2023年9月6日水曜日
慈覚大師・圓仁『入唐求法巡礼行記』
2021年6月30日水曜日
瑞巌寺(1)
十一日、瑞巌寺に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎、出家して入唐、帰朝の後開山す。
瑞巌寺といえば、われわれが小学生のときは、音楽の副読本により、民謡「斎太郎節」を習いました。♪エンヤードット 松島~の 瑞巌寺ほどの 寺もない~という。ドリフターズがアレンジしたやつです。いまはもう習わないのでしょうか。
いま瑞巌寺は、奥州平泉の中尊寺、毛越寺、出羽の立石寺とともに「四寺回廊」という観光・巡礼コースになっています。
このあたりのお寺はだいたい慈覚大師・円仁が創建したとされています。円仁は最澄のあとをついだ天台宗の高僧で、上記四寺はみな円仁の創建と伝えられています。
ところが瑞巌寺は現在、臨済宗のお寺。黒羽の雲巌寺、京都の妙心寺や博多の聖福寺などとおなじです。あれれ。いつのまに。
瑞巌寺はもともとは天台宗だったところ、鎌倉時代のなかごろ、臨済宗になっています。その際の開山が芭蕉のいう真壁の平四郎あらため法身禅師です。
時代は5代執権・北条時頼のとき。かれは、水戸黄門のモデルになった人で(つまり、水戸光圀本人は諸国を漫遊するような人ではなかった)、諸国を旅して民情視察を行ったという廻国伝説があります。
能『鉢木』の題材にもなっていて、日本史の教科書にコラムで紹介されていました(ご恩と奉公の封建関係を示す逸話として)。いまはどうでしょう。北鎌倉などを散策していると、精進料理屋の看板に見かけますが。
ある雪の日、旅の僧が上州で難渋して、貧乏武士である常世の家に宿を請いました。常世は、たいせつにしていた梅、桜、松の鉢の木を薪にして暖をとり、貧しいながらできるかぎりのもてなしをします。そして零落し貧しくとも鎌倉武士のはしくれとして、「いざ、鎌倉」のときは鎌倉にはせ参じるつもりだと話します。
後日、関東武士団に鎌倉集合の号令がかかりました。集まった武士のなかに、痩せ馬に乗った常世の姿もありました。旅僧はじつは北条時頼。水戸黄門でいえば「ええい、ひかえ、ひかえい。ここにおわすはどなたとこころえる・・。」の場面です。時頼は常世の奉公に対し、梅、桜、松の名のつく領地を与えます。
この時頼が瑞巌寺あたりを廻国した際、法身に命じて、天台宗から臨済宗にあらためさせたのだとか。中世ですからお寺も領主さま、時頼としては自分の息のかかった寺にしたかったのでしょうね。
ところで『鉢木』の名台詞のなかに「松はもとより煙にて、薪となるも理や」というのがあります。それが江戸時代、徳川家=松平氏に遠慮して、「松はもとより常磐にて、薪となるは梅桜」と変えられていたとか。
江戸時代の人たちは、言葉や名前を大切にし、言霊とかも信じていたのでしょうね(もちろん、言論の不自由もあったでしょうが)。ここらあたりに、松尾・芭蕉が松や松島がだいすきだった理由の一端があったのでしょう。この線で行くと、彼は松の尾、徳川=松平の隠密だったという説の傍証にもなりそうです。ははは。
2012年11月25日日曜日
行き行きて
山仲間のM・K夫婦が
立石寺を訪ねたと聞いた。
MKはタクシー会社ではなく
MさんとKさん。
破天荒なMさんをKさんがけなげに支える
おしどり夫婦だ。
立石寺は
みちのく山形にある山寺。
創始者は慈覚大師=円仁
天台宗の開祖・最澄の高弟…。
というより,岩にしみいる蝉の声
の句で有名だ。
『おくのほそ道』
の不朽の名句だ。
閑寂な宇宙
のひろがり。
わずか5・7・5文字で表現するとは。
すばらしい。さすが。
『おくのほそ道』は春から秋にかけて
東北から北陸を経て中部・大垣までの紀行文。
旅をすみかとした芭蕉の傑作
古典では一番好きな作品だ。
同行者は
弟子の曽良。
温厚篤実で
すぐれた秘書。
コースの下調べ,資料収集,旅費の会計
などを担当し,『随行日記』を書きのこした。
(例により角川文庫
ビギナーズ・クラシックス参照)
夫婦の旅のたよりに誘われて
漂白の思ひやまず『おくのほそ道』を再読。
月山に登り,湯殿に下ったくだりまで読んだところで
ことしの山の会の納会が開かれた。
場所はMK夫婦のご自宅
Kさんの手料理によるもてなしだ。
電車でいっしょになったSさんと
訪れると,さっそく読書談議となった。
Kさんが読んでいるのは『平家物語』
やはりダジャレがいっぱいだ!だとか。
Sさんは『本屋さんで待ちあわせ』。
この話はのちほどまた。
ボクは『おくのほそ道』を読んでいて
月山から湯殿さんへ下ったところだと披露した。
Kさんは意外にも
曽良に思い入れを感じると応じた。
えっ!『おくのほそ道』って
芭蕉に感情移入して読むものでは?
でも,よく考えると意外でも何でもない。
Mさん=芭蕉,Kさん=曽良の構図だから。
そうか
そうか(納得)。
そういえばこの話
どっかでもあったなぁ…?
そう。
『ニュー・シネマ・パラダイス』!
ローマ在住の大物映画監督サルヴァトーレは
故郷の母からある訃報を受ける。
そこから彼は,映画に魅せられた少年時代
~青年時代の恋愛へ思いをはせる。
この流れからして,この映画
サルヴァトーレに感情移入するようにつくられている。
でも,ある女性(1男の母)は
故郷の母に感情移入してしまうらしいのだ。
ふつう小説や映画,お芝居は主人公がいて
そこへ感情移入するようつくられている。
これがうまくいかないと
作品にのめり込めない。
よい作品ほど主人公に感情移入しやすい
つくりになっている。
だから,主人公以外の登場人物に
感情移入することはむずかしい。
でも,たしかに作品の鑑賞のしかたは
ひとさまざま。
母や曽良に感情移入したって
いっこうにかまわない。
“自分が”生きる意味を見つけたり
確認したりすることこそが大事だろうから。
行き行きて倒れ伏すとも萩の原
曽良




