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2023年3月21日火曜日

笠島@おくのほそ道



 芭蕉一行は、飯塚温泉から、桑折駅に出て、伊達の大木戸を通過した。桑折駅は、いったん福島駅に戻り、東北本線で北上し3つ目の駅である。

伊達の大木戸は隣の藤田駅の先。国見町文化財センターあつかし歴史館あたり。いまは4号線が走っていて、むかしの大木戸の雰囲気はない(江戸時代の雰囲気を知っているわけではないけれども)。ここから先は宮城県である。

さらに鐙摺・白石の城を過ぎ、笠島の郡に入る。地理的にも実際の行程的にも岩沼が先であるが、ここでも前後のつながりから、芭蕉は笠島のことを先に書いている。

笠島は、芭蕉が心を寄せる中将・藤原実方ゆかりの地だ。実方は清少納言ともつきあいのあった風流貴公子。宮中で喧嘩をしてしまい、天皇から「陸奥の歌枕見てまいれ」と陸奥守に左遷された。陸奥だから右遷だろうか。

笠島には道祖神の社がある(2枚目の写真)。道祖神は旅の神である。実方はその社前を乗馬のまま通りすぎようとしたため、神の怒りにふれ、客死したとされる。こんかい訪ねたときは、大学生たちが映画を撮っていた。

道祖神の社から北にすこし行くと、実方の墓がある(3枚目の写真)。実方は在原業平にも比せられる貴族だが墓は質素だ。

これまた芭蕉が敬愛する西行も墓参りをしている。詠んだ歌はこれ。

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る

かたみの薄はいまもあるが、当時のものではないだろう(行けばわかる)。

ところが、芭蕉はじっさいには道祖神の社にも、実方の墓にも参っていない。遠くからながめただけである(1枚目の写真)。五月雨に道いと悪しかったことが理由である。疲れていたのか、完全(予定調和)になることをきらったのか。

 笠島はいづこ五月のぬかり道

2021年6月7日月曜日

武隈の松ー千歳の形

(浅香山の松)
 


きのう述べたとおり、笠島に先回りしたかたちになっているので、きょうは国道4号線を戻って岩沼へ。

岩沼は阿武隈川が仙台湾にそそぐ河口の北にあります。阿武隈山地の北麓で、福島県の中通りと浜通りの合流点です。仙台空港が近く、東北本線と常磐線も合流しています。

司法修習生時代、日暮里(湯島までは千代田線経由で)から千葉県の松戸・馬橋まで常磐線を利用して通勤していました。常磐線は柏くらいまでのイメージだったので、岩沼まで延びてきていたことに感慨を覚えます。

そこに武隈の松という有名な歌枕があります。おくのほそ道には、有名な松や松の名所がたくさん登場します。武隈の松、末の松山、松島、姉歯の松。むかしは1000年生きるという長寿にあやかりたいと人気があったんですね。

武隈の松の特徴は、「二木(ふたき)に分かれて」いることです。東北本線と常磐線が合流するところで、松は逆に分かれているんですねぇ。

そのため古来、松の特徴をシャレた歌が詠まれてきました。

まずは橘季通。

 武隈の松は二木を都人 いかがと問はば見きと答へむ

二木→見き(三木)というシャレです。ダジャレじゃありませんよ。

つぎに能因法師。みちの國にふたたび下りて後のたびたけぐまの松も侍りざりければよみ侍りける。

 武隈の松はこのたび跡もなし 千歳をへてや我は来つらむ

陸奥の旅は2回目だけれども、前回とちがって武隈の松は跡もなくなってしまっているなぁ。あれから1000年も経っちゃったかなぁ。

武隈の松の跡がなかったのは、往昔、陸奥守にて下りし人(藤原孝義)、この木を伐りて名取川の橋杭にせられたることなどあればにや。

名取川はつぎの宮城野(仙台)との境を流れています。芭蕉が笠島の段と岩沼の段をひっくり返した理由の一つはここにありそうです。

能因法師は奥州に2度も旅をした歌人ですから、西行や芭蕉の大先輩です。おくのほそ道でも、ここのほか、すでに白河の関で登場していますし、のちほど象潟でも登場します。

当然、西行も歌を詠んでいます。

 枯れにける松なき宿の武隈は 見きといひても効なからまし

こうして武隈の松は代々、伐られたり、枯れたりして、いけば必ず出会えるというものではなかったようです。でもあらたに植えられたりして、新しい代の松に出会えることもあったよう。西行の訪問から500年後、芭蕉のときはどうだったのでしょうか。

ありました!そのことに芭蕉は大感激しています。

 武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失はずと知らる。・・・代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形整ひて、めでたき松の気色になんはべりし。

昔の姿失はずとか、今はた千歳の形整ひとか、諸事流行し滅していくなか、不易でありつづけることに感激しておられます。

そして江戸を立つ際、弟子の挙白が餞別にくれた句。

 武隈の松見せ申せ遅桜

これに答えて芭蕉が詠んだ句。

 桜より松は二木を三月越し

挙白が詠んだ桜の季節から3月経ってしまったけど、ようやくだ。松→待つ、二木→三月、三月→見つなどシャレておられます。

2021年6月6日日曜日

笠島ー朽ち人の不朽の名

 


蔵王山を下山すると白石、そこから奥州街道(いまの国道4号線)を北上すると、まずは武隈(岩沼)です。ところが、おくのほそ道の本文では、その先にある笠島の段になっています。

道に迷ったという説もあるようですが、曽良の随行日記でも道迷いはありません。やはり、文学的な必要性による前後入替えと思います。ここでも芭蕉にしたがって、まず笠島にまいりましょう。

 笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人に問へば、「これより遙か右に見ゆる山際の里を、簑輪・笠島といひ、道祖神の社・形見の薄、今にあり」と教ふ。

またまた登場、藤原実方です。小倉百人一首51番に、かくとだにの歌が採られていました。そして、中宮定子、同彰子の夫であった一条天皇に「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられ、奥州まで下ってきた彼です。

「歌枕を見てまいれ」という言葉が頭のなかで鳴り響いたために、芭蕉も歌枕を見る旅にでたのでしょう。芭蕉の実方びいきは、ここら辺が原因かもしれません。

まずは復習。実方の最初の登場は、室の八島でした。室の八島の煙にちなんで、次の歌を詠んでいました。

 いかでかは思ひありとも知らすべき 室の八島の煙ならでは

つぎは浅香山の段。端午の節句なのに、奥州には菖蒲がありませんでした。しょう(ぶ)がないので、代わりに花がつみを軒にさしました。芭蕉も、実方にならって花がつみを探し回りました。

そしてここ笠島が実方の旅の終着点です。ここには道祖神の社があります。旅の神です。おくのほそ道の冒頭、芭蕉も「道祖神の招き」にあっています。

神社にはどこでも「下馬」と書かれていますが、実方は社前を乗馬のまま通ろうとして神罰を受け、死んだとされています。

辞世の歌

 陸奥の阿古耶の松を尋ねわび 身は朽ち人になるぞ悲しき

約200年後、この実方の墓を西行が訪れています。西行は2度も奥州を訪れています。そして実方を偲んで次の歌を詠んでいます。

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて 枯野の薄かたみにぞ見る

かくて里人が芭蕉らに「道祖神の社・形見の薄、今にあり」と教えたわけです。

実方と西行の歌は、不易流行の考えそのものを示しています。芭蕉がいまにいたる不朽の考えにたどり着いた決め手だったかもしれませんね。

 西行の訪問からさらに500年後、芭蕉一行は笠島を歩いています。

ところが、芭蕉は天候・行路不良と体調不良を理由に実方の墓参りをしていません。いわく。

 このごろの五月雨に道いとあしく、身疲れはべれば、よそながら眺めやり過ぐるに、簑輪・笠島も五月雨のをりに触れたりと、

 笠島はいづこ五月のぬかり道

五月雨は旧暦五月の雨なので、いまでいえば6月の梅雨の雨のことです。ここでも芭蕉は体調不良を訴えています。飯塚温泉で発症した病をひきづっていたのかもしれません。

この病気を訴える飯塚温泉の段につづけたいためというのが、笠島と武隈(岩沼)をひっくり返した理由の一つでしょう。

でも、簑輪の簑、笠島の笠、どちらもレインウエアであり、五月雨の季節に関係すると、俳味を感じ句に結び付けるところはさすがです。