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2022年11月27日日曜日

松帆の浦・明石海峡

(松帆の浦) 

(絵島) 

(海峡越しに一ノ谷・須磨)


 (明石海峡と明石海峡大橋)
 
 旅の第1の目的地は大塚国際美術館、第2の目的地は松帆の浦。そう言われても知らない人がほとんどだろう。

 来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ 権中納言定家

これなら知る人も多いだろう。百人一首の代表歌。定家が撰者なので、よほどの自信作と思われる。そこで詠まれている松帆の浦へ一度行ってみたかった。

松帆の浦は淡路島の北端にあり、明石海峡をへだてて、本州の明石・舞子・須磨と接している。西には播磨灘をへだてて、小豆島の島影が見える。

定家の歌の本歌は『万葉集』の笠朝臣金村の歌。

 なき隅の船瀬ゆ見ゆる淡路島 松帆の浦に朝なぎに 玉藻刈りつつ夕なぎに
 藻塩焼きつつ海女少女 ありとは聞けど見に行かむ よしのなければ上部の
 情はなしに手弱女の 思ひたわみて徘徊り 我れはぞ恋ふる船梶を無み

本歌の主人公は明石側から淡路島の女を恋している。これをひっくり返して淡路島側から恋する乙女の立場で詠んだのが定家の歌。塩がじりじりと焼けるような情念・・。

定家には「三夕」の歌の一つとして名高いつぎの歌もある。浦の夕暮れは詩心をさそうようだ。

 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

松帆の浦から東へすこし行くと絵島がある。絵島というと大奥を思い浮かべるが、そうではなく月見の名所である。西行の歌碑がある。

 千鳥なく絵島の浦にすむ月を波にうつして見るこよいかな

西行と時代をおなじくする『平家物語』にも、「福原の新都におられる人々」が絵島で月見をした話がでてくる。

 やうやう秋も半ばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大将の昔の跡をしのびつつ、須磨より明石の浦づたひ、淡路の瀬戸をおし渡り、絵島が磯の月を見る。

絵島からは海峡越しに、一ノ谷や須磨あたりをのぞむことができる。写真の緑の部分が鉢伏山、その向こうが一ノ谷や須磨のあたりである。一ノ谷は源平合戦の激戦地。大手の戦いは神戸・生田神社のあたり。一ノ谷は搦め手側。義経が鵯越を越えて活躍したためか、敦盛最後など『平家物語』の悲劇が一ノ谷に集中したためか、一ノ谷の戦いと呼ばれる。

福原は源平合戦が勃発して平清盛が緊急避難して新都を築こうとしたところ。神戸の南部、大和田の泊があったあたりが予定地とされる。しかし不人気で途中で計画は放棄され、旧都に復したとされる。

源氏の大将の昔の跡をしのびつつとあるのは、ややこしい。『平家物語』にでてくる源氏ではなく、『源氏物語』にでてくる光源氏のこと。光源氏は一時失脚して、須磨に隠棲した。それが「須磨」の段、そこから「明石」の段を経て再起していく。

いくら紫式部が天才といっても、「須磨」や「明石」の段が彼女のイマジネーションだけで書けたわけではない。須磨や明石をめぐっては古今集などに多数の和歌が存在するほか、関連して故事も存在する。

なかでも有名なのは、在原行平の故事と歌である。行平は『伊勢物語』で有名な在原業平の兄。文徳天皇のときに須磨に蟄居を余儀なくされたという。 

 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ詫ぶと答えよ

『源氏物語』の「須磨」の段がこのエピソードを踏まえていることは、本文中に明らか。行平には百人一首にとられた次の歌もある。

 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む

これは必ずしも須磨の蟄居とは関係ない時の歌のようだが、惜別の内容から行平を悲劇の主人公とイメージさせる。業平ほどではないにせよ、女性にももてたことだろう。

謡曲の「松風」は、須磨を訪れた諸国一見の僧が、松風村雨という姉妹の亡霊に出会い、彼女らが行平に恋い焦がれる曲になっている。

淡路島、明石海峡、明石、須磨、神戸。風光明媚だという評価は、ここが日本一だろう。もともとの自然の美しさもさることながら、そのうえに積み重なった歴史や古典の美しさ。美しいイメージがつぎつぎに喚起される。みなさまも一度どうぞ。

2013年1月29日火曜日

スカイの車窓から(2)





左(西)側の島から上(北)側の陸まで
海峡をはさんで橋がかけられています。

○○島 かよふ千鳥の なく声に
       いく夜寝ざめぬ 須磨の関守
                         源兼昌

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
         焼くや藻塩の 身もこがれつつ
                         定家

海峡をはさんで,須磨の関は陸側
松帆の浦は島側にあります。




わが事務所の某弁護士が
育ったあたり。

湾につきだしている
構造物は当時ありませんでしたが。




むかし天保山,いまUSJ
あたりが見えています。

わびぬれば 今はたおなじ ○○なる
           みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
                         元良親王




あをによし ○○の宮は 咲く花の
       にほふがごとく いまさかりなり
                  小野老 

転勤族の小野老が
太宰府から都をしのんだもの。

この高さからだと
さすがに青丹は見えません。

が,路のかたちが
むかし都があったことを物語っています。 

2011年4月13日水曜日

 しのぶ草


 しのぶ草。別名、ノキシノブとも。
 木や岩などに着生するシダの仲間

 葉裏のぽつぽつは胞子嚢
 観世音寺・参道のクスに生えています。

   ももしきや 古き軒端の しのぶにも

            なほあまりある 昔なりけり

                       順徳院

 小倉百人一首の最後の歌
 しのぶ草がよく似合います。

 百人一首は、天智天皇の若々しい歌ではじまり
 懐古的な本歌で終わり。

   秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ

            わが衣手は 露にぬれつつ

                      天智天皇

 天智天皇(中大兄皇子)は、中臣鎌足らと謀り
 蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こしました(645年)。

 その後、様々な改革(大化の改新)を行ない
 天皇中心の政治をつくりあげていきました。

 そのような「理想的な天皇」が
 農民の生活を慈悲深く歌った和歌が、百人一首の最初の歌です。
  
 なお、天智天皇は、百済をたすけるために
 母・斉明天皇とともに、筑紫の地に来ています。
 
 斉明天皇は、朝倉付近で亡くなりました。
 その冥福を祈るために、天智天皇が創建したのが観世音寺です。

 これに対し、順徳院(1197~1242)は、後鳥羽上皇の第三皇子
 承久の乱にやぶれて佐渡に流され、島で世を去りました。

 承久の乱は、鎌倉幕府の成立後、鳥羽上皇らが
 武家から政権を奪回しようとしておこした戦い(1221)。

 乱の結果、武家の優勢=公家の没落が決定的に
 かくて御所にも、しのぶ草が。

 こうして百人一首は、和歌のアンソロジーとしてだけでなく
 歴史書としても読めるわけです。

 百人一首がこのような構成になっているのも
 選者の定家が鎌倉時代初期という歴史の転換期に生きたから。

 定家がすぐれた歌人であったことは事実でしょうが
 歴史が定家をつくったことも否定できないところでしょう。

 順徳院は、定家の和歌の弟子でしたが
 承久の乱後は、政治的犯罪人。

 表向きは、その和歌をとりあげることができません。
 鎌倉幕府に叱られるので。

 百人一首は、公的な歌集ではなく
 私的なアンソロジーなので、順徳院を採ることができました。

 いまでいえば、小沢チルドレンが
 小沢さんを擁護する発言をするようなものでしょうか。

 当の小沢さんがいまも自由に発言できるのも
 武力ではなく言論で勝負する民主主義社会ならではです。