2017年12月12日火曜日
小倉山,小倉百人一首と藤原定家
(嵯峨野・常寂光寺の紅葉)
嵯峨野の紅葉狩りのクライマックスは,やはり小倉山でしょう。
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
今ひとたびの みゆき待たなむ
貞信公
という,あの絢爛豪華な歌にでてくる小倉山です。貞信公というのは藤原忠平。われわれ太宰府の人間にとっては菅原道真の政敵として有名な時平の弟です。
小倉山は,小倉百人一首でも有名です。藤原定家が小倉山の小倉山荘で百首を選んだので,小倉百人一首です。
甘味で有名な小倉あんも,小倉山あたりでとれた大納言という種類の小豆がおいしいことから名づけられたようです。
小倉山の山麓には,常寂光寺と二尊院という2寺があり,いずれ劣らぬ紅葉の名所です。そこでいただく甘味とお抹茶は最高です。
2013年4月2日火曜日
久方の光のどけき春の日に
みなさま
花見はおすみですか?
ことしの花見は
いかがでしたか?
福岡での花見の時期はすでにすぎ
残った花もはらはらと散り敷いていってますね。
うちの事務所では
先週の火曜が花見でした。
昼休みに
裏山の二日市公園で。
もう恒例で
なん年もやっています。
フェイスブックで報告したら
OGの方々も懐かしんでいました。
単発的な行事は忘れても
恒例の行事はやはり覚えているものでしょう。
みなさまの職場や家庭にも
恒例でやってますか?
さて,花見をしながら詠んだ和歌を一首
といいたいところですが,できません。
代わりに,小倉百人一首にある
桜の歌をご紹介しましょう。
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
小野小町
久方の 光のどけき 春の日に
しづこころなく 花の散るらむ
紀友則
いにしえの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな
伊勢大輔
もろともに あはれとも思え 山桜
花よりほかに 知る人もなし
大僧正行尊
高砂の 尾上の桜 咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ
前中納言匡房
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
ふりゆくものは わが身なりけり
入道前太政大臣
以上6首
のようです。
花見はいにしえの奈良の都のころよりの
恒例行事だったようで。
うち半分は,散りゆく桜に
わが身を重ねたもの。
そのような花見こそが意外と
通の見方なのかもしれません。
そうだとすると,花見の本番は
「いまでしょ!」。(なのか?)
2012年11月5日月曜日
小式部内侍と大江山・酒呑童子と頼光と。
和泉式部の娘が
小式部内侍(こしきぶのないし)。
母とおなじく恋多き女流歌人
藤原教道,藤原定頼らお歴々と浮き名をながしています。
それだれ?というかたも
小倉百人一首のこの歌はご存知でせう。
大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天の橋立
(大江山を越えて、生野へも行ったことがないで
まだ天橋立へ行ったこともありませんし,手紙も見てません)
この歌の当時,和泉式部の評判は確立していたもの
小式部内侍は母に代作を依頼しているとのウワサが。
小式部は歌合せで,歌をつくらねばならなかったとき
母の和泉式部は夫の任地・天の橋立(丹後)に。
そこで,藤原定頼が「母上から代作の使者が来ましたか?」
とからかったところ,切り返しの返事がこの歌。
この巧みな切り返しに
定頼は返歌もできないほど驚き,恥をかいたとか。
ところで,ここに出てくる大江山は
あの酒呑童子がでてくる大江山のことです。
外からの穢れから平安京をまもる堺とされ
ふるくから盗賊の住処でした。
そこに酒呑童子という鬼の頭領がいるということで
これを退治したのが源頼光。
さきにみにいった
『御伽草子』でも有名な話です。
小式部内侍と源頼光は同時代人。なので
当時の大江山はそうとう怖いところだったでせう。
…というわけでもなく,先週土曜日は
唐津くんちに行ってきました。
写真は11番山
「酒呑童子と源頼光の兜」。
頼光らが酒呑童子の首をはねたところ
首は宙をとんで,頼光の兜にかぶりついたという。
頼光はやはり藤原道長の側近で
道長の権勢の伸長とともに名声を広めたらしい。
そういう意味では
文の紫式部,和泉式部にたいする武の頼光といえそう。
かれの酒呑童子を退治したエピソードなども
そうした名声の尾ひれなのでしょう。
2011年4月13日水曜日
しのぶ草
しのぶ草。別名、ノキシノブとも。
木や岩などに着生するシダの仲間
葉裏のぽつぽつは胞子嚢
観世音寺・参道のクスに生えています。
ももしきや 古き軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり
順徳院
小倉百人一首の最後の歌
しのぶ草がよく似合います。
百人一首は、天智天皇の若々しい歌ではじまり
懐古的な本歌で終わり。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
わが衣手は 露にぬれつつ
天智天皇
天智天皇(中大兄皇子)は、中臣鎌足らと謀り
蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こしました(645年)。
その後、様々な改革(大化の改新)を行ない
天皇中心の政治をつくりあげていきました。
そのような「理想的な天皇」が
農民の生活を慈悲深く歌った和歌が、百人一首の最初の歌です。
なお、天智天皇は、百済をたすけるために
母・斉明天皇とともに、筑紫の地に来ています。
斉明天皇は、朝倉付近で亡くなりました。
その冥福を祈るために、天智天皇が創建したのが観世音寺です。
これに対し、順徳院(1197~1242)は、後鳥羽上皇の第三皇子
承久の乱にやぶれて佐渡に流され、島で世を去りました。
承久の乱は、鎌倉幕府の成立後、鳥羽上皇らが
武家から政権を奪回しようとしておこした戦い(1221)。
乱の結果、武家の優勢=公家の没落が決定的に
かくて御所にも、しのぶ草が。
こうして百人一首は、和歌のアンソロジーとしてだけでなく
歴史書としても読めるわけです。
百人一首がこのような構成になっているのも
選者の定家が鎌倉時代初期という歴史の転換期に生きたから。
定家がすぐれた歌人であったことは事実でしょうが
歴史が定家をつくったことも否定できないところでしょう。
順徳院は、定家の和歌の弟子でしたが
承久の乱後は、政治的犯罪人。
表向きは、その和歌をとりあげることができません。
鎌倉幕府に叱られるので。
百人一首は、公的な歌集ではなく
私的なアンソロジーなので、順徳院を採ることができました。
いまでいえば、小沢チルドレンが
小沢さんを擁護する発言をするようなものでしょうか。
当の小沢さんがいまも自由に発言できるのも
武力ではなく言論で勝負する民主主義社会ならではです。
2011年3月6日日曜日
雨のなか、曲水の宴
3月5日(日)太宰府天満宮で曲水の宴でした。
太宰府ロータリークラブで在福の留学生をご招待する行事として
われわれも参加しました。
国際交流をはかる趣旨で、アジアはもちろん
カナダ、ベルギー、メキシコなどの留学生も参加されました。
宴は毎年、梅花さきほこる曲水の庭でおこなわれます。
庭には小川がつくられていて、流れてくる盃が通りすぎないうちに
詩歌をつくり盃を戴く雅な祭事。
起源は中国「秦」時代とされ、清らかな水の流れに盃を流して
禊祓(けがれをはらう)の儀式として行われたのが始まりだとか。
和歌のみならず、舞、雅楽、琴、朗詠など
和風文化の総合芸術の趣があります。
今年はあいにくの雨にたたられ、文書館にて催行。
室内でおこなうのは48年の歴史ではじめてだとか。
1700年前に起源をもつ行事ながら
歴史のなかでの変容もあります。
姫役はかつてはミス福岡がされていましたが
男女共同参画社会のいまは親善大使と名を変えています。
気になるのは歌の出来栄え
その場でつくっているのでしょうか?
小倉百人一首のなかの赤染衛門の和歌
やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて
かたぶくまでの 月を見しかな
赤染衛門の姉妹のもとに通っていた藤原道隆(中宮定子の父)
が訪れなかったため代作した歌とされています。
平安時代から代作OKの世界なら
現代日本でも推して知るべきでしょうか?
京大入試の代作問題の行方が気になるところです。
登録:
投稿 (Atom)
