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2023年12月10日日曜日

マジカルミステリーツアー(4)

 



 最終日はまたまた強風雨となった。さてどうしよう。やはり芭蕉の足跡をたどろうか。そうだ、甲冑堂へ行こう!だが、甲冑堂は『おくのほそ道』にはでてこない。なぜか。

実は芭蕉の足跡には2種類ある。一つはもちろん『おくのほそ道』に記された足跡である。もう一つは芭蕉に随行した曽良が書いた『曽良旅日記』に記された足跡である。

『曽良旅日記』は長らく行方がしれなかった。それが1943年(昭和18年)に再発見された。その後、重要文化財となっている。

2人旅であるから、両者の足跡は一致しているはず。だが、実は一致していないところがある。どちらの記載が実際の足跡だろうか。

刑事訴訟では、反対尋問を経ない証拠は、いわゆる伝聞証拠であるとして受け入れられない。しかし、いくつかの例外がある。その一つ。商業帳簿、航海日誌その他業務の通常の過程にいて作成された書面は、例外とされている。

『曽良旅日記』は、その内容・体裁からここでいう航海日誌に近いものである。それゆえ、実際の足跡どおり忠実に記載がなされているものと思われる(曽良が幕府の隠密であり、そうとはかぎらないという点は別論である。)。

そこから、『おくのほそ道』の創作性が明らかとなった。『おくのほそ道』を読むと、一見、紀行文ふうに書かれているので、それまではみな、実際の足跡に忠実に書かれていると思い込んでいた。

ところが、実際の足跡により忠実な『曽良旅日記』が発見され、それと比較することが可能となった。その結果、『おくのほそ道』が創作物であること、すなわちその「文学」性が明らかとなったのである。

両者が一致しないところの一つが飯塚の里と笠島のくだり。まず、『おくのほそ道』。

(飯塚)
 ・・・またからはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。

(鐙摺・白石)
 鐙摺・白石の白を過ぎ、・・・。

つぎに、『曽良旅日記』。

(飯塚)
・・・佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門へ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。・・・

(鐙摺・白石)
・・・万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコハシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ、次信・忠信が妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。

現地に行けば、どちらが実物に即しているかは明白。いまでも『曽良旅日記』に書かれたとおりである。『おくのほそ道』は現地の実情に即してはいない。

飯塚の里は、佐藤庄司が治めていた。かれは奥州藤原氏の被官である。源頼朝に攻められて、奥州藤原氏とともに滅亡した。

かれの息子2人が次信と忠信である。ふたりとも源義経の忠臣であり、『平家物語』をはじめ、歌舞伎でも活躍する。

「ふたりの嫁」は次信と忠信の嫁のこと。次信と忠信の無事な帰還をまちわびる義母(つまり佐藤庄司の妻)のため、甲冑を着て無事の帰還を演じ義母を慰めたという。

飯塚の里に医王寺がある。医王寺には佐藤庄司夫婦の石塔や兄弟の石塔はあるけれど、「ふたりの嫁のしるし」は存在しない。

「ふたりの嫁のしるし」があったのは、鐙壊し(鐙摺)の先にある甲冑堂である。芭蕉は両者を融合させ、文章を引き締めたものと思われる。

こうして甲冑堂は『おくのほそ道』にそれとして記述されなかったが、そこで「ふたりの嫁のしるし」は拝見することができる。

・・・ことになっている。この日、甲冑堂を訪れたところ、強風雨のため閉鎖されていた。しかしあきらめきれない。

強風雨のなか、JR越河駅から道に迷いつつ、歩いてようやくここまで辿り着いたのである。

神主さんのご自宅を訪ね、玄関で声をかけた。80歳くらいの年輩のご夫人があらわれた。きょうは強風雨のため、甲冑堂の開張はできないという。

そこをなんとか、福岡から来たんです!と食い下がったところ、ご夫人は義経のこと、芭蕉のこと、甲冑堂のこと、これまで訪ねてきた客のこと、維持管理がたいへんなこと、行政が冷たいことなど延々と30分以上語りに語った。

こっ、これはいかん。ご開張に代えて、その埋め合わせに「語り」で済ませるおつもりではあるまいか。それはそれでとても面白い「語り」ではあったが、それでは証拠写真がとれないではないか。

玄関先をみると、お守りや甲冑堂の来歴をしらせる資料等が販売されていた。これください!ついでに拝観料もお支払いします!

これにご夫人は負けたという表情を浮かべられた。やった!かくて甲冑堂前のたたかいに勝利し、ふたりの嫁に対面することがかなったのであった。めでたし、めでたし。

2021年8月24日火曜日

天龍寺と永平寺ー天竜と地竜

 (福井地裁)

(えちぜん鉄道)

(ドラクエ風道案内)


(天龍寺)

(永平寺@事務所旅行)

(恐竜博物館)

 丸岡天龍寺の長老、古き因みあれば尋ぬ。また、金沢の北枝といふ者、かりそめに見送りて、この所まで慕ひ来たる。所々の風景過ぐさず思ひ続けて、をりふしあはれなる作意など聞こゆ。今すでに別れに臨みて、

 物書きて扇引きさくなごりかな

 五十丁山に入りて、永平寺を礼す。道元禅師の御寺なり。邦畿千里を避けて、かかる山陰に跡を残したまふも、貴きゆゑありとかや。

 福井もよく行きました。落合くんが亡くなった際、彼の事件を分担して引き継いだわけですが、ぼくが引き継いだものの一つが福井地裁の事件だったからです。

兄弟間の遺産分割事件で負け筋でしたが、落合くんが依頼者の気持ちをとことん汲んでいる姿勢に感心したものでした。

当時はオンライン手続もなく、引き継いでから2~3年通いました。写真を拡大してよくみると、『粉雪』が降っています。

福井駅からえちぜん鉄道勝山永平寺線に乗ります。途中から九頭竜川沿いを走っています。そのせいでしょうか、駅の案内板もドラクエふう。落合くんの披露宴を思い浮かべてしまいます。

松岡駅で降ります。天龍寺があります。天龍寺といえば京都嵐山でしようが、福井松岡にもあります。芭蕉は丸岡としていますが、記憶違いです。当時はグーグルマップもないので、おくのほそ道にはこのような記憶違いがいくつかあります。

まったくの記憶違いかというと、そうでもありません。すぐ北に丸岡という城下町があります。丸岡城は北国で唯一現存する天守閣。電車の正面をよくみると「古城まつり」とあるのはこの城があるからです。

金沢あたりから曽良は体調不良でしたが、そのピンチヒッターというわけか、北枝というお弟子さんがお供していました。北陸のブランチだから北枝なのでしょうか。

その北枝ともここでお別れ。別れのエピソード4です。物書きての句の季語は何でしょう。「捨て扇」です。扇ひきさくと強調されています。

えちぜん鉄道でさらに山に入ると永平寺駅があります。しばらくバスに乗ると永平寺です。ここも事務所旅行で立ち寄りました。みな若いです。

文字どおり「永遠の和平」を願う名前。開山は道元で、曹洞宗。浄土真宗とおなじく、比叡山延暦寺の天台宗から派生した新仏教です。

蓮如が吉崎を拠点とせざるをえなかったのとおなじく、都では旧仏教派から迫害にあったために、北陸で教線を延ばすことになったものです。芭蕉が言う貴きゆゑもあったのかもしれませんが。

さらに山に入って行くと終点、勝山駅です。北東に霊峰白山を仰ぎ、北側を雪解けで増水した九頭竜川が太く清冽に流れています。

その北に福井県立恐竜博物館があります。この近くの山から恐竜の化石がたくさん見つかるからです。

福井は恐竜王国と言われています。福井駅でも恐竜がたくさん出迎えてくれます。子ども連れであれば、ぜひ訪れてください。HPが回復します。

さて結びにクイズです。きょうの投稿のなかに竜は何匹でてきたでしょう?

2021年8月23日月曜日

吉崎・汐越の松

(吉崎)


(汐越の松)
 
(東尋坊@ちくし事務所旅行)

 越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。

 よもすがら嵐に波を運ばせて 月を垂れたる汐越の松  西行

この一首にて数景尽きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。

 大聖寺川を川に沿ってさらに下ると、日本海に出ます。その直前、加賀の境を越えて越前(南)側に北潟湖が広がり、その東岸に吉崎があります。吉崎は吉崎御坊があったところです。

わが家もご多分にもれず浄土真宗。真宗は親鸞聖人がはじめたられたことはみなさんご存じでしょう。室町時代には真宗は衰退していました。それを中興したのが蓮如で、その拠点となったのが吉崎御坊です。蓮如がいなければ、わが家が真宗に帰依することもなかったでしょう。

教科書にでてきた加賀一向一揆も蓮如や吉崎御坊が中心。そういえば、曽良が養生におもむいた伊勢長島も戦国時代、一向一揆の拠点でした。なにか関連があるのでしょうか。

吉崎御坊跡から北潟湖を越えて西岸にでると、芦原ゴルフクラブがあります。汐越の松はその敷地の中にあります。無断では入れません。受付で承諾をとりコースのなかをしばらくいく必要があります。いまでは月が垂れるかわりに、ゴルフボールが降ってきます。

汐越の松と聞いて、なにやら思いだしませんか。そう、一つは末の松山ですね。

 君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ 東歌

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 清原元輔

もう一つは象潟の汐越。曽良の句

 波越えぬ契りありてや雎鳩の巣  曽良

二人の愛が続く限り末の松山を波が越えることはないとの断言から、すこしずつ崩れて、ここでついに汐が越えてしまいました。女房役の曽良と離ればなれになったことを表しているのでしょうか。

なお、汐越の松からすこし南に下ったところに東尋坊があります。松本清張の『ゼロの焦点』の舞台です。最近は(といっても10年以上前ですが)広末涼子主演で映画化されましたね。

2008年10月15日事務所の旅行で行きました(加賀屋に泊まったのと同じとき)。その際の写真ですが、この西方浄土にあこがれ・たそがれている女人が誰だったか思い出せません(笑)。

2021年8月22日日曜日

全昌寺ーソラとの別れ(2)

 

 大聖寺の城外、全昌寺といふ寺に泊まる。なほ加賀の地なり。曽良も前の夜この寺に泊まりて、

 よもすがら秋風聞くや裏の山

と残す。一夜の隔て、千里に同じ。われも秋風を聞きて衆寮に臥せば、あけぼのの空近う、読経声澄むままに、鐘板鳴りて食堂に入る。今日は越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかかへ、階の下まで追ひ来たる。をりふし庭中の柳散れば、

 庭掃きて出でばや寺に散る柳

とりあへぬさまして、草鞋ながら書き捨つ。

山中温泉のなかを大聖寺川が流れていましたが、川沿いにくだれば大聖寺の町。現在は、加賀市。JRだと福井から30分ほど。全昌寺は大聖寺の駅から歩いて10分ほどです。

秋風は金沢あたりから吹いていた別れのテーマ曲。それを一晩中聞いていたというのですから、曽良の心中の苦悩はいかほどか。

芭蕉と曽良は別れて一夜、しかし千里の隔たりに等しい。

うちの蒼空たちは、関空、ドバイ、ベニスの各空港を経由して、文字どおり数千里離れていってしまいました。関空からドバイへの空のうえではずっとギャン泣きだったそうで、日本を離れる心細さを赤子ながら感じたのでしょうか。

2021年7月14日水曜日

平泉(2)ー夢の跡


 (北上川@高館跡から)


(義経堂@高館跡) 


 まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

 卯の花に兼房見ゆる白毛かな  曽良

北上川、わかりにくいけれど、南部とは岩手県南部地方のことで、写真の左手、北のほうです。そして右手、南のほうへ流れ、モネの登米をへて、石の巻湾に注ぎます。

写真のちょっと左手、支流の衣川が北上川に注いでいます。和泉が城の和泉は、塩竈神社の段ででてきた和泉三郎のことです。最後まで、義経に忠誠を尽くしました。対する泰衡は、三代目秀衡亡きあと、頼朝の圧力に屈して義経を攻め殺してしまいました。

衣川は歌枕です。

 ただちともたのまざらなん身にちかき 衣の関もありといふなり よみ人しらず

衣川の関という言葉は、衣服でへだてていることから、すぐ身近にいながらも男女が関係を結ばないことのたとえとして用いられるようになりました。

これを踏まえて、もう一度、芭蕉の文章を読んでみてください。衣川は、義経に忠実だった和泉三郎の城を巡りて、義経の住まいであった高館の下で北上川に合流していた。これに対し、義経を責め殺した泰衡らの旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えた(どっち向いてんだよ!)。

義経は泰衡軍に攻囲されて、高館で自害して果てました。享年31歳、なんと落合くんと同い歳です。曽良の句にでてくる兼房も義経の義臣。もうだいぶ年で、白毛がトレードマークです。義経の自害を見届け、高館に火を放ち、最後の奮戦をして自害しました。

兼房がなぜ高館に火を放ったのか、なぜその事実が義経記などに特筆されているのでしょうか。敵方の大将や、強い武将はちゃんと死にましたよと世に知らしめることが重要だったんですね。このため世論が納得するよう、京都の六条河原に首をさらしたりしました。

義経は死んでいない、大陸にわたってチンギスハンになったなどという伝説が生まれたのは、兼房が高館を焼いたため義経の死がはっきりしなかったためだったのかもしれません。

芭蕉は触れていませんが、もちろん西行も500年前にここを訪れています。三首。

 とりわきて心も凍みて冴えぞわたる 衣川見にきたる今日しも

 涙をば衣川にぞ流しつる ふるき都をおもひ出でつつ

 衣川みぎはによりてたつ波は きしの松が根をあらふなりけり

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」が杜甫の「春望」から採られていることは、「はなれて奏でる(5)」で述べました。すごくないですか。中国古代の大詩人の詩から、西行の旅と歌、その500年後の芭蕉の旅と句を経て、現代まで。北上川のように、とうとうと流れています。

2021年7月5日月曜日

あたらしい歌枕・登米


(モネの睡蓮@ビュールレ展)

  思ひかけずかかる所にも来たれるかなと、宿を借らんとすれど、さらに宿貸す人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道迷ひ行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などよそ目に見て、遙かなる堤を行く。戸伊摩といふ所に一宿して、平泉に至る。その間二十余里ほどとおぼゆ。

思いがけず石の巻に来て、宿を借りようとしたけれども借りられず、平泉にむけて出発したけれどまた道に迷い、袖の渡りなどの歌枕には行き損ねたらしい。またまたほんとうでしょうか。

ここも『曽良随行日記』によれば、事実と異なっていて、実際はそれなりのもてなしを受け、道迷いもなかったらしい。芭蕉がこのように旅程を困難に暗く書いているのは、念願の目的地である平泉や金色堂をより光かがやかすためであるとされています。

芭蕉は『笈の小文』で、紀行文とは何かについて、こんなことを書いています。

 抑、道の日記といふものは、紀氏・長明・阿佛の尼の、文をふるひ情を盡してより、餘は皆俤似かよひて、其糟粕を改る事あたはず。まして淺智短才の筆に及べくもあらず。其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどといふ事、たれゝもいふべく覚侍れども、黄奇蘇新のたぐひにあらずば云事なけれ。

小・中学校のときに、日記の書き方について、先生から指導されたとおり。朝起きて、顔洗って、歯を磨いて、ご飯を食べて、着替えて・・・ということを書いてもしかたがない。なにかしら新しいことや興味あることを書かないと、面白くないし意味がないというわけです。

 されども其所ゝの風景心に残り、山館・野亭のくるしき愁も、且ははなしの糧となり、風雲の便りともおもひなして、わすれぬ所ゝ跡や先やと書集侍るぞ、猶酔者の妄語にひとしく、いねる人之譫言するたぐひに見なして、人又亡聴せよ。

とは言っても、いろいろと旅の思い出などを書き連ねるので、フィクションと思って話半分に聞いて欲しい。なるほど、分かりました。

松島から平泉まで、姉歯の松、緒絶えの橋、袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の萱原という5つの歌枕がありましたが、全部スルー。各歌枕の地元の観光協会としてはさぞかし悲憤慷慨でしょう。

「昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代われば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみ」(多賀城碑の段)なので、歌枕を尋ねる気力が失せたのでしょうか。

そして歌枕をスルーして遙かなる堤を行く。遙かなる堤は北上川の土手です。そして芭蕉一行は、戸伊摩(といま)といふ所に一宿しました。

戸伊摩って、どこか分かりますか。いまの登米町(とよままち)です。登米って、どこか分かりますか。いまのNHK朝ドラ『おかえりモネ』で、主人公の百音ちゃんが夏木マリの家に下宿して森林組合の職員として働いているところです。

百音ちゃんは、いま気象予報士めざして勉強に励んでいます。ひとつまえの石の巻で、日和見(観天望気)の話をしましたので、うまいぐあいに響きあっています。

モネちゃんは百音と表記されていることから、音と関係が深いのでしょう。主題歌はBUMP OF CHICKENの「なないろ」です。なないろは、もちろん虹の色でしょうが、百音ともひびきあっているのでしょう。

歌を歌った場所が歌枕だとするなら、登米は最新の歌枕じゃないでしょうか。♪闇雲にでも信じたよ きちんと前に進んでいるって・・それでもいい これはぼくの旅

ということで、道迷いしながらも、芭蕉の旅は念願の平泉に至ったのでした。パチパチ。

2021年7月4日日曜日

こがね花咲く・石の巻

 

 十二日、平泉と志し、姉歯の松・緒絶えの橋など聞き伝へて、人跡まれに、雉兎蒭蕘の行きかふ道そことも分かず、つひに道ふみたがへて石の巻といふ港町に出づ。「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。

芭蕉一行は、松島から平泉をめざしました。途中、姉歯の松、緒絶えの橋などの歌枕を尋ねようとしたものの、道に迷ってしまい、あやまって石の巻についてしまったというのです。ほんとうでしょうか。

『曽良随行日記』によると、実は迷ってはいないらしい。ではなぜ真実のとおり書かなかったのか。人から、姉歯の松はどうでした?緒絶えの橋はどうでした?と訊かれたときに、道に迷いましてな・・・というかんじでしょうか。

ともあれ、芭蕉らは石の巻にある日和山にのぼったらしい。日和山は漁港であればたいがいどこにでもあり、観天望気(天気予報)をするために登る小高い山です。日和見主義とかいうばあいの日和見です。

そこから、まず「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山が見えたといいます。この歌を詠んだのは、松島夜泊で予告した大伴家持です。

大伴家持は、西鉄を毎日走っている旅人の子で、万葉集を編んだといわれています。この歌を詠んだ当時は、越中の国司(富山県知事)。おくのほそ道の後半、奈呉の浦を訪れたときにまたまた登場する予定です。

家持が歌を詠んで奉った相手は聖武天皇。当時、奈良の大仏を建立の途中でした。そして、仕上げのお化粧をする黄金が手に入らないなあと困ってありました。

するとなんというグッドタイミング、奥州のほうから黄金が見つかっりましたぞ~と献上されてきたのでした。

いまの大仏さまを見て金でコーティングされていたといわれてもピンときませんが、光背や脇侍を見ればいまでも金キラキンです。

黄金の献上を祝して元号は天平から天平感宝へ変更。家持の歌もこれを祝したものです。もちろん万葉集歌。

 すめろきの御代栄えむとあづまなる みちのく山に黄金華咲く

芭蕉は『野ざらし紀行』『笈の小文』の旅で奈良をたびたび訪れ、二月堂のお水取りにも参加していますが、大仏についての記述はありません。芭蕉の美的感覚にあわなかったのかなあと思いましたら、当時は松永久秀(吉田剛太郎@麒麟が来る)が焼いてしまって復興まえだったよう。

奥州の黄金は、奥州藤原氏の繁栄の源泉でもありました。平泉の金色堂は奥州で金が産出されていたことの象徴です。芭蕉があえて道迷いしたわけは、平泉をまえにこうした効果をだすためだったのかもしれません。

金華山は恐山、出羽三山とともに奥州三霊場の一つ。三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはないそうです。

ところがなんと、金華山は石の巻からは見えません。金華山は牡鹿半島の東北に位置していて、半島にじゃまされて見えないのです。それを心の目で見てしまう、いや見えてしまったほうがより効果的、芭蕉はそう考えたのでしょう。

「金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。」という部分は、やはり舒明天皇の万葉集歌を本歌ないし俤にしていますかね。

 大和には群山あれどとりよろふ、天の香具山登り立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ、海原は鴎立ち立つ、うまし国ぞ蜻蛉洲大和の国は

ところで石の巻は石ノ森章太郎の故郷です。いまの人なら『仮面ライダー』、ぼくらの世代なら『サイボーグ009』の作者。石の巻→石ノ森、めちゃ覚えやすいです。

古代のみならず現代のヒーローをもうみだした石の巻、とりわけお金に困らなくなる金華山、道迷いしてでも行きたいところです。

2021年6月28日月曜日

旅の宿ー松島の松かげに春死なん

 

  江上に帰りて宿を求むれば、窓を開き二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

 松島や鶴に身を借れほととぎす 曽良

予は口を閉ぢて眠らんとしていねられず。旧庵を別るる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松が浦の和歌を贈らる。袋を解きて今宵の友とす。かつ、杉風・濁子が発句あり。

 事務所旅行のとき、ホテル松島大観荘に泊まりました(写真上)。松島の月を見るには絶好の立地で、大観荘の名にはじないお宿でした(二日市温泉で観月する際には、二日市温泉大観荘をご利用くだされ。)。

芭蕉は松島で

 松島やああ松島や松島や

の句を詠んだとされていますが、違います。実際には、曽良が一句詠んだだけ。芭蕉は感動のあまり一句も詠めませんでした。

ちょー感動したとは書いてありませんが、小学生の遠足のように興奮のあまり眠られませんでした。

現代ならバーかラウンジで一杯というところでしょうが、芭蕉は袋を解いて、友人やお弟子さんからもらった餞の品々を見て心を落ち着けようとしています。

ここらへんが芭蕉の心の不思議。一方で、かれが葉が破れやすい芭蕉と号しているのは、傷つきやすい心の持ち主だということです。そして世をいとふ人々にあこがれています。

他方で、座の文学である連句を愛し、俗世の友人やお弟子さんのことも心から愛しています。まさに胡蝶の夢、こちらの世界もあちらの世界も大好きで、自由自在に行き来します。

友人の素堂からは、松島の詩を贈られました。その際のやりとり。

送芭蕉翁、
西上人のその如月は法けつたれば我願にあらず、
ながはくば花のかげより松のかげ、
春はいつの春にても我ともなふ時
 松島の松かげにふたり春死なん 素堂

西上人は西行のこと。西行は歌もうまかったけれども、歌がうまいだけなら何人もの歌詠みがいました。なかでも、人々を感動させたエピソードがあります。

 願はくは花の下にて春死なむ その二月の望月のころ

西行の有名な歌ですが、西行はこの歌のとおり、二月の望月のころ桜の花の下で亡くなりました。現代でいえば、ベーブルースの予告ホームランのようなものでしょう。

当時の人々はさすが西行と驚嘆しました。江戸時代の芭蕉らが西行を慕うのも、これが理由の一つになっています。

冒頭、古人も多く旅に死せるありとありました。旅に死んだ古人の代表が西行です。西行を慕う芭蕉も旅先で死ぬことを辞さない、できればそうしたいという気持ちはあったでしょう。おくのほそ道の旅ではそれをなし遂げることができませんでしたが。

ただし、芭蕉は桜の下ではなく、松のかげで死にたいと言っています。なぜでしょう。桜とちがい、松は千歳を生きるとされていたことによるでしょう。曽良の句にでてくる鶴もそうです。松島(雄島)がこの世とあの世をつなぐ霊場であることも関係していたでしょう。

不易な松のかげで死ぬ、まさに不易流行です。

さらに、芭蕉の名字である松尾も関係しているかもしれませんね。松尾・芭蕉。もう名前からして不易・流行です。

2021年4月1日木曜日

室の八島・この花咲くや誓いの火室に


芭蕉一行は、埼玉から栃木に入り、室の八島明神(大神神社)に参拝しました。最初の歌枕の地。芭蕉はこの旅を通じて、先輩歌人たちが歌に詠んだところを訪ねてまわります。蕉風を深めんとして、先人に学ぼうという気持ちは切実です。

同行曽良は神道や地理にもくわしく、その説明。ここの神さまは、木の花咲くや姫で、富士山麓にある浅間神社とおなじ神さまです(出発の朝、富士の峰幽かに見えたことが思い浮かびます。)。

日向に降臨した天孫・ニニギが姫に求婚しました。父のオオヤマツミは喜んで、姉のイワナガ姫もさしだしました。けれども、ニニギはこの申出を断り、コノハナサクヤ姫とだけ結婚しました。彼らの子や孫の命が岩のように長くはつづかず、花のように儚いのはそのためだとか。なかなか美しい話です。

妻は一夜にして身ごもり、そのため夫は自分の子だろうかと疑いました。なかなか人間臭い話です。

妻は身の潔白を証明するため、夫の子であるから焼け死ぬことはないと誓いをたて、産屋に火を放ちました。新婚早々、激しい夫婦です。炎のなかから無事、火々出見(ホホデミ)の尊が誕生、誓いの火室に花が咲きました。

以上、室の八島の名前の由来です(八島は竈の意味)。ホホデミは海幸・山幸物語の山幸、山幸の孫が神武天皇です。以来、ここは煙のたつところとして歌に詠まれてきました。

 いかでかは思ひありとも知らすべき 室の八島の煙ならでは
                          藤原実方

じぶんの思いをどうしたら伝えられるだろう、八島の煙ならそれができるのに僕にはできない・・・。いまなら煙ではなく、SNSや各種アプリでしょうか。どんなにツールが発達しても、最後は勇気ですかね。さねかたは有名な貴公子なので、覚えておいてください。

コノシロという魚がいます。この地では、焼いて食べることを禁じられています。「この城を焼く」というのが縁起が悪いためだとか、人体を焼くような悪臭がするためだとか、木の花咲くや姫の苦難をしのぶためだとか。

2012年11月25日日曜日

行き行きて





山仲間のM・K夫婦が
立石寺を訪ねたと聞いた。

MKはタクシー会社ではなく
MさんとKさん。

破天荒なMさんをKさんがけなげに支える
おしどり夫婦だ。

立石寺は
みちのく山形にある山寺。

創始者は慈覚大師=円仁
天台宗の開祖・最澄の高弟…。

というより,岩にしみいる蝉の声
の句で有名だ。

『おくのほそ道』
の不朽の名句だ。

閑寂な宇宙
のひろがり。

わずか5・7・5文字で表現するとは。
すばらしい。さすが。

『おくのほそ道』は春から秋にかけて
東北から北陸を経て中部・大垣までの紀行文。

旅をすみかとした芭蕉の傑作
古典では一番好きな作品だ。

同行者は
弟子の曽良。

温厚篤実で
すぐれた秘書。

コースの下調べ,資料収集,旅費の会計
などを担当し,『随行日記』を書きのこした。

(例により角川文庫
ビギナーズ・クラシックス参照)

夫婦の旅のたよりに誘われて
漂白の思ひやまず『おくのほそ道』を再読。

月山に登り,湯殿に下ったくだりまで読んだところで
ことしの山の会の納会が開かれた。

場所はMK夫婦のご自宅
Kさんの手料理によるもてなしだ。

電車でいっしょになったSさんと
訪れると,さっそく読書談議となった。

Kさんが読んでいるのは『平家物語』
やはりダジャレがいっぱいだ!だとか。

Sさんは『本屋さんで待ちあわせ』。
この話はのちほどまた。

ボクは『おくのほそ道』を読んでいて
月山から湯殿さんへ下ったところだと披露した。

Kさんは意外にも
曽良に思い入れを感じると応じた。

えっ!『おくのほそ道』って
芭蕉に感情移入して読むものでは?

でも,よく考えると意外でも何でもない。
Mさん=芭蕉,Kさん=曽良の構図だから。

そうか
そうか(納得)。

そういえばこの話
どっかでもあったなぁ…?

そう。
『ニュー・シネマ・パラダイス』!

ローマ在住の大物映画監督サルヴァトーレは
故郷の母からある訃報を受ける。

そこから彼は,映画に魅せられた少年時代
~青年時代の恋愛へ思いをはせる。

この流れからして,この映画
サルヴァトーレに感情移入するようにつくられている。

でも,ある女性(1男の母)は
故郷の母に感情移入してしまうらしいのだ。

ふつう小説や映画,お芝居は主人公がいて
そこへ感情移入するようつくられている。

これがうまくいかないと
作品にのめり込めない。

よい作品ほど主人公に感情移入しやすい
つくりになっている。

だから,主人公以外の登場人物に
感情移入することはむずかしい。

でも,たしかに作品の鑑賞のしかたは
ひとさまざま。

母や曽良に感情移入したって
いっこうにかまわない。

“自分が”生きる意味を見つけたり
確認したりすることこそが大事だろうから。

  行き行きて倒れ伏すとも萩の原
                       曽良