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2023年9月12日火曜日

足利尊氏と九州(2)少弐と菊池と合戦の事

 

 『太平記』第15巻のつづき。少弐と菊池と合戦の事。
 
 菊池武俊は、元来宮方にて肥後国にありけるが、少弐が将軍方へ参る由を聞いて、路にて打つ散らさんと思ひければ、その勢3千余騎にて、水木の渡へぞ向かひける。少弐太郎は知らずして、小舟七艘に込み乗り、わが身は先づ向かひの岸に着きにけり。

※後醍醐天皇=建武の新政の側が宮方。新政から離反して都から追い落とされた足利尊氏の側が将軍方。尊氏の新政からの離反を元弘の乱という。九州では肥後もっこすの菊池武敏が宮方に、大宰府の少弐が将軍方についた。

※肥後もっこすは、熊本県人の頑固な性格をあらわす言葉。津軽じょっぱり、土佐いごっそうとともに、日本三大頑固の一つ。われわれの業界にもいる。議論で説得できないので、弁護士辞めろといいたくなる。

※水木の渡は、水城の渡。いまの水城と御笠川が交差するあたりにあったと思われる。水城堤防はいまよりしっかりしていたことだろう。御笠川の水量からして舟が必要とも思えないが、むかしはもっと水量があったのかもしれない。

※少弐太郎は頼尚。菊池や宗像との位置関係からして、左岸(西側)から右岸(東側)へ御笠川を渡ったのだろう(有智山城との関係は問題だけれども、有智山城→いまの竈門神社あたり→天満宮あたり→御笠川左岸を水城あたりまで進軍したのだろう。)。水城の辺は地元なのに、3千騎の敵勢に気づかなかったとはうかつ。

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5184991,130.4940361,17.04z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu

 阿瀬籠(あぜくら)豊前守は、未だこの方にひかへて、渡船の差しもどす程を待ちける処へ、菊池が兵3千騎、三方より押し寄せて、川中へ追つばめんとす。阿瀬籠が150騎、とても遁れぬ所なり、引かばいづくまで遁るべきと、一途に思ひ定めて、菊池が大勢の中へ懸け入って、一人も残らず討たれにけり。

 少弐太郎は、川の向かひにてこれを見けれども、大河を中に隔てて、舟ならでは渡すべき便りなければ、徒らに、憑み切ったる一族郎等どもの、敵に取り籠められて討たるるを見捨てて、将軍の方へぞ参りける。

※阿瀬籠は少弐の家来なのだろうけれども、阿=岸と瀬で取り籠められた武将という意味なので、『太平記』の作者の創作名かもしれない。太宰府へんで「あぜくら」という名は聞かないし。「この方」とは先に述べたとおり、西側の岸辺か。

※御笠川が少なくとも現在、「大河」とはいえないことは先に述べたとおり。家来を見殺しにした弁解として、頼尚が尊氏に述べた方便だろう。

※尊氏は宗堅大宮司の館にいたはずなので、頼尚は水城から宗像大社の辺までほうほうのていで逃げたのだろう。

  (引用はやはり岩波文庫から。)

2021年11月18日木曜日

観世音寺の紅葉写真撮影会

 

 
 事務所の写真撮影会でハラハラドキドキしたあとは、太宰府の観世音寺で紅葉を鑑賞して心を静めよう。今週末は見ごろだろう。

観世音寺は源氏物語にも出てくる古刹。天智天皇(中大兄皇子)が母斉明天皇の追善のために発願し、開基となっている。

日本史にあかるい人はなるほどねという話だけれども、くらい人のためにすこし解説しておこう。

斉明天皇の時代、国際情勢は緊迫し、朝鮮半島では、唐と新羅の連合軍により百済が滅ぼされた。たとえていうなら朝鮮戦争のときに、中国と北朝鮮の連合軍に韓国が滅ぼされたような状況だったわけである。

百済を援助するため、斉明天皇は、難波から瀬戸内海を西に渡った。その際、四国松山は道後温泉の近くで、同行した額田王が詠んだのが次の歌だ。

 熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

そういえば、今夕は月食だ。月食観察せむと月待とう。

松山を漕ぎ出でた斉明天皇は、九州に上陸。筑紫の朝倉宮に遷幸し、戦争を指揮しようとした。奈良から指揮していたのでは勝てる戦争も勝てないので、前線にちかい朝倉から指揮しようとしたのである。しかし、遠征軍を送り出すまえに、同所で崩御。

このため、天智天皇は斉明天皇の追善のため、筑紫の地で、観世音寺を発願したのである。

跡を継いだ天智天皇は、軍を発したものの、朝鮮半島南部で白村江の戦いに敗れた。唐・新羅連合軍の日本本土への侵攻をおそれてつくられたのが、大野城と水城である。

つまり、太宰府の名所である、大野城、水城とともに観世音寺をつくったのは天智天皇である。太宰府観光協会としては足を向けて寝られない。

創建当時は大きな寺だったけれども、度重なる火災で寺容は縮小し、いまは本堂や金堂などを残すのみである。仏像はたくさん残されており、宝蔵は忘れずに立ち寄りたい。観世音寺というだけに、観音さまがいっぱいだ。

ここは京都の観光寺院のように人混みもなく、静かに紅葉を観賞できる。お奨めのスポットである。誰にも邪魔されず、写真撮影会を開こう。

2011年7月13日水曜日

 宝満山の風景



 きのうのつづきです。山頂から北西に
 宇美町・志免町方面、博多湾を臨んでいます。

 博多湾の中央に浮かんでいるのが志賀島
 その右側に延びているのが海の中道。

 志賀島の左奥に浮かんでいるのが玄海島
 左手前が能古島。

 その奥は糸島方面が
 見えています。

 左下の屋根は竈門神社の上宮
 屋根から中央部にかけての緑の固まりが四王寺山(大野城)です。

 四王寺山の向こう側が春日市、福岡市
 拡大すると、志賀島と能古島の下あたりに空港が見えています。

 その左側にはさらに、福岡タワー、ドーム、シーホークなども
 見えています。わかりますか?

 歴史で習ったとおり、大野城・水城が築かれたのは
 白村江の戦い(663)に日本が敗れてから。

 太宰府側の防衛線として水城が築かれたというけれども
 粕屋・宇美側の防衛線はどうなってたんだろうと思います。

 平安時代、最澄が渡唐する(804)まえにも
 宝満山にこもって修行をしたといいます。

 彼らもおなじ風景をみたのでしょうか。