日

松山観光(3)円満寺、法厳寺、石手寺(51番札所)、湯築城

 





 松山二日目の観光をどうするか?考えていたら、ホテルの部屋に、松山市内観光用の地図があった。これに従って歩くことにした。

地図といっても、子どものころ書いた宝探しの地図のようなもの。ざっくりとした概念図。おおよその方向と位置関係が分かる程度。そのため何度か道を間違えて、ドラクエふうお遍路旅になった。

まずは道後温泉本館のすぐ裏にある円満寺。縁結びのご利益があるという大きなお地蔵さまが鎮座していた(1枚目の写真)。お地蔵さまは子どもを守ってくれるという。カラフルなお守りがたくさん奉納されていた。

そこからさらに坂を登ると、法厳寺。時宗の開祖、一遍上人の出身地であるという。時宗は念仏踊りで知られているが、盆踊りの起源らしい。寺内には句碑が並んでいた。松山はどこへ行っても句碑がある。

寺に至る階段では子規と漱石が語りあったらしい(2枚目の写真)。ほんとうだろうか。

寺のまえを南に登ると、きのうも参拝した伊佐爾波(いさにわ)神社。きょうも晴れて、松山市街の絶景が見渡せた。さすがパワースポット。

次は、四国遍路51番札所の石手寺を目指した。しかしここからが迷った。地図では湯月公園テニスコート前を遠ってまっすぐいけそう。しかし行き止まり。地元の人に何度も尋ねて、寺をたずねあてた。

途中、にきたづ会館というのがあった。額田王の歌にでてくる熟田津である。いまでは海岸線まで遠いが、むかしはここら辺まで海岸線が進入していたのであろうか。

石手寺(いしてじ)は関西テイストでディープな雰囲気だった。もちろん真言宗。ここもまたパワースポット。本堂の前には弘法大師がいつも握っておられる金剛杵がゴールドに輝いていた(3枚目の写真)。

ミシュランガイド(観光・日本編)で☆を獲得している。本堂奥にはマントラ洞窟があり、まさにドラクエ探検の雰囲気だった(礼を失していれば、すみません)。

参拝後はいったん道後温泉方面に戻る。そして、中世河野氏が君臨した湯築城史跡公園を散策(4枚目の写真)。

公園には、水辺の宝石といわれるカワセミを狙うカメラマンたちがたむろしていた。そのよこでは、道後温泉の開湯伝説に伝わるシラサギの子孫のそのまた親戚だろうか、アオサギも遊んでいた(5枚目の写真)。

2023年2月1日水曜日

一片の氷に世界を見る(4)

 

春風や闘志抱きて丘に立つ 高浜虚子

 顧問会社からお誘いを受け、春の社員旅行に同行させてもらう予定である。行き先は四国は愛媛松山。松山での訪問先について打合せに余念がない。

いま松山といえば、やはり夏井いつき先生にお目通りねがいたい。が、お忙しいようだから、正岡子規の記念館でも訪ねようかと思う。

子規は明治期、松山出身で、俳句の中興の祖である。芭蕉ののち俳句の世界は停滞していた。それを芭蕉に帰ることで刷新した。

時代は明治であるから自然科学の伸張著しく、俳句の世界でも自然主義が浸透しやすかったのだろう。つまりは「写生」「写実」。

子規は元来ホトトギスの意である。ホトトギスは口の中が赤い。子規は結核を患い、喀血していた。そこからの雅号である。覚悟と凄みが感じられる。

子規には二人の高弟がいた。高浜虚子と河東碧梧桐。子規を玉とすれば、飛車・角のような存在である。虚子と碧梧桐は非常に仲がよく、寝食をともにした。虚子が子規に師事して俳句を学んだのは碧梧桐の誘いによる。

ところが虚子は、碧梧桐のもと婚約者と結婚した。いまでいえば略奪愛。しかも碧梧桐が入院中に仲よくなったらしい。碧梧桐は、入院中に婚約者と友情を同時に失った。心痛いかばかりであったか。

そのせいかどうかは分からないが、二人は流派を違えるようになった。虚子は季語(季題)と五七五という詩形のしばりをどこまでも重んじた。これに対し、碧梧桐はこれらの拘束をきらい、自由な詩作を提唱するようになった。

略奪愛が原因であれば、虚子が自由を、碧梧桐が拘束を主張しそうなものだ。しかし俳句の世界では逆の立場になった。

虚子は、碧梧桐の新傾向俳句との対決を表明。つぎの句を詠んだ。

 春風や闘志抱きて丘に立つ 

そして『俳句の作りよう』(角川文庫)に、こう述べている。

 近来俳句についての拘束を打破してかかることを主張するものがありますが、・・・私は十七字、季題という拘束を喜んで俳句の天地におるものであります。この拘束あればこそに俳句の天地が存在するのであります。・・狭いはずの十七字の天地が案外狭くなくなって、仏者が芥子粒の中に三千大千世界を見出すようになるのであります。