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2023年5月24日水曜日

松山観光(4)お遍路旅、太山寺、圓明寺

 





 さて次は52番札所の太山寺をめざす。ホテルの地図で見ると、右下から左上まで斜めに移動するかんじである。道後温泉から10Km、歩けば2時間半の道のりである。集合時間のしばりがあるので、電車を利用した。

ホテルの地図でみると、太山寺の最寄りの駅は高浜駅である。道後温泉から市電(チンチン電車)で、松山市駅まで。そこから伊豫鉄道高浜線で、三津浜を経由して高浜駅まで。しかしこれは間違いだった。

高浜駅の駅員さんに太山寺までの道筋を訊く。びっくりした顔をして、ここからはいけませんという。あわててスマホで検索する。たしかに普通の道はない。途中、三津駅あたりで降り、北上すべきだったようだ。

三津駅まで戻ればよかったろうが、とにかく北東に見えている、あの小山の上にあるはずだ。試しにそこから北上してみる。途中、道標があり、山越えの道があることが分かった。それを行くことにする。

松山観光港ターミナルまで10分ほど。ここから広島方面へフェリーが出るようだ。昔は広島方面から船で渡ってきて、山越えで太山寺にお遍路していたようだ。ターミナル前に広がるミカン畑の脇の細い道を登っていく。

現代の車社会において、お遍路道は廃れてしまい、登山道のようになっていた。いや、もっとひどい。草も十分刈られておらず、荒れていた。途中何度も引き返そうかと迷いつつ登っていく。

稜線ふきんまで登ると、高浜駅方面からの道と出会った(やはり、どこかから道があったようだ。駅員さんが知らなかっただけ。)。そこからは、普通の山道になり、石仏やキツツキに迎えられた。

坂を下りていくと、太山寺の裏側にでた。やったー。

太山寺は四国お遍路の52番札所。本尊は十一面観音。本堂はなんと国宝(1枚目の写真)。このようなところで(失礼!)、国宝が拝めるとは思わなかった。鎌倉時代(1305年)の建立。堂内には7体の十一面観音がおわすというのだが、暗くて6体しか確認できない。

本堂正面の仁王門は重文(3枚目の写真)。その横には仏足石が。通常なら、一の門、二の門をくぐり、階段を登ってきてここに達する。きょうは裏から入ったので、紹介順が逆である。

そこからは車道を東北東へ2.5km歩く。約30分。53番札所の圓明寺は、太山寺とちがって、街中にある。本尊は阿弥陀如来。天井ちかく、左甚五郎作といわれる龍の彫り物が。

左手にあったキリシタン信仰に使われたというマリア観音とキリシタン灯籠が、目をひいた。

寺の近くにJR予讃線が通っており、帰りは伊予和気駅から乗車して松山駅に戻った(つまり、松山にはJRの松山駅と伊予鉄道の松山市駅がある。)。社内をさわやかな風が吹き抜けていった。

松山駅前には、大きな石に子規の句が刻まれていた(この句は『坂の上の雲』で紹介されていたと思う。)。

 春や昔十五万石の城下かな

※高校時代の恩師から、にきたづの「にき」は「熱」ではなく「熟」だよとご指摘いただいた。ありがとうございます。道後温泉→熱い田→熱田津と思い込んでいました。すみませぬ。

2023年5月23日火曜日

松山観光(3)円満寺、法厳寺、石手寺(51番札所)、湯築城

 





 松山二日目の観光をどうするか?考えていたら、ホテルの部屋に、松山市内観光用の地図があった。これに従って歩くことにした。

地図といっても、子どものころ書いた宝探しの地図のようなもの。ざっくりとした概念図。おおよその方向と位置関係が分かる程度。そのため何度か道を間違えて、ドラクエふうお遍路旅になった。

まずは道後温泉本館のすぐ裏にある円満寺。縁結びのご利益があるという大きなお地蔵さまが鎮座していた(1枚目の写真)。お地蔵さまは子どもを守ってくれるという。カラフルなお守りがたくさん奉納されていた。

そこからさらに坂を登ると、法厳寺。時宗の開祖、一遍上人の出身地であるという。時宗は念仏踊りで知られているが、盆踊りの起源らしい。寺内には句碑が並んでいた。松山はどこへ行っても句碑がある。

寺に至る階段では子規と漱石が語りあったらしい(2枚目の写真)。ほんとうだろうか。

寺のまえを南に登ると、きのうも参拝した伊佐爾波(いさにわ)神社。きょうも晴れて、松山市街の絶景が見渡せた。さすがパワースポット。

次は、四国遍路51番札所の石手寺を目指した。しかしここからが迷った。地図では湯月公園テニスコート前を遠ってまっすぐいけそう。しかし行き止まり。地元の人に何度も尋ねて、寺をたずねあてた。

途中、にきたづ会館というのがあった。額田王の歌にでてくる熟田津である。いまでは海岸線まで遠いが、むかしはここら辺まで海岸線が進入していたのであろうか。

石手寺(いしてじ)は関西テイストでディープな雰囲気だった。もちろん真言宗。ここもまたパワースポット。本堂の前には弘法大師がいつも握っておられる金剛杵がゴールドに輝いていた(3枚目の写真)。

ミシュランガイド(観光・日本編)で☆を獲得している。本堂奥にはマントラ洞窟があり、まさにドラクエ探検の雰囲気だった(礼を失していれば、すみません)。

参拝後はいったん道後温泉方面に戻る。そして、中世河野氏が君臨した湯築城史跡公園を散策(4枚目の写真)。

公園には、水辺の宝石といわれるカワセミを狙うカメラマンたちがたむろしていた。そのよこでは、道後温泉の開湯伝説に伝わるシラサギの子孫のそのまた親戚だろうか、アオサギも遊んでいた(5枚目の写真)。

2023年5月22日月曜日

松山観光(2)松山城、湯月城、子規記念博物館

 






 四国愛媛(伊予)の松山観光をつづける。道後温泉のあとは、ランチをはさんで、松山城へ。

現存12天守の一つ。平山城。1602年関ヶ原の戦いで戦功のあった加藤嘉明が築城。城の登り口のところには馬上の銅像がたっていた。

平山城といっても、標高131mの勝山の上に建っている。ロープウェイやリフトでも登ることができるが、もちろん歩いて登った。

城郭をぐるぐる回りながら登っていき、ようやく天守閣に達する(1枚目の写真)。松山市街がすべて見渡せる絶景(2枚目の写真)。さっきまで散策していた道後温泉街ものぞむことができる。その向こうには石鎚山も顔をのぞかせていた(3枚目の写真の左上)。

下城して、道後温泉街にあるホテルにチェックイン。宴会まではまだ時間があったので、ひとり抜け出して、松山市立子規記念博物館を訪れた。

松山城は近世の城である。中世の松山には、河野氏が築いた湯築城があった。その場所は道後温泉のすぐ隣である。現在、湯築城史跡公園として整備されている。その中に博物館はある。市立のわりには立派なハコ物である(4枚目の写真)。

正岡子規は松山の出身。明治時代、短歌、俳句などの分野で近代日本文学の革新運動を行った。松山を訪れた漱石とも交流している。

松山は日露戦争をたたかった秋山兄弟の出身地でもある。もちろん子規とも交流があった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に詳しい。再読していくつもりが、できなかった。なにせ長い。

子規とはホトトギスのこと。夏の季語。ちょうどいまの時期、四王寺山や宝満山で鳴いている。「特許許可局」や「テッペンカケタカ」と鳴いているというのであるが、「ホトトギスヨ」としか聞こえない。

「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞのこれる」の和歌があるとおり、鳴きつる方を眺めても声しか聞こえない。

子規は晩年、結核を患った。病状が進むと血を吐くことになる。ホトトギスは口のなかが赤い。そのため、血を吐きながら鳴いているといわれる。子規は、血を吐きながら歌や俳句を詠む自分をホトトギスになぞらえた。壮絶な名前である。

ここまでは知っていたけれども、晩年は脊椎カリエスも患い、激痛に苦しんでいたようだ。結核とカリエスの症状にくじけず、近代日本文学の革新運動にとりくんでいたのだから、やはり偉人である。

あまり知られていないが、子規は草創期の野球を楽しんだ。坊ちゃんカラクリ時計の脇にはバットを持った子規の銅像が花を愛でていた(5枚目の写真)。

2023年5月21日日曜日

松山観光@はるか社員旅行(1)

 




 

 顧問先企業の社員旅行にお誘いを受け、松山観光に同道した。

松山は5回目くらい。だけれども、いままでに行かなかったところも行けて楽しかった。

計画段階では陸路+船旅も考えられていたようだが、時間がかかるということで空路で。松山空港に着陸するや、あたり一面みかん推しである(1枚目の写真)。

貸切バスに乗り込んで、まずは伊佐爾波(いさにわ)神社へ。日本三大八幡社造の一つ。社殿によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。

仲哀天皇や神功皇后を祭神とする神社は北部九州にも多い。香椎宮や筥崎宮がそうだ。なぜだろう?

仲哀天皇と神功皇后の実在性は疑問視されている。しかし、神功皇后の事跡は斉明天皇のそれに似ている。

斉明天皇は、朝鮮半島で勃発した唐・新羅との戦で百済を救援するため九州まで来て、朝倉の地で没した。太宰府の観世音寺は天智天皇が斉明天皇を追悼するため建立したものである。

古事記が編纂されたのは、天智天皇の弟である天武天皇の時代である。国史を編纂するにあたり、昔のことは分からないとするより、斉明天皇の事跡を参考として神功皇后の事跡を創造したということはありうるだろう(というか、そのような説を聞いたことがある。)。

斉明天皇や中大兄皇子(天智天皇)は、いまのように飛行機でいきなり九州に来たのではない。船便である。途中、松山・道後温泉にも立ち寄り、風と潮を待っている。額田王の有名な歌はこのときの作とされている。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

熟田津とはいまの道後温泉あたり。湯が出て、田が熱くなっていたのだろう(と思っていたが、熱ではなく熟だった。熟田とはよく耕してある田の意味らしい。)。

神社の階段から下をのぞめば(2枚目の写真)、市電の道後温泉に停車中にチンチン電車が見える。あのあたりが道後温泉街だろう。

道後温泉本館は残念ながら改修中(3枚目の写真)。覆い屋がかけられていた。覆い屋の右側は石鎚山、左側はシラサギであろう。開湯伝説にシラサギが湯で傷を癒やしたとあるから。

道後温泉は日本三古湯(道後、有馬、白浜)の一つ(4枚目の写真)。万葉集にも詠まれている。二日市温泉も大伴旅人に詠まれているので、同格である。しかし、ちがいは夏目漱石だろうか。

夏目漱石は二日市温泉に新婚旅行に訪れている。しかし残念ながらそこを舞台に小説は書かなかった。松山では書いている。『ぼっちゃん』である(5枚目の写真。坊っちゃんカラクリ時計)。せっかく新婚旅行に来たのだから、短篇の一つでも書いて欲しかったな。

2023年2月1日水曜日

一片の氷に世界を見る(4)

 

春風や闘志抱きて丘に立つ 高浜虚子

 顧問会社からお誘いを受け、春の社員旅行に同行させてもらう予定である。行き先は四国は愛媛松山。松山での訪問先について打合せに余念がない。

いま松山といえば、やはり夏井いつき先生にお目通りねがいたい。が、お忙しいようだから、正岡子規の記念館でも訪ねようかと思う。

子規は明治期、松山出身で、俳句の中興の祖である。芭蕉ののち俳句の世界は停滞していた。それを芭蕉に帰ることで刷新した。

時代は明治であるから自然科学の伸張著しく、俳句の世界でも自然主義が浸透しやすかったのだろう。つまりは「写生」「写実」。

子規は元来ホトトギスの意である。ホトトギスは口の中が赤い。子規は結核を患い、喀血していた。そこからの雅号である。覚悟と凄みが感じられる。

子規には二人の高弟がいた。高浜虚子と河東碧梧桐。子規を玉とすれば、飛車・角のような存在である。虚子と碧梧桐は非常に仲がよく、寝食をともにした。虚子が子規に師事して俳句を学んだのは碧梧桐の誘いによる。

ところが虚子は、碧梧桐のもと婚約者と結婚した。いまでいえば略奪愛。しかも碧梧桐が入院中に仲よくなったらしい。碧梧桐は、入院中に婚約者と友情を同時に失った。心痛いかばかりであったか。

そのせいかどうかは分からないが、二人は流派を違えるようになった。虚子は季語(季題)と五七五という詩形のしばりをどこまでも重んじた。これに対し、碧梧桐はこれらの拘束をきらい、自由な詩作を提唱するようになった。

略奪愛が原因であれば、虚子が自由を、碧梧桐が拘束を主張しそうなものだ。しかし俳句の世界では逆の立場になった。

虚子は、碧梧桐の新傾向俳句との対決を表明。つぎの句を詠んだ。

 春風や闘志抱きて丘に立つ 

そして『俳句の作りよう』(角川文庫)に、こう述べている。

 近来俳句についての拘束を打破してかかることを主張するものがありますが、・・・私は十七字、季題という拘束を喜んで俳句の天地におるものであります。この拘束あればこそに俳句の天地が存在するのであります。・・狭いはずの十七字の天地が案外狭くなくなって、仏者が芥子粒の中に三千大千世界を見出すようになるのであります。