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2025年3月4日火曜日

倉敷~岡山城~尾道~福山城の旅(5)福山城


 ネット検索の時代である。昼ご飯は本通り商店街からちょっとはずれたところにある広島風お好み焼き屋に入った。口コミでは店主の客あしらいが悪いとけなされているが、評価は4.2とまずまず。これは味は大丈夫という意味だろうと判断し、間違っていなかった。

 さて残り午後の時間をどうしよう?選択肢としては鞆の浦と福山城である。孫連れでもあるので福山城とし、JR線で福山駅まで引き返した。

 

 福山城は福山駅のすぐ北側。道路一本渡ればもう南門へ至る坂である。南門を入ると伏見櫓。天守閣とみまがうばかりだが櫓(やぐら)である。慶長年間に建てられたと推定される伏見城の櫓を1620年に移築したもの(現存)。なぜ、そんな立派なものを移築することができたのか。

 福山城築城まで福山という街はなかった。築城したのは徳川家康の従兄弟の水野勝成。毛利など西国の有力外様大名に対する抑えとして築城。徳川の威信を示すため、幕府の全面的なバックアップが得られたのである。


 もちろん天守閣に登る。残念ながら天守は空襲により焼けてしまっている。昭和41年に復興。

 南側を望むと福山駅が見える。福山駅は昔の三の丸あたり。新幹線や在来線に乗って福山駅に来ると、もれなく旧福山城に入城したことになる。 


 福山駅のさらに南の景色。赤い広告塔がたつ天満屋のビルの左肩あたりが鞆の浦。鞆の浦は近年(でもないか)、ジブリ映画『崖の上のポニョ』で有名になった。

 瀬戸内海の東西から潮が合流する場所で、古来、海上交通の要衝であった。大宰府をめざした大伴旅人、その先唐をめざした空海、最澄が通った。また室町幕府発祥と終焉の地であるとされる。近世では陸上交通の要衝として上記のとおり家康の従兄弟が支配・鎮護した。

 水野勝成はすこし変わりものだったようだ。仕える殿をつぎつぎと変え、家康にも叱られたりした。しかし最後は家康の側近となりこの地を委ねられたのだから、大器晩成といってよいだろう。


 西方。勝成は毛利ら有力外様大名の圧を感じたことだろう。


 北方。


 北面壁には全国唯一、鉄板が張られている。令和の大普請で復元されたもの。こちら側は堀がなかったため防備を固める必要があったためという。

 やはり兵どもが夢のあと。

2024年2月7日水曜日

~からの、二条城


(正門・東大手門)
(唐門)
(二の丸御殿)
(二の丸庭園)
(清流園・和楽庵から香雲亭方面)

(本丸天守閣跡から比叡山方面)
 六角堂からどこへ向かうか。考えたが、二条城にすることにした。この日の午前、市内をぐるぐるしたのは昼に人と会う約束があったから。

烏丸御池から地下鉄東西線で二条城前へ。押小路通を渡り、すこし上ると東大手門。

現存する二条城は徳川家康がつくったもの(もちろん、その後いろいろと手がはいっている。)。京都御所・洛中の守護等の目的(名目?)で。そのため、京都御所の裏鬼門に立地し、本門も京都御所側に向いている。

二条城を空から俯瞰すると、回の字になっている。中側の口のなかが本丸、本丸と外側の口との間が二の丸である。東大手門を入城すると、二の丸の東側。

二の丸の東側を南→東へ歩くと、北に唐門。門をくぐると、二の丸御殿(国宝)。二の丸御殿はとくに、徳川将軍が偉大に・訪問者が卑小に感じられるように、様々な工夫がなされている。狩野派の障壁画が龍虎や牡丹等の図柄でそれをこれでもかと表現している。

しかし、・・・家康からずっとくだって慶応3年(1867年)、徳川慶喜は、二条城二の丸御殿にて大政奉還。日本史の教科書に図入りで出てきた場面だ。こうして明治になって、皇室の離宮となったので、正式名称は元離宮二条城。

内部は残念ながら撮影禁止なので、お庭からの写真。手前の大きな建物が大広間、左手奥が黒書院。大政奉還が行われた歴史的舞台だ。

二の丸庭園(特別名勝)は別名「八陣の庭」。重森三玲作の岸和田城の庭と同じ名前だが、はるかにスケールが大きいし、趣向もちがう。小堀遠州の代表作といわれ、桃山様式の池泉回遊式庭園。

池に島が浮かび、蓬莱島や鶴亀の意匠がデザインされていて、徳川家の健勝と永遠の繁栄が祈念されている。これほどの願いもむなしく(相当の長期政権ではあったが)、徳川家は先の大政奉還を余儀なくされた。

今年の元旦は、元旦であるだけでなく、一粒万倍日でもあり大赦日でもあった。今年はよい一年になりますようにと皆願ったが、正月早々、大地震や大事故に見舞われた。自然や災害のまえで無力であることをあらためて意識させられた。平穏と健勝を願いつつも、日々あることに感謝しつつ謙虚に生きるほかあるまい。

本丸に入り、天守閣跡に登る。高いところとあれば、登らざるをえない。天気は快晴。京都の街が一望できた。東北=牛寅=鬼門の方角を望むと、東山三十六峰の北鎮に比叡山を遠望することができた。きょうも延暦寺が仏法の力(鬼滅の刃)で、鬼からわれわれの生活を守ってくれていることだろう。

2023年7月6日木曜日

どうする家康?

 


 『どうする家康』をめぐる議論がかまびすしい。「あれはちがう。」「歴史はそうじゃない。」などと訳知り顔でコメントする人がおおい。そうなんだろうか?

最初に断っておくけれども、NHKファンでもないし、松潤ファンでもない。どちらかといえば嫌いといってもいい(ただし、NHKの一部の山番組を除く。)。

『どうする家康』は松潤主演の大河ドラマ。脚本は古沢良太。

先日、有村架純が演じる瀬名(築山殿)が自刃した。瀬名は、敵である武田勝頼に内通し、それが織田信長にバレて自刃をせざるをえなくなったといわれる。「あれはちがう。」と言われている問題は、この内通の理由。

一般には、家康と瀬名の子である信康に所領(天下)を与えるという密約があったとされる。しかるに、本ドラマでは、信長の覇権主義による戦乱の世がつづくことを嫌い、隣国との信頼・互恵関係による平和社会(というユートピア)の実現をめざしたという筋立てになっている。

「あれは歴史とちがう。」と断じている人たちの論拠は、山岡荘八や司馬遼太郎だろうか(一次資料を読んでいる方がいたら、ごめんなさい。)。自分で読んだわけではないので申しわけないのだけれども、おそらく山岡荘八の小説は前者で書かれているのであろう。ひょっとしたら、司馬遼太郎もそのような説を書いているのかもしれない。

しかし、ウィキを読むかぎり、この問題の決めてとなる一次資料は存在せず、江戸期の文献がおもな典拠のようである。そのため、歴史家の間では「築山殿殺害の謎」として諸説いりみだれている。

そもそも大河ドラマは文字どおりドラマである。ドラマとは演劇・芝居すなわち劇のことである。歴史に忠実に描かなければならないという制約はもともとないはずである。

山岡荘八や司馬遼太郎の小説だって、歴史そのものではなく、歴史を素材にして彼らの見立てや思想・見解が語られていることはみな承知のはずだ。

しかしここにきて、『どうする家康』は歴史とちがうと声高にいう人が多いのはどうしたわけか?

1つは、アンチ松潤派ということが考えられる。築山殿問題だけでなく、あわせて彼の演技を問題にする人が多い。ネットで主張している人たちのバックグラウンドは知らないが、ぼくの回りはそんな感じだ。ジャニーさんの問題もあり、アゲンストであることは確かだろう。

2つは、アンチNHKの空気もあるだろう。旧N党の存在だけでなく、一般の家庭における受信料をめぐる最近の攻防が影響していることはあるのではなかろうか(ぼくがNHKが嫌いなのは彼らの取材態度の横着さが原因だ。)。

3つは、いちばん気がかりなのだけれども、築山殿の考えが憲法の平和主義と通底していることに反発しているのではないかということ。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。かかる憲法前文の考えは、築山殿の思想と共通するものである。

築山殿の崇高な理想は、残念ながら、勝頼の俗物根性により裏切られた。残念無念。

しかし、家康が江戸幕府を開き、265年間におよぶ天下泰平の世を築いたのは、瀬名の平和主義の影響を受けている。こう「解釈」をしても、許されないということではあるまい。

いままたウクライナ戦争の渦中。どうする家康?の問いかけは、どうする日本人?という問いかけとしてわれわれの前に提出されている。そう考えたとしても、なんら不都合はないと思われる。

2022年1月25日火曜日

武隈の松-玉鬘の旅


 きのうBS-NHKで映画『関ヶ原』をやっていた。岡田准一が石田三成で主役。徳川家康は役所広司。ま、岡田准一と役所広司の喧嘩だ。

役所広司はNHK大河『徳川家康』の織田信長役で強烈な印象を受けた。キレッキレな信長で頭の上から声をだしているような感じ。その役所が徳川家康か~。タヌキぶりがすごい。

そういえば、岡田くんも、NHK大河『軍師官兵衛』で黒田官兵衛をやっていたなぁ。役者はあっちの役をやったりこっちの役をやったりできて、いいなぁ。ま、弁護士も似たようなものか。

岡田くんはそういえば先ごろ、映画『燃えよ剣』で土方歳三をやっていたなぁ。共通点は、どれも司馬遼太郎作品が原作ということだな。

さて、長谷寺に行ったので反芻旅行のため、『源氏物語』の「玉鬘」の段を反芻読書しておこうと思った。もちろん、原文ではなく、『謹訳 源氏物語 四』林望訳・翔文社刊で。

「玉鬘」の前に、「薄雲」「朝顔」「少女」の章段がある。「薄雲」前半は、大井邸に移り住んだ明石の君が幼い娘ひとりを京の二条邸に引き渡すかどうか煩悶し、ついに娘を送りだすくだり。

『おくのほそ道』は漢詩や古歌、そして『源氏物語』などを俤にして書かれているけれども、『源氏物語』もまた多くの古歌を下敷きとして書かれていることがよく分かる。先人の業績をふまえたり、先人の創造した美しいイメージを借りて自己の作品をより美しくするというのは創作に不可欠な作業なのだとあらためて感じ入る。

ついに娘を送り出すくだりを引用する。

 ちょうど片言をしゃべるようになった娘の、その声はたいそうかわいらしい。
 車に乗ると、姫は母君の袖を掴んで、
 「ねえ、乗って、いっしょに」
 と、その袖を引く。母君は、この声を聞くと、もはや涙もせきあえず、

 末遠き二葉の松に引き別れ
 いつか木高きかげを見るべき

 (まだ二葉ほどの幼い松のような姫、これから先長い人生が待っている姫に、今ここで松の根を引くように、引き別れてしまったら、いったいいつ、この姫松が大きな木になったところを見ることができるのでしょう)

 御方は、この歌を最後まではとうてい詠じ切れず、途中から激しくせき上げて泣いた。源氏はそれを見て、〈それはそうであろう、ほんとうにかわいそうに〉と思って、

 生ひそめし根も深ければ
 武隈の松に小松の千代をならべむ

 (こうして親子に生まれてきた、その前世からの因縁も根深いことだから、あの名高い武隈の親松と、この小松とがいずれは千代の長きにわたって一緒に暮らす時もまいりましょう)

 どうか、気を長くもって過ごすのだよ」
 せめては、そう言って慰める。
 昔、藤原元善は、陸奥の守となって下向した時に、武隈の松が枯れてしまっているのを見て、改めて小松を植えたことがあった。やがて任果てて上京の途次、再びこの松を見て、「植ゑし時契りやしけむ武隈の松をふたたびあひ見つるかな」という歌を詠んだと伝えられる。
 源氏は、こんな故事を引きごとにして、いずれは親子いっしょに暮らせるようにしたらいい、と、明石の御方の心を引き立てたのである。

引用が長くなってすみませぬ。さらなる引用で恐縮だけれども、『おくのほそ道』の武隈の段はこう。

 岩沼に宿る。
 武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失はずと知らる。まづ能因法師思ひ出づ。往昔、陸奥守にて下りし人、この木を伐りて名取川の柱杭にせられたることなどあればにや、「松はこのたび跡もなし」とは詠みたり。代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形整ほひて、めでたき松の気色になんはべりし。

 武隈の松見せ申せ遅桜

と、挙白といふ者の餞別したりければ、

 桜より松は二木を三月越し

こうしてつなげてみると、歌枕というものがよく分かる。ただの松、しかも先人が見たものと同じ松ではないけれども、それでもかまわない。あるいは伐り、あるいは植え継ぎしてもかまわない。それに依って先輩歌人や歌そのものを召喚し、自らの歌心を呼び覚まし鼓舞してもらえる場所やモノが歌枕なのだ。

2021年8月25日水曜日

福井ー夕顔







 福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、黄昏の道たどたどし。
 ここに等栽といふ古き隠士あり。いづれの年にか江戸に来たりて予を尋ぬ。遙か十年余りなり。いかに老いさらばひてあるにや、はた死にけるにやと、人に尋ねはべれば、いまだ存命してそこそこと教ふ。
 市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔・へちまの延へかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそを隠す。さてはこの内にこそと、門をたたけば、詫しげなる女の出でて、「いづくよりわたりたまふ道心の御坊にや。あるじはこのあたり何某といふ者のかたに行きぬ。もし用あらば尋ねたまへ」と言ふ。かれが妻なるべしと知らる。
 昔物語にこそかかる風情ははべれと、やがて尋ね会ひて、その家に二夜泊まりて、名月は敦賀の港にと旅立つ。等栽もともに送らんと、裾をかしうからげて、道の枝折りと浮かれ立つ。

 福井駅の西口をでると駅前に恐竜広場。そこから北に行くと福井城跡があります。徳川家康が縄張りをし、江戸時代・越前松平氏の居城跡ですが、天守閣は残っていません。

そこから南に商店街を抜けると、北の庄の城跡があります。柴田勝家の居城跡です。ここはもう石垣の跡が残っているだけです。写真中央に柴田勝家像がちいさく見えています。

福井駅から越美北線で東に向かうと5つめに一条谷駅があります。しばらく歩くと一条谷で、朝倉氏の居館跡などがあります。『麒麟が来る』で、長谷川博己がユースケサンタマリアの世話になったところです。

それぞれ、戦国時代に朝倉→柴田(織田)→豊臣→徳川の各大名が興っては滅びた兵どもが夢の跡です。

勝家の北の庄城跡からさらに南に足羽川をわたり、すこし行くと左内公園に着きます。幕末の志士、橋本左内の墓があります。越前は松平春嶽をはじめ、明治維新の原動力になりましたが、薩長土肥に比べ影が薄いですね。

芭蕉が世話になった等栽の家は、この左内公園にありました。「市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔・へちまの延へかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそを隠す」とあったものの、いまは子どもの遊具になっています。

芭蕉の描写は、源氏物語の夕顔の段を俤にしています。

「かの白く咲けるをなむ夕顔と申し侍る。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になん咲き侍りける。」と申す。
 げにいと小いへがちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひてむねむねしからぬ軒のつまなどに這ひまつはれたる・・むかしの物語などにこそかかる事は聞け、といとめづらかに・・・

関西が近づいてきたせいでしょうか、須賀川の栗斎などとちがい、隠士といっても、等栽はずいぶん関西テイストです。

左内公園にいま等栽の家のあとは残っていませんが、芭蕉の句碑はあります。

 名月の見所問ん旅寝せむ

句碑もおしゃれ、名月のデザインです。

さて本日もクイズ、本日の投稿にあきらかな誤りがあります。どこでしょう?