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2021年8月5日木曜日

市振の関ー遊女との別れ


(市振から、親知らず子知らずを望む)
 

(いちぶりの関跡)



 今日は親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れはべれば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面のかたに、若き女の声、ふたりばかり聞こゆ、年老いたる男の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、この関まで男の送りて、明日は故郷に返す文したためて、はかなき言伝などしやるなり。白波の寄する汀に身をはふらかし、海士のこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因いかにつたなしと、物いふを聞く寝入りて、
  朝旅立つに、われわれに向かひて、「行方知らぬ旅路の憂さ、あまりおぼつかなう悲しくはべれば、見え隠れにも御跡を慕ひはべらん。衣の上の御情けに大慈の恵みを垂れて、結縁させたまへ」と涙を落とす。不便のことにははべれども、「われわれは所々にてとどまるかた多し。ただ人の行くにまかせて行くべし。神明の加護、必ず恙なかるべし」と言ひ捨てて出でつつ、あはれさしばらくやまざりけらし。

 一つ家に遊女も寝たり萩と月

曾良に語れば、書きとどめはべる。

 おくのほそ道が歌仙の構造を俤にしているとすれば、市振の関は、名残りの折りの表と裏の境。これから起承転結の転から結へ。テーマは宇宙から別れへ。

親知らず子知らずは、北アルプス(飛騨山脈)の北端であり、峻険な山が海に突き出ています。そのため平地がなく、街道が海の際を通っています。日本海の荒い波のあいまをぬって、通過しなければなりません。ときには子どもが大波にさらわれたこともあったといいます。それが名称の由来です。古くから交通の難所として恐れられていました。

親知らずは、地形的に軍事的な要衝でもあり、承久の乱でも激戦がたたかわれました(朝廷軍の敗北)。隠岐にながされる途中、順徳院はそのことに思いをはせたのでしょうか。

子が波にさらわれて親子が離別してしまうという親知らず子知らずは、おくのほそ道のテーマが宇宙から別れへ変わることを告げるには絶好の名前です。

そういえば、一つ前の直江津も、森鴎外の『山椒大夫』の舞台として知られていました。これも、母子が人さらいにより引き裂かれる話でした。すでに別れのモチーフは、文月はの句のなかに潜んでいたわけです。

親知らず子知らずは、北アルプスの北端ですが、「糸魚川静岡構造線」の北端でもあります(その東側がいわゆるフォッサマグナ)。ここに西南日本と東北日本との地学上の境もあります。ひょっこりひょうたん島のように、西南日本と東北日本が別々のところから流れてきて、ここで合体し日本列島が誕生したわけです。

市振へは「あいの風とやま鉄道」で向かいます。糸魚川からだと20分弱、富山からだと1時間半の行程です。

市振で、芭蕉は艶っぽい体験をしています。遊女から同道を求められたのです。でも芭蕉はこれを断っています。求道の妨げになると考えたのでしょう。そんなぁ、いっしょに行ってやればよいのに・・・。別れのテーマのエピソード・ワンです。

芭蕉が色恋を話題にすることに違和感をおぼえる人もいるかもしれません。ですが芭蕉はこのとき46歳。まだまだ恋や愛を語れる歳でしょう。

それに連句(歌仙)には、すでに紹介した初折れの表・裏、名残りトランプや将棋のように細かいルール(式目)があって、きまったあたりで月や恋に関する句を詠まなければなりません。市振の段は、歌仙でいう「恋の座」なのです。

もちろん、遊女が萩で芭蕉が月だとか、そうじゃないとか、いろいろな鑑賞があります。萩の花言葉は「思案」です。

結びに「曾良に語れば、書きとどめはべる」とありますが、曾良の随行日記にはその記述はありません。ここから、このエピソードじたいが芭蕉の創作であるといわれています。

芭蕉がここで遊女を登場させたわけは能の『山姥』にあるのではないでしょうか。市振の関のすこし西側に境川が流れているからです。

「山姥の山廻り」という曲舞をうまく演じて人気を博した都の遊女が善光寺詣でを思い立ちました。境川から山越えをしようとしたところ日が暮れてしまいました。宿を貸そうという女があらわれたのですが、実はそれがほんものの山姥でした。山姥は境涯を語り舞っていずこかへ消えていったのでした。

もちろん境川の名前の由来は越後と越中の境を流れる川だからですが、この曲では現世と異界との境でもあったのでした。

おくのほそ道の場面転換を行ううえで、市振の関以上の舞台はありません。

2011年4月13日水曜日

 しのぶ草


 しのぶ草。別名、ノキシノブとも。
 木や岩などに着生するシダの仲間

 葉裏のぽつぽつは胞子嚢
 観世音寺・参道のクスに生えています。

   ももしきや 古き軒端の しのぶにも

            なほあまりある 昔なりけり

                       順徳院

 小倉百人一首の最後の歌
 しのぶ草がよく似合います。

 百人一首は、天智天皇の若々しい歌ではじまり
 懐古的な本歌で終わり。

   秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ

            わが衣手は 露にぬれつつ

                      天智天皇

 天智天皇(中大兄皇子)は、中臣鎌足らと謀り
 蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こしました(645年)。

 その後、様々な改革(大化の改新)を行ない
 天皇中心の政治をつくりあげていきました。

 そのような「理想的な天皇」が
 農民の生活を慈悲深く歌った和歌が、百人一首の最初の歌です。
  
 なお、天智天皇は、百済をたすけるために
 母・斉明天皇とともに、筑紫の地に来ています。
 
 斉明天皇は、朝倉付近で亡くなりました。
 その冥福を祈るために、天智天皇が創建したのが観世音寺です。

 これに対し、順徳院(1197~1242)は、後鳥羽上皇の第三皇子
 承久の乱にやぶれて佐渡に流され、島で世を去りました。

 承久の乱は、鎌倉幕府の成立後、鳥羽上皇らが
 武家から政権を奪回しようとしておこした戦い(1221)。

 乱の結果、武家の優勢=公家の没落が決定的に
 かくて御所にも、しのぶ草が。

 こうして百人一首は、和歌のアンソロジーとしてだけでなく
 歴史書としても読めるわけです。

 百人一首がこのような構成になっているのも
 選者の定家が鎌倉時代初期という歴史の転換期に生きたから。

 定家がすぐれた歌人であったことは事実でしょうが
 歴史が定家をつくったことも否定できないところでしょう。

 順徳院は、定家の和歌の弟子でしたが
 承久の乱後は、政治的犯罪人。

 表向きは、その和歌をとりあげることができません。
 鎌倉幕府に叱られるので。

 百人一首は、公的な歌集ではなく
 私的なアンソロジーなので、順徳院を採ることができました。

 いまでいえば、小沢チルドレンが
 小沢さんを擁護する発言をするようなものでしょうか。

 当の小沢さんがいまも自由に発言できるのも
 武力ではなく言論で勝負する民主主義社会ならではです。