ラベル 歌枕 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 歌枕 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年1月16日火曜日

善光寺、浅間山

 




 芭蕉の『更科紀行』の旅はさらに続く。

『更科紀行』は紀行文といっても、『おくのほそ道』のように地の文が十分でない。どちらかというと句集の前書、詞書といったふうである。更科あたりから地の文はない。句の内容から、その後の旅をおしはかるしかない。

 十五夜の翌晩、すなわち十六夜も、ひきつづき更級にいた。

 いざよひもまださらしなの郡哉

謡曲『姨捨』のイメージを踏まえた「俤や姨ひとりなく月の友」の気分をなお引きずっている。

 その後、善光寺。

 月影や四門四宗も只一ッ

一生に一度は参れ善光寺。三度目だろうか。牛にひかれて善光寺参り。JR篠ノ井線に乗って姥捨駅からやってきた。姥捨駅は無人であるから、長野駅で精算。

善光寺は日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺であることから、宗派の別なく宿願が可能である。つまり、四門四宗も只一つ。ただ一つの月が闇を晴らし、真如の月が煩悩を晴らす。

善光寺の東に長野県立美術館・東山魁夷館がある。「風景は心の鏡である」。スマホ上は営業中とあったのだが、残念ながら年末年始で休業中だった。「庵野秀明展」もおなじ。東山の白馬とも庵野のエヴァとも会えず。

 さらに、浅間山。

 吹とばす石はあさまの野分哉

浅間山も歌枕。『伊勢物語』第八段。

むかし、をとこありけり。京や住みうかりけむ。あづまのかたにゆきて、住み所もとむとて、友とする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国浅間の嶽にけぶりの立つを見て、

 信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ

むかしもいまも、街に住みづらさを感じたをとこたちは信濃の国や浅間の嶽をめざしたようで。

2021年7月5日月曜日

あたらしい歌枕・登米


(モネの睡蓮@ビュールレ展)

  思ひかけずかかる所にも来たれるかなと、宿を借らんとすれど、さらに宿貸す人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道迷ひ行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などよそ目に見て、遙かなる堤を行く。戸伊摩といふ所に一宿して、平泉に至る。その間二十余里ほどとおぼゆ。

思いがけず石の巻に来て、宿を借りようとしたけれども借りられず、平泉にむけて出発したけれどまた道に迷い、袖の渡りなどの歌枕には行き損ねたらしい。またまたほんとうでしょうか。

ここも『曽良随行日記』によれば、事実と異なっていて、実際はそれなりのもてなしを受け、道迷いもなかったらしい。芭蕉がこのように旅程を困難に暗く書いているのは、念願の目的地である平泉や金色堂をより光かがやかすためであるとされています。

芭蕉は『笈の小文』で、紀行文とは何かについて、こんなことを書いています。

 抑、道の日記といふものは、紀氏・長明・阿佛の尼の、文をふるひ情を盡してより、餘は皆俤似かよひて、其糟粕を改る事あたはず。まして淺智短才の筆に及べくもあらず。其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどといふ事、たれゝもいふべく覚侍れども、黄奇蘇新のたぐひにあらずば云事なけれ。

小・中学校のときに、日記の書き方について、先生から指導されたとおり。朝起きて、顔洗って、歯を磨いて、ご飯を食べて、着替えて・・・ということを書いてもしかたがない。なにかしら新しいことや興味あることを書かないと、面白くないし意味がないというわけです。

 されども其所ゝの風景心に残り、山館・野亭のくるしき愁も、且ははなしの糧となり、風雲の便りともおもひなして、わすれぬ所ゝ跡や先やと書集侍るぞ、猶酔者の妄語にひとしく、いねる人之譫言するたぐひに見なして、人又亡聴せよ。

とは言っても、いろいろと旅の思い出などを書き連ねるので、フィクションと思って話半分に聞いて欲しい。なるほど、分かりました。

松島から平泉まで、姉歯の松、緒絶えの橋、袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の萱原という5つの歌枕がありましたが、全部スルー。各歌枕の地元の観光協会としてはさぞかし悲憤慷慨でしょう。

「昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代われば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみ」(多賀城碑の段)なので、歌枕を尋ねる気力が失せたのでしょうか。

そして歌枕をスルーして遙かなる堤を行く。遙かなる堤は北上川の土手です。そして芭蕉一行は、戸伊摩(といま)といふ所に一宿しました。

戸伊摩って、どこか分かりますか。いまの登米町(とよままち)です。登米って、どこか分かりますか。いまのNHK朝ドラ『おかえりモネ』で、主人公の百音ちゃんが夏木マリの家に下宿して森林組合の職員として働いているところです。

百音ちゃんは、いま気象予報士めざして勉強に励んでいます。ひとつまえの石の巻で、日和見(観天望気)の話をしましたので、うまいぐあいに響きあっています。

モネちゃんは百音と表記されていることから、音と関係が深いのでしょう。主題歌はBUMP OF CHICKENの「なないろ」です。なないろは、もちろん虹の色でしょうが、百音ともひびきあっているのでしょう。

歌を歌った場所が歌枕だとするなら、登米は最新の歌枕じゃないでしょうか。♪闇雲にでも信じたよ きちんと前に進んでいるって・・それでもいい これはぼくの旅

ということで、道迷いしながらも、芭蕉の旅は念願の平泉に至ったのでした。パチパチ。

2021年6月24日木曜日

雄島が磯ー胡蝶の夢

 


 塩竈から船を借りて松島に渡った芭蕉一行は、雄島の磯に着きました。 

 雄島が磯は、地続きて海に出でたる島なり。雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。松の木陰に世をいとふ人もまれまれ見えはべりて、落穂・松笠などうち煙りたる草の庵、閑かに住みなし、いかなる人とは知られずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海に映りて、昼の眺めまた改む。

雄島は松島の多島の一つ。芭蕉が書いているように、陸の一部のようでもあり、島であるようでもあり。陸にも海にも通じている地形です。

そこから、この世とあの世をつなぐ場であるとされ、死者の霊魂が行き来する霊場になりました。高野山もそうであることから「奥の高野」と呼ばれました。

もちろん雄島は歌枕。百人一首の殷富門院大輔の歌はご存じでしょう。
 
 見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらじ

本歌は、黒塚の段ででてきた源重之のこの歌。

 松島や雄島の磯にあさりせし 海人の袖こそかくは濡れしか

芭蕉は歌枕・雄島を訪ねながら、こうした色恋の歌には一切触れず、雲居禅師や世をいとふ人々に心をよせています。どうしてでしょう。 

雲居禅師は、瑞巌寺を中興した臨済宗の禅僧。雲巌寺の段にでてきた仏頂和尚の師匠です。雲巌寺も臨済宗の寺でした。仏頂和尚は芭蕉の禅の師匠ですから、雲居禅師は大師匠にあたります。

禅宗は、知識を得ることではなく、悟りを開くことが目的。悟りとは、生きるものの本性である仏性に気づくことであり、仏性とは言葉による理解を超えたものを認識する能力のことだそうです。

悟りは、言葉ではなく、座禅などを通じ感覚的・身体的に伝えられます。が、雲居禅師は、平易な念仏で民衆を教化したという異色の禅僧です。

師匠の師匠であり、感覚的・身体的に伝えられている禅の精神を平易な念仏で人々に伝えたという雲居禅師を芭蕉が慕うのは当然です。

では世をいとふ人はどうでしょう。世をいとふ人としては、すでに須賀川の段で、大きなる栗の木陰を頼む僧がでてきました。世の人の見付けぬ花や軒の栗の人です。

芭蕉が世をいとふ人に心をよせるのは、仏頂和尚に教えてもらった『荘子』の影響です。いわゆる老荘思想のうち荘のほうです。あるがままの無為自然を好み、人為を嫌います。俗世間を離れ、無為の世界に遊び、自由に生きることを求めます。胡蝶の夢です。

禅や『荘子』を学んだことが、蕉風に影響を与えたことは当然でしょう。ものの姿や動きをそのまま平明な言葉で写しとること、やたらと手を加えないこと、いらぬ趣向や工夫を捨て去ること。おくのほそ道の旅を経て芭蕉がつかんだ「かるみ」の考えは『荘子』の考えそのものです。

仏果ならぬ、仏頂を得たことが蕉風飛躍の足がかりになったわけです。先達はあらまほしき事なり。

などと思うほどに、はや日も暮れ、松島の月がのぼりました。続きはまた来週。今夜はストロベリームーンが見られるかな。

2021年6月17日木曜日

仏果を得ず~でも、そんなバカならなってみたい



  念のため、『仏果を得ず』を読み直したら、こんな一文が。

「だがこの場内で本当に生きているのは、不思議なことにいま死にゆかんとする早野勘平ただ一人だ。命を持たぬはずの勘平の人形だけが輝きを放つ。

 俺が語る声も、兎一郎兄さんの三味線も、人形を遣う十吾の息づかいも、客席からの熱気も、すべてが勘平という架空の人物のための糧にすぎない。

 舞台は爆発寸前の高揚を秘め、健はその場に居合わせた人々が、大きな渦に巻き込まれていくのを感じた。抗いようがない。舞台を主導していたはずの自分の声すら、もはや制御不能な巨大な渦の一角となった。

 これが劇だ。時空を超え、立場の異なる人々の心をひとつの場所へ導く、これが劇の力だ。」

この一文に、「はなれて奏でる」で書いたことが端的に表現されています。さすがしをん様、すばらしい。

 みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに

歌枕・しのぶもぢずりの石で、千年以上まえに死んだはずの河原左大臣の霊と歌だけが不易の輝きを放つ。

能因、西行、芭蕉一行やわれわれが、融の起こした大きな渦に巻き込まれていく。歌枕や歌は、時空を超え、立場の異なる人々の心をひとつの場所に導く、これが歌枕や歌の力だ。

こんなことを書くと、かならず「何いってんのあんた、何いっているかわかりません」などという人がでてくる。だいじょうぶ。そういう人にも、しをん様はお言葉を賜ってくださっています。

「『思へばゝこの金は、縞の財布の紫摩黄金。仏果を得よ』
 ああ、哀れなり、忠臣郷右衛門。いつも綺麗事ばかりで道をふみはずさぬあんたは、決してこの境地にたどりつけやしないんだ。勘平の、俺の、すべてを捨て去った、捨てざるを得なかった気持ちは、決してあんたにはわからない。だからあんたは、この劇のなかで一人だ。観客の共感から弾き飛ばされ、どこか遠くをぐるぐるまわりながら、『忠義、忠義』と飽きるまで吼えたてるといい。」

なんという厳しいお言葉。タイトルは忠臣蔵なのに、「忠義、忠義」と言ってんじゃないよ!ってどういうこと?ってかんじです、ははは。いつも綺麗事ばかりで道をふみはずさぬやからたちに、いちど言ってみたい。さぞや胸がすくことでしょう。

こうしていつものように、本の帯にあるとおり「でも、そんなバカならなってみたい」という気持ちにさせられたのでした。

2021年6月14日月曜日

末の松山


沖の石からすこし歩くと、末の松山に着きます。末の松山も有名な歌枕。どんな大波でもここを越えることはないとされます。それを踏まえて

 君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ 東歌

わたしが浮気をするようなことになれば、末の松山を波も越えることでしょう(そういうことはないですよ)。

これを本歌にして、ひねったのが清原元輔の有名な歌  

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 

詞書に「心変はりて侍りける女に」とあります。清原元輔の歌は百人一首でみなさんもご存じのことと思います。元輔は清少納言の父で、『後撰和歌集』の撰者、当時を代表する歌人・歌学者。

この歌をさらにひねったのが芭蕉のおくのほそ道。

 末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松間々皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの末も、つひにはかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竈の浦に入相の鐘を聞く。

「翼を交はし枝を連ぬる契り」は、白居易の「長恨歌」から。白居易は、清少納言の『枕草子』に香炉峰の雪ならんと中宮定子が尋ねた際のもととなった漢詩の作者。

「長恨歌」は玄宗皇帝と楊貴妃の愛を歌ったもの。その契りの言葉。

 天に在りては願わくは比翼の鳥となり
 地に在りては願わくは連理の枝と為らんと

「地上の星」の歌詞みたいですが、比翼の鳥は、夫婦が一枚ずつの翼で並んで飛ぶ鳥。連理の枝は、二本の木でありながら枝が繫がっているものです。

若いころ絶対あだし心をもたないよと契った恋人たち、翼を交わし枝を連ねる契りを結んだ夫婦。不易の愛を誓った彼らも、ついには墓に入ってしまうのだなぁ、悲しいなぁ・・ごーん。

ところで「まつ山のなみ」は古今集の仮名序にも出てくる有名事件。869年の貞観津波を踏まえているとされます。その津波の際に末の松山を波が越えなかったことから歌枕になっているとか。

東北大震災の津波も、末の松山を越えることはなかったといいます。こうした津波をめぐる伝承を不易のものとして語り継ごうという動きもでているようです。

2021年6月6日日曜日

笠島ー朽ち人の不朽の名

 


蔵王山を下山すると白石、そこから奥州街道(いまの国道4号線)を北上すると、まずは武隈(岩沼)です。ところが、おくのほそ道の本文では、その先にある笠島の段になっています。

道に迷ったという説もあるようですが、曽良の随行日記でも道迷いはありません。やはり、文学的な必要性による前後入替えと思います。ここでも芭蕉にしたがって、まず笠島にまいりましょう。

 笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人に問へば、「これより遙か右に見ゆる山際の里を、簑輪・笠島といひ、道祖神の社・形見の薄、今にあり」と教ふ。

またまた登場、藤原実方です。小倉百人一首51番に、かくとだにの歌が採られていました。そして、中宮定子、同彰子の夫であった一条天皇に「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられ、奥州まで下ってきた彼です。

「歌枕を見てまいれ」という言葉が頭のなかで鳴り響いたために、芭蕉も歌枕を見る旅にでたのでしょう。芭蕉の実方びいきは、ここら辺が原因かもしれません。

まずは復習。実方の最初の登場は、室の八島でした。室の八島の煙にちなんで、次の歌を詠んでいました。

 いかでかは思ひありとも知らすべき 室の八島の煙ならでは

つぎは浅香山の段。端午の節句なのに、奥州には菖蒲がありませんでした。しょう(ぶ)がないので、代わりに花がつみを軒にさしました。芭蕉も、実方にならって花がつみを探し回りました。

そしてここ笠島が実方の旅の終着点です。ここには道祖神の社があります。旅の神です。おくのほそ道の冒頭、芭蕉も「道祖神の招き」にあっています。

神社にはどこでも「下馬」と書かれていますが、実方は社前を乗馬のまま通ろうとして神罰を受け、死んだとされています。

辞世の歌

 陸奥の阿古耶の松を尋ねわび 身は朽ち人になるぞ悲しき

約200年後、この実方の墓を西行が訪れています。西行は2度も奥州を訪れています。そして実方を偲んで次の歌を詠んでいます。

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて 枯野の薄かたみにぞ見る

かくて里人が芭蕉らに「道祖神の社・形見の薄、今にあり」と教えたわけです。

実方と西行の歌は、不易流行の考えそのものを示しています。芭蕉がいまにいたる不朽の考えにたどり着いた決め手だったかもしれませんね。

 西行の訪問からさらに500年後、芭蕉一行は笠島を歩いています。

ところが、芭蕉は天候・行路不良と体調不良を理由に実方の墓参りをしていません。いわく。

 このごろの五月雨に道いとあしく、身疲れはべれば、よそながら眺めやり過ぐるに、簑輪・笠島も五月雨のをりに触れたりと、

 笠島はいづこ五月のぬかり道

五月雨は旧暦五月の雨なので、いまでいえば6月の梅雨の雨のことです。ここでも芭蕉は体調不良を訴えています。飯塚温泉で発症した病をひきづっていたのかもしれません。

この病気を訴える飯塚温泉の段につづけたいためというのが、笠島と武隈(岩沼)をひっくり返した理由の一つでしょう。

でも、簑輪の簑、笠島の笠、どちらもレインウエアであり、五月雨の季節に関係すると、俳味を感じ句に結び付けるところはさすがです。

2021年5月10日月曜日

浅香山

 

時間があれば、裏磐梯を観光していきたいところですが、師匠に叱られてはいけませんので、いそいで戻り、芭蕉一行に追いつきましょう。芭蕉はどのへんでしたでしょうか。

等窮が宅を出でて五里ばかり、檜皮の宿を離れて、浅香山あり。そうそう、ここでした。浅香山は檜皮(ひはだ)ならぬ、日和田(ひわだ)駅で降ります。

浅香山は有名な歌枕。歌は万葉集のこれ。

 浅香山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに
 (浅香山の影さえ見えてしまう山の井のような、浅い心を私はもっていません)

この歌には注がつけられていて、言い伝え。葛城王が陸奥国に派遣されたとき、国司の接待が怠慢だったので、王は怒りの色を面にあらわしました。そこで前は采女だった雅たる娘が水瓶で王の膝を撃ちながらこの歌を詠みました。すると王は機嫌をなおして喜びましたとさ。葛城王は、日本史の教科書に登場する橘諸兄のことです。

古今集の仮名序に「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」とありますが、猛き権力者の機嫌を和らげたのは歌でした(もちろん歌の魅力だけでなく、采女の魅力もおおきく作用したことでしょう)。

そのせいか、古今集の仮名序に、この歌は、歌の父母の様にてぞ、手習ふ人の初めにもしけるとあります。手習のお手本だったのですね。また紫香楽宮跡の木簡にこの歌が記されていたという記事も、記憶にあたらしいところです。

ですが、芭蕉はここで橘諸兄にも采女にも触れず、藤原実方を召喚しています。このシリーズの最初のほう、室の八島で覚えていてくださいと言った例の貴公子です。

福岡では左遷された悲劇の人として菅原道真が圧倒的な知名度と人気です。東のほうではどうでしょう。すくなくとも芭蕉の頭のなかでは、藤原実方が圧倒的な人気です。みなさんも小倉百人一首のこの歌はご存じでしょう。

 かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを

日本百名山の伊吹山がでてくるので、ぼくも大好きな歌です。このような歌が詠める実方は女子によくもてたようで、あの清少納言とも交際していたと伝えられています。

ところが実方は和歌について藤原行成と口論になり、怒って行成の冠を投げ捨ててしまいました。運の悪いことに、一条天皇がこれを目撃していてその怒りをかい、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたのだそうです。

一条天皇といえば、清少納言がつかえた中宮定子と、紫式部がつかえた中宮彰子の夫君。「歌枕をみてまいれ」とは、さすが左遷命令も雅です。

陸奥では節句に人々が菖蒲を葺かないので、実方がなぜかと問うたところ、陸奥には菖蒲が生えておらず、そのような習慣もないとの返事でした。そこで実方は浅香沼には花かつみがあるので、菖蒲の代わりにそれを葺くよう命じたのだそうです。彼がそう考えた根拠も古今集掲載のこの歌です。

 みちのくの浅香の沼の花かつみ かつ見る人に恋ひやわたらむ

こうして芭蕉は、いづれの草を花がつみとはいふとぞと、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。沼を尋ね、人に問ひ、「かつみかつみ」と尋ね歩きて、日は山の端にかかりぬ・・・。

ここで芭蕉はガッカリしました。あれだけ(和歌の世界では)有名な浅香沼の花がつみを地元の人は誰も知らないというのです。いまでいえば、小便小僧、人魚姫、マーライオンを見たときの海外旅行者の気持ちでしょうか。あるいは、「フランダースの犬」でネロがどうしても見たかったルーベンスの絵が地元ではいまひとつ人気がないことを知った旅人の気持ちでしょうか。

芭蕉はこのあとも歌枕を訪ねるたびにガッカリ体験に遭遇します。なぜ、こうなのだろう、どう考えればよいのだろう・・・。ご心配なく、芭蕉はここから不易流行の考えにたどりつくことになります。さすが考えが浅かないですね。

2021年4月15日木曜日

どいつもこいつも、雲巌寺(1)

 


芭蕉の旅は、各地の歌枕を訪ねる旅だけれども、各地のお弟子さんを訪ねる旅でもありました。いまでいえば、お相撲さんや歌舞伎俳優が各地をめぐって、芸を披露しつつ、タニマチさんの接待を受けるようなものでしょうか。

夏井先生が九州一周の旅にこられれば、われわれもきっと大歓迎。句会を開きつつ、二日市温泉・大丸別荘にて心からのもてなしをすることでしょう。そんな感じだと思います。

夏井先生と違いテレビのない時代、江戸で活躍していた芭蕉に、たくさんのお弟子さんたちが各地にいた理由は、参勤交代によるものでしょうか。

芭蕉が那須野を横切ってむかったお弟子さん宅は、黒羽の城代家老である浄法寺さんのところ。黒羽はいまの大田原市、城代家老はいまの副市長さんあたりでしょうか。

浄法寺さんの接待がよほど気にいったのでしょうか?おくのほそ道の旅のなかで、黒羽逗留がいちばん長くなります。そのため記事もおおく、①玉藻の前・那須の与一、②雲巌寺、③殺生石ー那須温泉の3つもあります。

本来、この順に紹介すべきでしょうが、前項でトミーが投げてきたボールを受けとめるため、一つとばして雲巌寺の話からはじめます。

雲巌寺、ごぞんじでしょうか?おそらく芭蕉ファン以外、九州の人は誰も知らないのではないでしょうか。

でも、東日本のおっさんたちは知っています。なぜなら、JR東日本・大人の休日倶楽部のCMで、吉永小百合がここを訪れ、歩いたからです。

それ以来、東日本のおっさんたちは、どいつもこいつも、一度は雲巌寺を訪れ、吉永小百合と歩いてみたいとあこがれるようになりました。

知らなかった人は、雲巌寺×吉永小百合で検索して動画を見てください。訪ねてみたくなること請け合いです。えっ、おまえはどの吉永小百合と歩いたのかって?さぁ?