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2021年12月22日水曜日

シンクロニシティ

 

 西鉄都府楼駅をおり、北側にいくとすぐ都府楼前駅の交差点だ。左折すると御笠川に刈萱大橋が架かっている。

交差点を直進して御笠川をわたると日田街道である。T字路を左折して150メートルくらい行くと左側に「刈萱の関跡」がある。

水城堤防はいまJR線や高速道路に寸断されている。しかしかつてはここしか通り道がなく、関所になっていた。刈萱の関である。大宰府への入口であり、出口でもある。

 かるかやの関守にのみみえつるは人も許さぬ道べなりけり

道真公の歌にも歌われている。大宰府に左遷され都へ戻れぬ現実を、ここで強く感じられたことだろう。

もちろんいま関所はなく、黒い大理石の碑がひっそりとたつのみである。うちの秘書さんもこのちかくに住んでいるけれども知らないのではなかろうか。

太宰府観光協会のHPによると、「刈萱道心と石童丸」の伝説でも有名とある。有名といわれても、そもそも刈萱の関を知る人がすくないのであるから、この伝説を知る人も多くはあるまい。

さてこのブログを読んでくださっているかたにはうっすら記憶があるかもしれない。この間のブログの流れはこうである。

①講演をたのまれ和歌山へ出張した。
②出張ついでに、翌日は槙尾山・施福寺に、翌々日は道明寺・道明寺天満宮にそれぞれ参拝した。
③道明寺参拝の旅の記憶を反芻するために、道明寺がでてくる『菅原伝授手習鑑』を反芻読書した。
④『菅原伝授』は日本文学全集10のなかの一話である。つづけて同書の『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』も読んだ。

さらに『曽根崎心中』(いとうせいこう訳)、『女殺油地獄』(桜庭一樹訳)を読み、つづけて説経節(伊藤比呂美訳)を読んでいる。

小学館の『日本国語大辞典』によると、説経節は説教浄瑠璃で語られる曲節。説教浄瑠璃は語り物の一種。

仏教の説教が歌謡化し、江戸時代初期に流行した民衆芸能とある。ラジオやテレビのない時代、民衆の娯楽、楽しみだったのだろう。

説経節として知っていたのは『小栗判官』だったけれども、本書にとりあげられていたのは『かるかや』。これがまさしく先の「刈萱道心と石童丸」の伝説である。

刈萱道心はもと、筑前の国、刈萱の荘、加東左衛門重氏。重氏は松浦党の総領。松浦党は武士の大集団、筑後、筑前、肥後、肥前、大隅、薩摩の6か国をおさめていたという。

筑前の国、刈萱の荘といわれると思考停止する人が続出すると思うけれど、なんのことはない、先の「刈萱の関跡」あたりである。そこにいまでいえば、福岡高裁の長官が住んでいたと思えばそれほどおおきな間違いではあるまい(ただし重氏はいまだ21歳)。

人はいつ、どのようにして発心(ほっしん)するのか。それを書いたものが『発心集』らしいが、いまだ読んだことはない。重氏は、花見の宴で、桜が盃のなかにはらりと落ち、くるくる回ったのを見て発心したという。

発心した重氏は領地も家族も捨てて出家した。家族には妻、3歳の娘のほか、妻のお腹のなかの男の子もいた。男子が石童丸である。

出家した重氏は刈萱道心と呼ばれ、京都の法然のもとで修行にはげんだ。13年経って妻子が尋ねてくる夢を見、対面を避けるため高野山に逃れた。高野山は女人禁制であり、妻が追ってこられないからである。・・・

「刈萱道心と石童丸」らの苦難の人生は佳境に入っていくのであるが、その前にいまでいえばCMのようにして、高野山の説明がながながとなされる。なんの話だったか忘れそうである。

と思っていたら、高野山をひらいた弘法大師空海が剃髪・出家した話がでてきた。その場所がどこあろう、槙尾山なのだ。

槙尾山か、懐かしいな。と思っていたら、まてよ、空海が剃髪した場所・・・たしか施福寺の坂の途中にあったよな。参拝したときの写真を検索するとたしかにあった。

まず愛染堂(上の写真)。またの名は弘法大師剃髪所跡。空海が得度して剃髪したとされる。つぎに弘法大師御髪堂(下の写真)。空海の剃髪した髪が祀られている。

かくて和歌山出張の旅は→槙尾山・施福寺→道明寺→『菅原伝授』→日本文学全集10→説経節『かるかや』→弘法大師剃髪所跡→槙尾山・施福寺という円環をなして、みごと完結したのでありました。

2021年12月14日火曜日

古市古墳群訪問記

 






 槙尾山の翌日は、古市古墳群を訪れた。大阪平野の中央部に、百舌鳥・古市(モズ・フルイチ)古墳群がある。堺に百舌鳥古墳群、羽曳野市・藤井寺市に古市古墳群が分布している。

4世紀後半から6世紀前半にかけて、この地域に古墳が200基も作られた。2年前に世界遺産に登録されている(1番上の写真)。

200基もあるので、とても一日ではまわれない。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)のある百舌鳥古墳群のほうが有名であろう。が、道明寺や葛井寺にも寄ってみたかったので、古市古墳群のほうをまわることにした。

JR天王寺から近鉄阿部野橋に向かう。近鉄南大阪線に乗り、古市で降りる。藤井寺、土師ノ里、道明寺、どこからでもまわれるのであるが、たまたま急行が先発だったので古市で降りた。

古市は羽曳野市だ。羽曳野の名は古代の英雄ヤマトタケル(日本武尊)に由来する。死後、白鳥となってこの地に舞い降り、天高く飛び去ったようすが「羽を曳くが如く」だったという(古事記、日本書紀)。

古代の官道である竹内街道が市内を東西に貫いている。源平合戦などで源氏というときは、河内源氏のことをいうが、ここは河内源氏・頼信の本拠地でもある。

駅前を西に向かう。白鳥の交差点を南に折れ、竹内街道を西に折れる。入口に「日本武尊御陵参拝道」の石柱がたっている(2番目の写真)。

まもなく白鳥陵古墳。先のヤマトタケル伝説から羽曳野市の名前の由来となったもの。住宅地のなかにあり、のどかだ(3番目の写真)。

日本最初の歴史書は古事記と日本書紀。8世紀初めに編纂された。それより前は歴史ではなく、中国の魏志倭人伝などの断片的記載を除き、口承や考古学の時代である。

ヤマトタケルが活躍した時代を西暦に機械的に換算すると1世紀らしい。白鳥陵古墳が築造されたのは古墳時代中葉だから5世紀ころか。300~400年のズレがある。

古事記や日本書紀が編纂された時代からみて300年前のことである。われわれからみて江戸時代中期の話である。よく分からないというのがほんとうのところだろう。

白鳥の交差点まで戻り、北(市役所方面)へ向かう。左手に墓山古墳がある。ミズナラだろうか、茶色く黄葉している(4番目の写真)。

さこから北東をめざすと誉田御廟山古墳がある。実際の被葬者は明らかでないが、またの名は応神天皇陵だ。

外濠部が畑に浸食されたりしていて測るのが難しいが、墳丘長は約420メートル。大仙陵古墳に次ぐ大きさであり、日本第2位の大王陵である。大きすぎて、ドローンでも飛ばさないかぎり、地上からでは一枚の写真におさまりきれない(5番目の写真)。

写真はかろうじて前方部の一角(北西角)が写っている。奥の方、後円部ははるかかなただ。右奥は二百名山の金剛山。前方部は山を指している。まるで、山をめざせという指示アイコンのようだ。

さらに北に行くと古村(室)山古墳がある(6番目の写真)。誉田御廟山古墳は柵があって立入禁止だったが、こちらは立入自由で公園になっている。親子が球技をして遊んでいる。被葬者もこのほうが毎日楽しいのではなからろうか。

そこから西に行くと、岡ミサンザイ古墳(7番目の写真)。これも実際の被葬者は明らかでないが、仲哀天皇陵に治定されている。

仲哀天皇はヤマトタケルの子、また神功皇后の旦那さまである。そのため、香椎宮に祭られていたりして、九州ともご縁がある。

2021年12月13日月曜日

槙尾山・施福寺参拝記

 








 講演の日は東岸和田のビジネスホテルに泊まった。駅周辺は様変わりしている。この辺りはむかし、父が勤めていた会社があったところだ。新日鉄の耐火レンガをつくる会社だった。

父の会社が東岸和田にあったため、高校2年までは岸和田で暮らした。オイルショックによる需要減退のため、大阪にあった事業所の半分くらいを閉鎖することになり、岸和田の事業所は閉鎖された。

2つ隣の泉佐野にも事業所があったので、高校3年時はそこ(日根野)で暮らした。父は一足はやく九州へ単身帰った。

それがなければ関西の大学を受験し、別の人生を歩んでいただろう。結局、九州の大学を受験し、以後、こんにちまで九州で暮らすことになった。

 講演の翌日は槙尾山に登り、施福寺を参拝した。小中学生のとき、3度ほど訪ねたことがある。一度は山中で道に迷った。人生初の山道迷いである。

厳しい山道・坂道を登らないと参拝できない。西国三十三所の4番札所である。西国三十三所めぐりはわが国初の終活ツアーだそうである。中興の祖は花山法王。花山法王もこの山中で道に迷ったらしい。

ありがたいことに諸仏は撮影可。未来の仏である弥勒菩薩が本尊で中央。左脇侍が十一面千手観音。この観音は札所の本尊である(三十三所は、観音さまの札所めぐりであるので、寺の本尊のほかに、札所の本尊があることが多い。)。

他にも、珍しい方違観音、馬頭観音もいらっしゃる。花山法王が山中で迷われた際、馬頭観音のお導きで寺にたどりついたという。足の神さまである。

展望所からは岩湧山が見えている。寺からはダイヤモンドトレイルといって、岩湧山や金剛山への道がのびている。金剛とはダイヤモンドのことだ。いずれも子どものころ登った懐かしい山々である。

寺をすこし下ったところからは、大阪平野・和泉市街、大阪平野、神戸、六甲山が見渡せた。