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2024年4月14日日曜日

南東北の雪山(2)鶴岡

 







 南東北の雪山、2日目は月山に登る予定だった。山形から高速バスに乗り、月山湖を目指した。日本海側に近づくにつれ雪が降りしきり、きょうは無理かなと思った。

しかもリサーチ不足で、道路が冬期閉鎖中だったため断念。月山スキー場のオープンが4月12日だったので、それ以降でないと入山できなかった。

しかたがないので、鶴岡観光に切り替えた。鶴岡は芭蕉が出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)を縦走したのち、下山した場所である。

出羽三山だけでなく、朝日連峰を東から西へ以東岳・大鳥池まで縦走すると、やはり下山するのはここである。

高速バスの到着は鶴岡駅横。市内は歩いて回れる距離感である。駅前の道を南下すると、山王日枝神社に着く。

芭蕉の句碑がある。

 珍らしや山をいで羽の初茄子び

おくのほそ道の旅で、出羽三山をおりた芭蕉は鶴岡藩士長山重行の世話になった。そして珍しいかたちの茄子をご馳走になった。そのお礼の句である。山をいで羽は、出羽山を出た(下りた)ということ。

鶴岡は米どころ・庄内平野の南の拠点。北の拠点は酒田である。芭蕉は鶴岡から酒田へは舟で向かった。大泉橋のたもとに、乗船した場所が名所として残されている(長山重行宅跡も近く)。

スズメたちが1本の木に集まって、かしましくしていた。寒い冬にたえ、庄内米のおこぼれにあずかれる秋をまっているのだろう。

大泉橋からは西に向かう。まもなく鶴ヶ岡城跡だ。城跡といっても城壁がすこしで、建物は残っていない。庄内神社があるのみ。

鶴岡といえば、藤沢周平の出身地。小説中にでてくる海坂藩は、鶴岡がモデルである。記念館がある。藤沢の小説家人生と信念がよく分かった。

あとはお堀を一周してバスセンターへ戻った。ときおり雪が舞う不安定な天気だった。冬の季節風の影響だ。これが山々に雪を降らせ、おいしい水となり、おいしい米、ひいてはおいしい酒となるのだ。

2023年3月23日木曜日

雪の八甲田・岩木・白神(1)

 

 先週の連休は、雪の八甲田山・岩木山・白神岳をめざした。超早割で飛行機を予約しているので、天気予報が悪くても変更できない。直前の天気予報では1日目がA判定、それ以後はC判定だった。どうなることやら、ワクワクした。

まずは青森へ。直行便はないので、羽田乗り継ぎ。席はA18、左窓側である。羽田まで富士山は見えたが、春のせいかぼんやりとしていた。

羽田からもA18、やはり左窓側である。気づくと山形上空だろうか、朝日連峰とおぼしき山々が白銀に輝いていた。すると、あれは月山か。あれれ、鳥海山はどこじゃいな。

などと思っているうちに、独立峰の白銀がみえてきた。あれは岩木山に違いない。平野は津軽平野。明後日、登る予定の山だ。いや~登る前からテンション・マックス。さて冒険か、挑戦か、はたまた・・・。はじまりはじまり。

2021年10月7日木曜日

鶴岡ーおくのほそ道拾遺②

。
 





 芭蕉一行は、最上川をくだって、羽黒三山へ行った。しかし今回の旅はそこまで足をのばす時間がなかったので、そこは鳥海山から望む月山で。

 雲の峰幾つ崩て月の山

 羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て、酒田の湊に下る。

鶴岡のくだりはこれだけ。50文字弱。鶴岡観光協会としては、もっと書いておいてくれというかんじだろう。

芭蕉は、羽黒をくだり、左吉の案内で鶴岡にやってきた。左吉は羽黒のところで出てくる。長山宅に来たのは、左吉と縁者だから。

当方は最上川くだりを終えて、古口駅から余目駅をへて鶴岡駅に到着。途中、庄内平野の収穫前の稲穂の波がみごとだった。

鶴岡駅前には、稲穂をかつぐ親子のモニュメントがある。そして民謡が流れている。さすが庄内平野、米どころだ。

鶴岡には過去3回来たことがあった。2度は羽黒三山に登ったとき、1度は朝日連峰を縦走したときだ。いずれも素通りで、市内観光は初めて。

駅前をまっすぐ歩くと、やがて山王日枝神社につく。神社の脇に、芭蕉の句碑がある。

 珍しや山をいで羽の初茄子び

またしばらく街中を歩く。文化の香りのする街とそうでない街がある。鶴岡は前者だ。人口12万人余だから筑紫野市とそう変わらない。しかし立派な古本屋がある。文化の香りがする街と認定しても間違いなかろう。

古本屋からすぐのところに長山重行宅跡がある。といっても、すこし探した。途中、2か所ほど案内板があった。いたってシンプル。「長山重行宅跡」とだけある。芭蕉ファンでなければ、なんのことか分からないだろう。

長山重行宅は「物のふの家」というからには武家だったろうが、いまは狭い庭ふうのしつらえがあるだけ。そしてまた句碑がある。ここもやはり

 珍しや山をいで羽の初茄子び

この句は実際にはここで詠まれたもの。出羽三山をでて鶴岡に来たので、山をいで羽。鶴岡名産の民田茄子。江戸人にはめずらしかったろう。ご馳走ありがとう。俳諧一巻有とあるが、ここに3日間逗留している。

酒田へは川舟を利用している。長山邸ちかく、内川に橋がかかっている。ここにある乗船地も史跡になっている。芭蕉がとおれば、乗船地さえすべて史跡となるのだ。すごい。

2021年10月5日火曜日

鳥海山登山記(2)


  鉾立にある象潟口登山口を出発し、賽の河原を経て、2時間登ると御浜小屋に着く。小屋裏から西を望むと、鳥海湖がある。深いブルーに輝いている。その奥には月山が遠く裾野をひろげている。西側には庄内平野が広がっている。ちょうど稲穂が垂れ、黄金色に波打っている。その右手は日本海だ。

 この一望で、日本海から冬の季節風が月山と鳥海山に大量の雪を降らせ、その雪解け水が川や伏流水となって庄内平野をうるおし、それがおいしい米を育てていることが分かる。庄内平野の右手前が酒田の町だ。酒田は庄内米を上方に運び、廻船問屋が繁盛した。


 御浜小屋から、扇子森を経て、八丁坂を登り、七五三掛まで1時間余。そこから右手の外輪山コースと左手の千蛇谷コースにわかれる。千蛇谷にいったん下る。雪渓をわたると、あとは山頂手前の大物忌神社まで1時間20分の登りである。中央のギザギザが山頂。山頂部までなだらかな稜線が美しい。紅葉まであとすこし。右上に見えているのは外輪山である。

 大物忌神社で休憩。
 大きな岩がゴロゴロ積み重なるなか、両足両腕を総動員して30分登ると、新山山頂である。2236メートル、東北第2位の高峰だ。雲海のうえに突き出て、まるでナウシカかラピュタな景色が爽快だ。新山は1801年の噴火の際、隆起したもの。火山の歴史からすれば新しく、まだ岩だらけだ。「北アルプスの岩稜よりすごい!」と、登頂した人たちが興奮している。


 新山登頂後は、大物忌神社まで引き返して昼食。そして神社の裏にまわって、外輪山の急坂を登る。きょう最後の登りだ。
 外輪山の稜線からは、東のほう、岩手の山々がのぞめるはずだが、きょうはどこまでもつづく雲海におおわれている。それもまた気持ちがいい。


 外輪山を時計回りに周回する。20分ほどで伏拝岳に達する。いま登ってきたばかりの地元のご夫婦が絶景に歓喜している。独り占めもいいが、感動は共有するとより大きくなる。

 名残りおしいが、ここから川原宿・湯ノ台方面に下山だ。固有種であるチョウカイアザミが咲くことから名付けられた薊坂をぐんぐん下る。心字雪渓を下る必要はなかった。1時間15分で、ようやく河原宿。さらに湯ノ台道を下る。こんなに長い坂だったか。7年前の記憶と照合するが、うまくあわない。30分ほどで下山口の滝の小屋到着。ふう。

 すばらしい一日だった。
 写真では100分の1の爽快さも伝わらないかもしれないが、イメージをひろげてくだされ。

2021年10月4日月曜日

鳥海山登山記(1)

 

 白神岳登山口から五能線を戻り、東能代、秋田で乗り換えて、象潟に泊まった。

ここでもコンビニまで片道20分以上も歩かなければならなかった。コンビニエンスな生活に馴らされてしまって、こういう環境にさえ不便を感じる。もはや山中にこもっての修行など到底かなわない。

 翌日は鳥海山をめざした。ここまで来て、白神岳だけに登って帰るのはいかにももったいないから。

鳥海山は秋田と山形にまたがる日本百名山。標高2236m。日本海からすっくと立ち上がった独立峰。なだらかな稜線が美しい。出羽富士とも秋田富士とも呼ばれる。

遠目には富士山のように美しい円錐形だが、踏み入ると複雑な地形になっている。なんども噴火をくりかえした結果だ。山頂部は1801年に隆起し、いまだ大きな岩が積み重なっている状態だ。

冬に日本海からふきつけるしめった季節風が大量の雪を降らせる。そろそろ初雪が降ろうかというこの季節になっても、山腹のあちこちに雪渓が残っている。

大量の雪は迷惑なだけの存在かというと、そうでもない。恵みももたらす。春になれば雪解け水となり、川や湧水となって里を潤す。米どころ、庄内平野の米はこの水によっている。水がおいしいから米もおいしい。

酒田は江戸時代に「西の堺、東の酒田」といわれたぐらい栄えた(『日本永代蔵』)。廻船問屋が庄内米を上方に運んだからだ。米だけでなく、紅花も運んだ。

鳥海山に登るのは2回目だ。前回は7年ほど前、山形県側から登った。登山口にある滝ノ小屋に一泊。月山を下山して鶴岡から迂回したので、遅い到着だった。同宿に福島大学の労働法の先生とそのお連れ合いがいた。管理人が歌詞カードをもちだしてきて、山の唄を歌った想い出がある。

今回は逆コース、秋田県側から登り、山形県側にくだった。秋田県側の登山口も複数あるが、鉾立にある象潟口を選んだ。

鉾立の地名は九重山にもある。朽網分れから登り、白口岳と立中山の間の峠だ。むかし巻狩りをしたあとらしい。

巻狩りといえば、源頼朝がおこなった富士の巻狩りが有名だ。なぜなら、武士の軍事演習としての意味もあり、頼朝の威勢を示すため70万人が参加したともいうし、曾我兄弟の仇討ちの舞台ともなったから(『吾妻鏡』『曽我物語』)。

鉾立という場所は、サッカーのゴールのようなもの。そこに鉾を立てて、網を張っていたらしい。動物をそこに追い込んで捕まえるのである。魚の追い込み漁のようなものだ。九重や鳥海でもおなじようなことがおこなわれたのだろう。

鉾立はすでに5合目である。降り口である滝ノ小屋もおなじく五合目くらいだから楽そうだが、じつはそうでもない。コースタイムは7時間もある。稜線が長大だからだ。前日の白神岳登山の疲れものこっている。登れるだろうか。

雲ひとつない好天だ。さあ、がんばって登ろう!

2021年8月1日日曜日

出羽三山ー月山・湯殿山

 
(月山)


(ハクサンチドリ)


(山桜)


(湯殿山神社鳥居)

 八日、月山に登る。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月行道の雲関に入るかと怪しまれ、息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月顕る。笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。
 谷のかたはらに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、霊水を選びて、ここに潔斎して剣を打ち、つひに月山と銘を切って世に賞せらる。かの竜泉に剣をにらぐとかや、干将・莫耶の昔を慕ふ。道に堪能の執浅からぬこと知られたり。岩に腰掛けてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ば開けるあり。降り積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花の心かわりなし。炎天の梅花ここにかをるがごとし。行尊僧正の歌のあはれもここに思ひ出て、なほまさりておぼゆ。総じてこの山中の微細、行者の方式として他言することを禁ず。よって筆をとどめて記さず。
 坊に帰れば、阿闍梨の求めによりて、三山巡礼の句々、短冊に書く。

 涼しさやほの三日月の羽黒山

 雲の峰いくつ崩れて月の山

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな

 湯殿山銭踏む道の涙かな 曽良

 尿前の関の段で、そこが初折りと名残りの切れ目であり、市振の関までが宇宙めぐり、宇宙、太陽、月、銀河がテーマとなると書きました。

いよいよ日月行道の雲関を越えます。さすれば、日没して月顕れ、月の山となります。

月山は標高1,984メートルの日本百名山。山頂には月山神社があります。花の百名山にも選ばれており、選定理由となった花はウズラバハクサンチドリ。

俳諧の求道者である芭蕉は、他の分野の求道者にもつよい親近感を覚えています。『笈の小文』の冒頭、つぎの文があります。

 つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。

ここでは刀鍛治の求道者。刀を打つことにも道はあります。貫道するものは一つです。刀剣には国宝に指定された芸術品があります。月山の銘を刻んだ刀剣は機能性とデザイン性の高さで全国に広まりました。

山中で芭蕉たちをもてなしたのは山桜です。行尊僧正の歌は百人一首に採られています。

 もろともにあはれと思へ山桜 花より外に知る人もなし

湯殿山はいまでも「語るなかれ、聞くなかれ」、写真撮影禁止。世界遺産となった宗像大社の沖ノ島とかもそうです。秘すれば花なり(世阿弥『風姿花伝』)。

2021年7月19日月曜日

山刀伐峠ー切れ

(奥羽山脈・栗駒山) 


(最上の庄、晴れていれば向こうに月山が見える)

 あるじのいはく、これより出羽の国に大山を隔てて、道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと言ひて人を頼みはべれば、究竟の若者、反脇差を横たへ、樫の杖を携へて、われわれが先に立ちて行く。今日こそ必ず危ふきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後に付いて行く。あるじの言ふにたがはず、高山森々として一鳥聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩に躓いて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せし男の言ふやう、「この道必ず不用のことあり。恙なう送りまゐらせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞こえてさへ、胸とどろくのみなり。

尿前の関は奥州と羽州の境にある関。奥羽山脈は奥州と羽州の境にある山脈。奥州は福島、宮城、岩手、青森、羽州は山形、秋田です。鳥の羽を献上したのが由来らしい。鳥の羽は矢羽根に使われ、つまり当時の軍需物資だったんですね。

奥州から羽州へ越える峠を越えるため、山刀(ナタ)でぶった切りました。これにより、初折りと名残りの折りの間の「切れ」はより鮮やかになりました。

むかしはわが家にもナタがありました。ノコギリやカンナとともに。当時は藪があちこちにありナタが必要でしたが、最近は見なくなりましたね。

一鳥聞かずは、王安石の「鐘山即事」からの引用、「山更に幽なり」と続きます。雲端につちふるは、「杜甫」の「鄭附馬宅宴洞中」からの引用。木の下闇は夏の季語から。自在です。

最上の庄は最上川が流れているところです。最悪の道中を経て、最上の庄に着きました。

2012年11月25日日曜日

行き行きて





山仲間のM・K夫婦が
立石寺を訪ねたと聞いた。

MKはタクシー会社ではなく
MさんとKさん。

破天荒なMさんをKさんがけなげに支える
おしどり夫婦だ。

立石寺は
みちのく山形にある山寺。

創始者は慈覚大師=円仁
天台宗の開祖・最澄の高弟…。

というより,岩にしみいる蝉の声
の句で有名だ。

『おくのほそ道』
の不朽の名句だ。

閑寂な宇宙
のひろがり。

わずか5・7・5文字で表現するとは。
すばらしい。さすが。

『おくのほそ道』は春から秋にかけて
東北から北陸を経て中部・大垣までの紀行文。

旅をすみかとした芭蕉の傑作
古典では一番好きな作品だ。

同行者は
弟子の曽良。

温厚篤実で
すぐれた秘書。

コースの下調べ,資料収集,旅費の会計
などを担当し,『随行日記』を書きのこした。

(例により角川文庫
ビギナーズ・クラシックス参照)

夫婦の旅のたよりに誘われて
漂白の思ひやまず『おくのほそ道』を再読。

月山に登り,湯殿に下ったくだりまで読んだところで
ことしの山の会の納会が開かれた。

場所はMK夫婦のご自宅
Kさんの手料理によるもてなしだ。

電車でいっしょになったSさんと
訪れると,さっそく読書談議となった。

Kさんが読んでいるのは『平家物語』
やはりダジャレがいっぱいだ!だとか。

Sさんは『本屋さんで待ちあわせ』。
この話はのちほどまた。

ボクは『おくのほそ道』を読んでいて
月山から湯殿さんへ下ったところだと披露した。

Kさんは意外にも
曽良に思い入れを感じると応じた。

えっ!『おくのほそ道』って
芭蕉に感情移入して読むものでは?

でも,よく考えると意外でも何でもない。
Mさん=芭蕉,Kさん=曽良の構図だから。

そうか
そうか(納得)。

そういえばこの話
どっかでもあったなぁ…?

そう。
『ニュー・シネマ・パラダイス』!

ローマ在住の大物映画監督サルヴァトーレは
故郷の母からある訃報を受ける。

そこから彼は,映画に魅せられた少年時代
~青年時代の恋愛へ思いをはせる。

この流れからして,この映画
サルヴァトーレに感情移入するようにつくられている。

でも,ある女性(1男の母)は
故郷の母に感情移入してしまうらしいのだ。

ふつう小説や映画,お芝居は主人公がいて
そこへ感情移入するようつくられている。

これがうまくいかないと
作品にのめり込めない。

よい作品ほど主人公に感情移入しやすい
つくりになっている。

だから,主人公以外の登場人物に
感情移入することはむずかしい。

でも,たしかに作品の鑑賞のしかたは
ひとさまざま。

母や曽良に感情移入したって
いっこうにかまわない。

“自分が”生きる意味を見つけたり
確認したりすることこそが大事だろうから。

  行き行きて倒れ伏すとも萩の原
                       曽良