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2023年12月10日日曜日

マジカルミステリーツアー(4)

 



 最終日はまたまた強風雨となった。さてどうしよう。やはり芭蕉の足跡をたどろうか。そうだ、甲冑堂へ行こう!だが、甲冑堂は『おくのほそ道』にはでてこない。なぜか。

実は芭蕉の足跡には2種類ある。一つはもちろん『おくのほそ道』に記された足跡である。もう一つは芭蕉に随行した曽良が書いた『曽良旅日記』に記された足跡である。

『曽良旅日記』は長らく行方がしれなかった。それが1943年(昭和18年)に再発見された。その後、重要文化財となっている。

2人旅であるから、両者の足跡は一致しているはず。だが、実は一致していないところがある。どちらの記載が実際の足跡だろうか。

刑事訴訟では、反対尋問を経ない証拠は、いわゆる伝聞証拠であるとして受け入れられない。しかし、いくつかの例外がある。その一つ。商業帳簿、航海日誌その他業務の通常の過程にいて作成された書面は、例外とされている。

『曽良旅日記』は、その内容・体裁からここでいう航海日誌に近いものである。それゆえ、実際の足跡どおり忠実に記載がなされているものと思われる(曽良が幕府の隠密であり、そうとはかぎらないという点は別論である。)。

そこから、『おくのほそ道』の創作性が明らかとなった。『おくのほそ道』を読むと、一見、紀行文ふうに書かれているので、それまではみな、実際の足跡に忠実に書かれていると思い込んでいた。

ところが、実際の足跡により忠実な『曽良旅日記』が発見され、それと比較することが可能となった。その結果、『おくのほそ道』が創作物であること、すなわちその「文学」性が明らかとなったのである。

両者が一致しないところの一つが飯塚の里と笠島のくだり。まず、『おくのほそ道』。

(飯塚)
 ・・・またからはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。

(鐙摺・白石)
 鐙摺・白石の白を過ぎ、・・・。

つぎに、『曽良旅日記』。

(飯塚)
・・・佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門へ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。・・・

(鐙摺・白石)
・・・万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコハシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ、次信・忠信が妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。

現地に行けば、どちらが実物に即しているかは明白。いまでも『曽良旅日記』に書かれたとおりである。『おくのほそ道』は現地の実情に即してはいない。

飯塚の里は、佐藤庄司が治めていた。かれは奥州藤原氏の被官である。源頼朝に攻められて、奥州藤原氏とともに滅亡した。

かれの息子2人が次信と忠信である。ふたりとも源義経の忠臣であり、『平家物語』をはじめ、歌舞伎でも活躍する。

「ふたりの嫁」は次信と忠信の嫁のこと。次信と忠信の無事な帰還をまちわびる義母(つまり佐藤庄司の妻)のため、甲冑を着て無事の帰還を演じ義母を慰めたという。

飯塚の里に医王寺がある。医王寺には佐藤庄司夫婦の石塔や兄弟の石塔はあるけれど、「ふたりの嫁のしるし」は存在しない。

「ふたりの嫁のしるし」があったのは、鐙壊し(鐙摺)の先にある甲冑堂である。芭蕉は両者を融合させ、文章を引き締めたものと思われる。

こうして甲冑堂は『おくのほそ道』にそれとして記述されなかったが、そこで「ふたりの嫁のしるし」は拝見することができる。

・・・ことになっている。この日、甲冑堂を訪れたところ、強風雨のため閉鎖されていた。しかしあきらめきれない。

強風雨のなか、JR越河駅から道に迷いつつ、歩いてようやくここまで辿り着いたのである。

神主さんのご自宅を訪ね、玄関で声をかけた。80歳くらいの年輩のご夫人があらわれた。きょうは強風雨のため、甲冑堂の開張はできないという。

そこをなんとか、福岡から来たんです!と食い下がったところ、ご夫人は義経のこと、芭蕉のこと、甲冑堂のこと、これまで訪ねてきた客のこと、維持管理がたいへんなこと、行政が冷たいことなど延々と30分以上語りに語った。

こっ、これはいかん。ご開張に代えて、その埋め合わせに「語り」で済ませるおつもりではあるまいか。それはそれでとても面白い「語り」ではあったが、それでは証拠写真がとれないではないか。

玄関先をみると、お守りや甲冑堂の来歴をしらせる資料等が販売されていた。これください!ついでに拝観料もお支払いします!

これにご夫人は負けたという表情を浮かべられた。やった!かくて甲冑堂前のたたかいに勝利し、ふたりの嫁に対面することがかなったのであった。めでたし、めでたし。

2021年6月21日月曜日

忠義を貫かないで名を残した、武藤資頼

  (武藤資頼、資能親子の墓)
(手前が平知盛、奥が義経@壇ノ浦)
 
  松島の月が心にかかりますが、和泉三郎の関連で、対照的な生き方をした福岡の武将を2人紹介して先にすすみたいと思います。ひとりは武藤資頼、もうひとりは高橋紹運です。

武藤資頼は、はじめ関東の武士で平知盛の武将でした。知盛は、平清盛の四男。武蔵守を8年やっているので、そのときに主従関係ができたのでしょう。

資頼は、源平の戦いで、平家の側で戦いました。しかし、一ノ谷の戦いで平家が敗れた際、源氏の梶原景時を頼って投降しました。景時は、資頼の知人だったからです。

たまたま源平にわかれましたが、関東の武将はみな知りあいだったのかもしれません。いまでいえば、プロ野球の選手がそれぞれライバル球団に所属していても、夜はおなじところで飲んでいるようなものでしょうか。

一ノ谷の敗戦後、知盛は、関門海峡にある彦島で善戦したものの、壇ノ浦の戦いに敗れました。最後は「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と名ゼリフを吐いています。

高齢者にアンケートすると、「もっと挑戦すればよかった」と後悔しているそうです。知盛はわずか34歳で壮絶な最期をとげていますが、最期の言葉はこうありたいものです。

他方、投降した資頼は、景時が頼朝の寵臣であったこともあり、頼朝の御家人になりました。頼朝が奥州藤原氏をほろぼした戦を奥州合戦といいますが、資頼は奥州合戦で手柄をたてました。

資頼は、そうしたことが評価され、のちに九州に派遣され、鎮西奉行に就き、さらに肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護になっています。

平家政権の時代には原田種直の所領だった3700町歩はすべて資頼の所領になりました。太宰府で武藤、原田はいまもなお名族ですが、むかしはプチ源平合戦で、仲が悪かったのではないでしょうか。

資頼は、さらに、大宰小弐に任じられました。大栄達です。資頼の子、資能は小弐の位を継承しました。資能は、文永・弘安の役(元寇)の際、奮戦しています。

資頼と資能は親子なのに、一方は平安時代末、他方は鎌倉時代末に活躍しています。一瞬あれれと思います。でも鎌倉時代って意外と短かったんですね。資能が高齢者ながら奮戦したこともあります。

彼らの武功によるものでしょう、小弐の職は武藤家が代々世襲することになりました。子孫は官職名であったはずの小弐を名乗り、小弐氏として北九州の名族となりました。

博多駅の北、地下鉄祇園駅から東に行くと承天寺があります。資頼が円爾を招聘して創建しました。資頼の位牌と塑像が開山堂に安置されています。

和泉三郎と異なり、知盛に最後まで忠義を尽くさず、頼朝にしたがった資頼ですが、その子孫は繁栄し名族になっています。「人よく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれに従う」といえないことも、たまにはあるようです。

太宰府・観世音寺の裏山に、資頼の墓と伝えられる五輪塔があります(写真左)。隣の宝筺印塔は子の資能の墓とされています(写真右)。いちど訪れて、歴史に思いをはせてはいかがでしょう。

2021年5月30日日曜日

源義経主従と奥州藤原氏の鎮魂(2)

 

 源義経主従と奥州藤原氏なのですが、源義経、弁慶、佐藤兄弟、藤原清衡、藤原忠衡(和泉三郎)及び十郎権頭兼房らが登場人物になります。

主役の義経はご存知でしょう。平治の乱で敗れた源義朝の九男(九郎判官と呼ばれます。)、本来なら切られてしまうところ助命されて、鞍馬寺に預けられました。

一の谷の戦いをはじめ、身ごなしが軽く軍事的天才だったことから、鞍馬の天狗に武術を習ったとされています(鞍馬天狗もさぞや鼻が高かったことでしょう。)。

弁慶が配下になったのは、京の五条の橋の上。唱歌・牛若丸にあるとおり。

♪京の五条の橋の上
 大のおとこの弁慶は
 長い薙刀ふりあげて
 牛若めがけて切りかかる・・・

太宰府にも五条小橋がありますが、薙刀をふりあげるには狭いようです。

義経は長じて奥州に下り、奥州藤原氏三代目・清衡の庇護を受けました。そして関東で兄・頼朝が旗揚げするやはせ参じ、以後、頼朝軍の先頭にたって戦闘を戦いました。

一の谷、屋島、壇之浦の戦いで連戦連勝、平家を滅ぼします。下の写真は、関門海峡・壇之浦での八艘飛びの様子。

戦勝の最大の功労者だったものの、戦後、頼朝の了解を受けずに官位を受けるなど政治音痴だったために頼朝に追われることに。ロレンスの末路とおなじです。

義経主従が落ち延びる様子は、能や歌舞伎の題材に好んで取り上げられています。義経千本桜、船弁慶、安宅など。

なぜでしょう。新田次郎の小説でも、武田信玄の上昇話より武田勝頼の没落話のほうが人間ドラマとして面白いんです。

義経がふたたび頼ってきたことから、奥州藤原氏も頼朝に滅ぼされる運命の渦に巻き込まれてしまいます。こうして義経主従、奥州藤原氏の悲劇の幕が切って降ろされます。

頼朝にとって義経はほんとうに利用しがいのある駒になりました。平家打倒の際には最大の貢献をしてくれましたし、打倒後は武家政権を確立する口実を与えてくれたうえ、金や馬など莫大な財産をもっていた奥州を手に入れる口実まで与えてくれたのですから。

当時から、庶民はこれはひどい、あんまりじゃないかと思ったわけです。そして義経はつよい恨みを残して死んだにちがいないと思いました。頼朝や武家のまわりでなにか事故があると、義経の怨恨にちがいないと・・・。こうして誰かが義経らの鎮魂をすることが必要になるんですねぇ。

2021年5月27日木曜日

源義経主従と奥州藤原氏の鎮魂(1)

 

 ちくし句会では、トミーが苦吟しているようです。でも心配ありません。芭蕉だってそう簡単に作句していたわけではないのです。おくのほそ道の旅の第1の目的は、なんといっても俳句の詠み方(蕉風)の革新でしょう。

しかし、そのほかの目的も言われています。公儀隠密として仙台藩の実情を探るなどという説もあります(あとで触れます。)。源義経と主従、それと義経に助太刀して滅びた奥州藤原氏の鎮魂が目的だったという考えもあります。

旅の前半の目的には、やはり義経らの鎮魂も含まれていたのではないでしょうか。旅のクライマックスが平泉であるほか、そこに至るまでにあちこち伏線がはられているからです。屋島の戦いについては、黒羽のところですでに触れました。

 ところでぼくが好きな映画を2つあげるとしたら、デビット・リーン監督作品の『アラビアのロレンス』と『ドクトル・ジバゴ』です。どちらも大きな時代の流れに翻弄されながらも奮闘する主人公たちの生きざまに魅了されます。

義経主従の悲劇との関係では、なかでも『アラビアのロレンス』を思い浮かべてしまいます。実在のイギリス軍将校、ロレンスの栄光と挫折を描いた映画です。

オスマン帝国が衰退するなか、その旧領だったバルカン半島の支配をめぐってドイツとロシアの利害が対立。それが引きがねとなって、同盟国側と協商国側の2大陣営に分かれ、第一次世界大戦となりました。

ロレンスの母国イギリスは協商国側であったところ、オスマントルコが同盟国側で参戦したことから、両国は敵対することになります。

他方、アラビア半島のアラブ人たちはオスマン帝国に支配されていたことから、その独立を求めてオスマン帝国と戦います。

敵の敵は味方というわけで、イギリスはアラブを軍事的に支援します。ただし、英仏は戦後におけるアラビア支配を目論んでいるので、その支援は限定的(お主も悪ようのう~)。

そうしたなか、ロレンスはそれまでバラバラで弱体だったアラブ軍をまとめ、彼らを引き連れて少人数で戦略拠点アカバを奇襲して攻略。以後次々と軍事的成功をおさめ、アラブの英雄に。ついには、英軍に先んじて、首都ダマスカスを攻め落としてしまいます。

そうした人間ドラマが砂漠の自然を背景に、美しい映像、壮大なスケールで描かれていて感動的です。

ところが、そのころには戦後処理をめぐり英仏とアラブ側の政治的駆引きがはじまっています。イギリス人でありながらアラブの英雄であるロレンスの存在は、どちらの陣営からも邪魔になってしまいます。そこでひとり故国に返されることに・・・。

軍事的天才でありながら政治音痴なため、戦中は英雄にまつりあげられながら戦後は邪魔者として排除されていく。栄光と挫折、明と暗の物語である点がロレンスと義経に共通しています。

 「判官びいき」という言葉があります。庶民はむかしから、冷徹な政治家・頼朝よりやんちゃな義経のほうを「贔屓(ひいき)」にしてきたんですねぇ。芭蕉もその一人でした。

2011年1月6日木曜日

 「ロビン・フッド」と十字軍


 新春映画の洋画部門は「ロビン・フッド」を推します
 といっても、「トロン」「ハリーポッター」との3択ですが。
 (しかも時宜を失した感もあり)

 ロビン・フッドは、弓の名手で伝説の義賊
 中世イングランドが舞台。
 
 ロビンの本拠地はノルウェイの森ならぬシャーウッドの森
 私の好きな天海祐希さんが家のCMをやっています。 

 日本でいれば、義経伝説みたいな感じ
 12世紀末~13世紀初という時代的にも庶民の判官びいきなところも。

 日本では源平の武勇伝を琵琶法師が語りひろめ
 ヨーロッパでは騎士物語を吟遊詩人が吟じたところも似ています。
 
 吟じます!
 じゃなくて、演じてます。
 
 ロビン・フッドは源義経と同じく繰り返し映画化され
 過去にはショーン・コネリー(76年)、ケビン・コスナー(91年)
 など蒼々たる俳優が
 本作では「グラディエーター」のラッセル・クロウが演じてます。

 登場するイングランド王は
 リチャード1世とジョンの兄弟。

 あ、それから実は隠れてもう一人出ていますが
 わかります?

 答えは、エリザベス女王。

 というか、映画「エリザベス」で女王を演じたケイト・ブランシェット
 本作ではロビンの恋人マリアン役でした。

 16世紀にイングランドを率いた女王の300年前の前世が
 反イングランド国王(義賊)側の恋人だったとは!
 
 さてリチャード1世といわれてもピンときませんが
 通称、リチャード獅子心王と呼ばれます。

 獅子心王といわれてもなおピンときませんよね
 ライオンハートならいかが?

 スマップの歌にありますね
 「らいおんハート」ですが。

 恩田陸さんの小説にもあります。

 彼が獅子心王と呼ばれたのは、在位中ほとんど
 十字軍(第3次)にのめり込んでいたためです。

 十字軍は、中世におけるキリスト教の聖地エルサレムの奪還作戦
 でもエルサレムはイスラム側にとっても聖地
 ま、イスラム教もキリスト教も兄弟宗教だから当然の帰結です。 

 イスラム側のリーダーは名君サラディン
 それもあって十字軍(第3次)は聖地の奪回に失敗します。

 キリスト教とイスラム教が兄弟宗教なのはユダヤ教とおなじく
 アブラハムの宗教の系譜に連なる唯一神教だから。

 兄弟が殺し合うのはカインとアベルの時代からの伝統ではありましょうが
 今日のように激しく対立するようになったのは十字軍が契機。

 聖地奪還といっても、十字軍以前に
 エルサレムが英仏独の国土だったことはありません。

 エルサレムで処刑されたキリストの教えを彼らが信仰することになり
 その結果、エルサレムが英仏独にとっても聖地となったにすぎません。
 (独は神聖ローマ帝国としてローマ帝国の後継者というロジックもあり)

 強引にたとえれば、元寇のときにフビライハンが神道に改宗したうえで
 「聖地・伊勢を奪還する!」と強弁しているようなもの
 とても侵略戦争を正当化できるロジックとはいえません。

 攻撃を受けたイスラム側からすれば、領土的野心にもとづく侵略戦争
 としてしか理解できなかったのも当然でしょう。

 このような歴史的事実をふまえ、ケビン・コスナーもラッセル・クロウも
 ライオン・ハートにしたがい、十字軍に参戦しています。

 しかしケビン版とラッセル版では十字軍に対する考え方が
 まったく違っています。

 ケビンはイスラム軍に虐待される捕虜の1人だったのに対し
 ラッセルはイスラム教徒の捕虜2700人余の処刑(歴史的事実!)
 について獅子心王を批判しています。

 なぜ、こんな違いがでたのでしょうか?

 ケビン版がつくられたころ(91年)、
 イラクがクウェートに侵攻したのを機に、多国籍軍がイラクを空爆し
 湾岸戦争が勃発しています。

 十字軍は、英(米はまだ含まれています)仏独らの多国籍軍
 湾岸戦争を十字軍の延長戦ととらえることは自然なアナロジーです。

 ケビン版はサダム・フセインの暴虐を
 ラッセル版は湾岸戦争の不正義をダブらせて訴えてもいるのでしょう。

 湾岸戦争が十字軍の延長戦だとすると、そこに日本が参戦するのは
 少なくも宗教的な観点からはとても説明が難しいようで…。