2017年12月17日日曜日
『雪国』と『おくの細道』と銀河
山歩きをしていると,高山植物や山岳の美しさだけでなく,真っ赤な日没,日の出,流れる雲,キラキラする空気や天空の美しさにも心を奪われます。
山小屋に泊まると,夜中にごそごそ起きだす人たちがいます。用をたしにいくのかと思いきや,外できゃーとか言っています。なにをしているのかというと星空を嘆賞しているのです。もう満天の星空,降るような星々です。忘れていた子どものころの記憶が鮮やかによみがえります。
こんかい『雪国』をよみかえしてみて思ったのは,能の理解による読みの気づきだけではありません。人間ドラマの背景として描かれている自然の美しさにも瞠目しました。上越国境の山々,雪山の美しい情景は見たことのある人とない人では,やはり感動のしかたがちがうと思います。そして芭蕉の句のあざやかな援用。悲劇的な結末の場面。
「天の河。きれいねえ。」
駒子はつぶやくと,その空を見上げたまま,また走り出した。
ああ,天の河と,島村も振り仰いだとたんに,天の河のなかへ体がふうと浮き上がってゆくようだった。天の河の明るさが島村を掬い上げそうに近かった,旅の芭蕉が荒海の上に見たのは,このようにあざやかな天の河の大きさであったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして,すぐそこに降りてきている。恐ろしい艶めかしさだ。島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりでなく,ところどころ光雲の銀砂子も一粒一粒見えるほど澄み渡り,しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで行った。
『雪国』より
2017年12月13日水曜日
『ニュー・シネマ・パラダイス』と『雪国』と能
一人息子(高校生)がいる女性と『ニュー・シネマ・パラダイス』の話題となった。その人によると,あの映画をみるときには,主役の映画監督ではなく,映画監督の母親の視点でみてしまうのだそうだ。
そのときは,それはかなり変則的な見方ではなかろうかと思った。映画は(小説などでも)観客が主役に感情移入して観るものであり,そうならなかったとしたら,作者なり制作者の失敗ではないだろうか。でもまぁ,映画なんて楽しんでなんぼだから,息子がいる母親が,話中の母親に感情移入して楽しむのもありかなぐらいに思った。
しかし,今般,認識をあらためた。フェイスブックでやりとりをするなかで『雪国』が話題になったので,あらためて読みなおしてみた。これまでには気づかなかった点に,いろいろ思い当たった。なかでも,主人公と思っていた島村に関する注解(郡司勝義,新潮文庫175頁)。川端康成「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで,ただ駒子をうつす鏡のようなもの,でしょうか。」(昭和43年12月『雪国』について)。能でいえば駒子のシテに対するワキといえようか。
能を知らなければ,この注解は意味不明だろう。少しでも囓れば,明白である。能における主役はシテである。この世に未練を残し,成仏できない霊的な存在であることが多い。これに対するワキは,諸国一見の僧であることが多く,シテを呼びだし,その鎮魂を行う存在である。つまり,主役は駒子(その純な生きざま)なのである。島村は彼女とその渦巻く感情を呼びだし,その純粋さを読者に伝える存在にすぎない。それであれば,島村に感情移入しているだけでは大事なことが見えない。このように理解して『雪国』を読めば,いろいろなことが見えてくるし,理解できるところもでてくる。なるほどなるほど。
そういう立場に立てば,『ニュー・シネマ』についても,母親を主役として鑑賞することもあり得るように思えてきた。むしろ日本人の見方としては多数派なのかもしれない。少なくとも,伝統に忠実な見方といえるかもしれない。あるいは,企業などで社長型と参謀型・秘書型にパーソナリティが分かれるとすれば,後者の人たちはこのような鑑賞のしかたをしているのかもしれない。
西欧人には主体性があるが日本人には主体性がないとかいう議論も,少なくとも中世以来のこのような日本人の心性と深くかかわっているのではなかろうか(飛躍しすぎ?笑)。
2013年3月28日木曜日
天城山で出あったもの(3)
天城山で出あった,その3は
ブナの樹と美林ですね。
ときおりヒメシャラをまじえながら
道中ずっとブナの樹や美林がみごとでした。
日ごろのストレスやなんかが
癒され浄化されていくようでした。
樹や自然林をみて,われわれが癒されるのは
自然とともにあった太古の記憶と関係しているのでしょうか。
スギやヒノキが建築材として
有用であることは事実でしょう。
でも日本の植林の現状や花粉症もちとしては
もっと自然林に戻してもらいたいものです。
さて,天城隧道や天城越えが
作家や作詞家をインスパイアしたのはなぜでしょう?
暗いトンネルの通過や山越えが
青年期の通過儀礼の比喩となっていることもあるでしょう。
男女間の一線を越えるという感じも
あるかもしれません。
峠やトンネルが
境界であるという意味もあるでしょう。
それまで住み慣れた世界
と見知らぬ異界との間の。
そこを通過し,越えることによって
それまでと違う人間に異化されるわけです。
異化されることにより
生まれ変わる,生かされることもあるでしょう。
そういえば,川端康成には
『雪国』という小説もありました。
「トンネルと抜けると
そこは雪国だった…。」
主人公の島村が駒子に会ったのは
山歩きをした後に温泉場を訪れた時のことでした。
さいきんでは,『千と千尋の神隠し』でも
トンネルの向こうは不思議の町でしたーとなってますね。
かくて天城隧道,天城山を越えて
わたくしもいささか更新されて帰ってきたのでした。
みなさまも
いかが?
2011年6月19日日曜日
越後(魚沼)駒ヶ岳
あの時はー雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入った頃だった。
あけびの新芽も間もなく食膳に見られなくなる。
無為徒食の島村は自然と自身に対する真面目さも失いがちなので、
それを呼び戻すには山がいいと、よく一人で山歩きをするが、
その夜も国境の山々から7日ぶりで温泉場へ下りて来ると…
川端康成の小説「雪国」の一節ですが、一人の山歩きが
自身に対する真面目さを呼び戻す作用があるといっています。
仲間との山歩きもたしかに楽しい
でも一人の山歩きにもやはり捨てがたい魅力があります。
「雪国」の舞台は越後湯沢なので
この「国境」は上野国(群馬県)と越後国(新潟県)の上越国境です。
国境の山々とは三国山脈のことで、日本百名山だけでも
谷川岳を中心に、巻機山、平ケ岳といった山々でしょう。
巻機山には去年登ったので、ことしはもう一歩北へ足を伸ばして
越後(魚沼)駒ヶ岳(2,003m)に登りました。
新潟県の豪雪地帯に位置し
中ノ岳、八海山とともに、越後(魚沼)三山と呼ばれています。
上越線で北へ向かうと、右手に八海山が屏風のようにそびえ立ち
その背後に、越後駒ヶ岳と中の岳が見え隠れします。
わが事務所の酒飲みが「八海山って、山の名前だったんですか?」
などと、とぼけたことを言ってました(当たり前でしょう!)。
あまり無理はしたくなかったので、枝折峠~小倉山~越後駒ヶ岳
のコースを行きたかったのですが、峠までいまも冬期閉鎖中…。なので
駒ノ湯~小倉山~越後駒ヶ岳のコースを往復(日帰り)することに。
コースタイム12時間、標高差1600mという厳しさ!
夜明け前に駒の湯の登山口を出発
山際やうやう白くなりゆくなか、小倉尾根をやうやう登っていきます。
ブナ、ミズナラなどの高木のなかを登ると、ムラサキヤシオ、タムシバ
サラサドウダン、ホオ、タニウツギなどの花々が迎えてくれました。
小倉山を過ぎると、大きな残雪、雪渓がつぎつぎとあらわれ
シラネアオイ、カタクリ、アズマシャクナゲ、ショウジョウバカマ
イワウチワ、イワカガミ、ナエバキスミレなどの花々が
足もとを彩っていました。
最後の岩場を登って駒の小屋に着いたころまでは晴れていたのですが
小屋辺りからガスってきました。
管理人さんに聴くと
やはり今年は例年になく雪がおおいとか。
ガスのなか、雪渓をのぼり
山頂まで往復しました。
アイゼンまでは必要なく
ストックだけで足りました。
小屋に戻ってひと思案したものの 、天候が怪しいのと
時間がまだ9時だったので下山することに。
途中、ぽつぽつ降りはじめ
小倉山ふきんからは本格的な降りに。
梅雨前線の北側なら大丈夫だと思っていたのに
やはりこの辺りの天候は変わりやすい。
激雨のなか、なんとか気力を奮い起こして
下山しました。
下山後は、駒ノ湯山荘の秘湯で
ひと風呂。あ~極楽、極楽。
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