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2023年1月29日日曜日

一片の氷に世界を見る(1)

 


 高校時代の同級生がSNSに、氷の写真を投稿した。大雪予報だったにもかかわらず、大阪市内では雪が降らなかった。けれども、氷ははったということだった。

この写真の美しさはどうだろう。氷だけにフォーカスして、背景に広がる大阪市内はボカシている。いつも写真にセンスを感じる。

なにかものを言いたくなったので、「一片の氷に世界を見る(Wブレイクふう)」とだけコメントした。これだけでは意味が分からないかもしれないけれども、くどい説明は嫌味かなと思ったのだった。

すると高校時代の恩師が、解説のコメントをつけてくださった。

To see a World in  a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower
(一粒の砂に世界を見、野の花に天国を見る)
ウィリアム・ブレイク( イギリスの詩人)
補足説明をばさせていただきました。

たしかに、先のコメントだけでは意を尽くしていない。いつも、ご配慮ありがとうございます。

先生のアシストもあり、その後のやりとりも盛り上がった。インターネットの普及により、人間の嫌な面が増幅されるようにもなった。しかしそれまでにはなかった楽しい交流が果たされることもある。利用する側の心しだい。

2022年4月12日火曜日

運命


(四王寺山のヤマブキ、花言葉は気品、崇高)

 きのうの記事で、そのうち書くと予告した九州にきた経緯について書こうと思う。父は黒崎窯業に勤めていたサラリーマンだった。黒崎窯業は新日鉄の溶鉱炉に耐火レンガを供給していた。新日鉄が風邪をひけば肺炎になる関係だった。

会社は大阪にいくつか工場をもっていた。高校2年生のころ、岸和田工場をたたむことが決まった。いま東岸和田のショッピング街になっているあたりだ。

岸和田工場で働いていた人たちは大阪に残るか北九州へ帰るかの選択になった。多くの人は大阪に残った。その時に決断していれば、父も大阪に残ることになったと思う。

しかしその選択を迫られた時期、父は交通事故で入院していた。そのため、結論を出す時期が半年ほど後ろへズレた。そのころには皆、九州へ帰ればよかったと話をしていたのだろう。父は九州へ帰ることに決めた。

ぼくらが受験期をひかえていたこともあり、父だけ1年早く単身九州へ戻った。これに伴い、それまで関西の大学を受験しようと考えていたぼくも九州の大学を受験することに決めた。運命というほかない。

この選択がなければ、弁護士になったかどうかも分からない。いまの事務所に入ることはなかったと思う。山に登るようになったかどうかも分からない。

わが事務所で言えば、故落合弁護士は目的追求型の人生だった。中学のとき、中坊弁護士の生き方にあこがれ、弁護士をめざし、弁護士となった。

運命というとかっこよいが、目的追求型の人生に比べると、状況に流されているだけと言えるかもしれない。そういう生き方もあってよかろう。

先日の春研修で、Yさんがわが事務所に入ることになったのは運命だと言っていた。Yさんは大学卒業後、他の職種・職場で働いていた。いまひとつ働きがいを感じられないでいたらしい。

同じ大学、同じ部活の先輩がわが事務所の職員だった。その先輩からわが事務所のよい評判を聞いていたという。あるとき、部活の飲み会が開かれ、参加した。その際、先輩の言葉を思い浮かべた。

家に帰って、何気なくわが事務所を検索したところ、新事務員を募集していた(数年ぶりのことである。)。応募期限まで残すところ1日という瀬戸際だった。これに応募したところ、厳しい試験に合格することができた。運命だという。

ちなみに、わが事務所の採用試験はわりと厳しい。筆記試験はもちろん、面接試験のハードルが高い。一般の企業・事業所であれば、採用担当者数名との面接であろう。

うちの場合、20名全員との面接が必要であり、全員の承諾が必要である。事務局も全員参加する民主的運営であるから。

まずは4つのブースに分かれて、それぞれのブースの面接をクリアしなければならない。20人くらいの受験者のなかから、3人にしぼる。

その3人で再度、全員の面接を受ける。採用するほうもたいへんだが、受験するほうはもっとたいへんである。それを突破したときの嬉しさといったらなかろう。

ぼくが九州に来ることにならなければ、いまの事務所に入ることはなかった。わが事務所もいまのようではなかった可能性が高い。そうなると、Yさんの運命も、ぼくが九州に来ることになった1978年(昭和53年)に決まったといえるかもしれない。

2021年12月14日火曜日

古市古墳群訪問記

 






 槙尾山の翌日は、古市古墳群を訪れた。大阪平野の中央部に、百舌鳥・古市(モズ・フルイチ)古墳群がある。堺に百舌鳥古墳群、羽曳野市・藤井寺市に古市古墳群が分布している。

4世紀後半から6世紀前半にかけて、この地域に古墳が200基も作られた。2年前に世界遺産に登録されている(1番上の写真)。

200基もあるので、とても一日ではまわれない。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)のある百舌鳥古墳群のほうが有名であろう。が、道明寺や葛井寺にも寄ってみたかったので、古市古墳群のほうをまわることにした。

JR天王寺から近鉄阿部野橋に向かう。近鉄南大阪線に乗り、古市で降りる。藤井寺、土師ノ里、道明寺、どこからでもまわれるのであるが、たまたま急行が先発だったので古市で降りた。

古市は羽曳野市だ。羽曳野の名は古代の英雄ヤマトタケル(日本武尊)に由来する。死後、白鳥となってこの地に舞い降り、天高く飛び去ったようすが「羽を曳くが如く」だったという(古事記、日本書紀)。

古代の官道である竹内街道が市内を東西に貫いている。源平合戦などで源氏というときは、河内源氏のことをいうが、ここは河内源氏・頼信の本拠地でもある。

駅前を西に向かう。白鳥の交差点を南に折れ、竹内街道を西に折れる。入口に「日本武尊御陵参拝道」の石柱がたっている(2番目の写真)。

まもなく白鳥陵古墳。先のヤマトタケル伝説から羽曳野市の名前の由来となったもの。住宅地のなかにあり、のどかだ(3番目の写真)。

日本最初の歴史書は古事記と日本書紀。8世紀初めに編纂された。それより前は歴史ではなく、中国の魏志倭人伝などの断片的記載を除き、口承や考古学の時代である。

ヤマトタケルが活躍した時代を西暦に機械的に換算すると1世紀らしい。白鳥陵古墳が築造されたのは古墳時代中葉だから5世紀ころか。300~400年のズレがある。

古事記や日本書紀が編纂された時代からみて300年前のことである。われわれからみて江戸時代中期の話である。よく分からないというのがほんとうのところだろう。

白鳥の交差点まで戻り、北(市役所方面)へ向かう。左手に墓山古墳がある。ミズナラだろうか、茶色く黄葉している(4番目の写真)。

さこから北東をめざすと誉田御廟山古墳がある。実際の被葬者は明らかでないが、またの名は応神天皇陵だ。

外濠部が畑に浸食されたりしていて測るのが難しいが、墳丘長は約420メートル。大仙陵古墳に次ぐ大きさであり、日本第2位の大王陵である。大きすぎて、ドローンでも飛ばさないかぎり、地上からでは一枚の写真におさまりきれない(5番目の写真)。

写真はかろうじて前方部の一角(北西角)が写っている。奥の方、後円部ははるかかなただ。右奥は二百名山の金剛山。前方部は山を指している。まるで、山をめざせという指示アイコンのようだ。

さらに北に行くと古村(室)山古墳がある(6番目の写真)。誉田御廟山古墳は柵があって立入禁止だったが、こちらは立入自由で公園になっている。親子が球技をして遊んでいる。被葬者もこのほうが毎日楽しいのではなからろうか。

そこから西に行くと、岡ミサンザイ古墳(7番目の写真)。これも実際の被葬者は明らかでないが、仲哀天皇陵に治定されている。

仲哀天皇はヤマトタケルの子、また神功皇后の旦那さまである。そのため、香椎宮に祭られていたりして、九州ともご縁がある。

2021年12月13日月曜日

槙尾山・施福寺参拝記

 








 講演の日は東岸和田のビジネスホテルに泊まった。駅周辺は様変わりしている。この辺りはむかし、父が勤めていた会社があったところだ。新日鉄の耐火レンガをつくる会社だった。

父の会社が東岸和田にあったため、高校2年までは岸和田で暮らした。オイルショックによる需要減退のため、大阪にあった事業所の半分くらいを閉鎖することになり、岸和田の事業所は閉鎖された。

2つ隣の泉佐野にも事業所があったので、高校3年時はそこ(日根野)で暮らした。父は一足はやく九州へ単身帰った。

それがなければ関西の大学を受験し、別の人生を歩んでいただろう。結局、九州の大学を受験し、以後、こんにちまで九州で暮らすことになった。

 講演の翌日は槙尾山に登り、施福寺を参拝した。小中学生のとき、3度ほど訪ねたことがある。一度は山中で道に迷った。人生初の山道迷いである。

厳しい山道・坂道を登らないと参拝できない。西国三十三所の4番札所である。西国三十三所めぐりはわが国初の終活ツアーだそうである。中興の祖は花山法王。花山法王もこの山中で道に迷ったらしい。

ありがたいことに諸仏は撮影可。未来の仏である弥勒菩薩が本尊で中央。左脇侍が十一面千手観音。この観音は札所の本尊である(三十三所は、観音さまの札所めぐりであるので、寺の本尊のほかに、札所の本尊があることが多い。)。

他にも、珍しい方違観音、馬頭観音もいらっしゃる。花山法王が山中で迷われた際、馬頭観音のお導きで寺にたどりついたという。足の神さまである。

展望所からは岩湧山が見えている。寺からはダイヤモンドトレイルといって、岩湧山や金剛山への道がのびている。金剛とはダイヤモンドのことだ。いずれも子どものころ登った懐かしい山々である。

寺をすこし下ったところからは、大阪平野・和泉市街、大阪平野、神戸、六甲山が見渡せた。

2021年12月9日木曜日

メトロポリタン美術館展

 


 

 先週末は、和歌山での講演依頼を受けたので、和歌山、大阪を周遊した。新大阪に前泊し、金曜の朝、天王寺にある大阪市立美術館へむかった。

「メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年」を鑑賞するためである。高校の恩師と九州大学の美術教授になった同級生がSNSに投稿していたので、行ってみようという気になった。高校の恩師はまた非常に混雑していたとも報告していた。

NHKみんなのうたに大貫妙子の珍妙で楽しい「メトロポリタンミュージアム」という曲がある。聞いたことはないだろうか。♪赤い靴下でよければかたっぽあげる・・・という、あれである。

メトロポリタン美術館展ははじめてではなく、これまでにもなんどか来日していると思う。コレクションが幅広く多数にのぼり、来日の都度作品にバリエーションをもたせているので、なんど来ても新鮮である。

いまどきだし、コロナ禍でもあるので、ネットで事前に予約・チケット購入ができる。金曜の朝一は9時30分からである。前日、これを予約・購入した。

ホテルで朝食を食べ、天王寺に向かったら8時55分に美術館に着いた。「予約をされていないお客様」の列にはすでに一人待っていただけである。こちらは「予約をされているお客様」の列の先頭であった。

寒い朝だった。順番待ちをしているところからは通天閣が見えた。その後、列はどんどん伸びていった。予約をしていて、よかった。

開館とほぼ時を同じくして和歌山で震度5の地震が発生した(らしい)。和歌山出張を知っていた秘書さんや友人から安否確認が複数きた。

しかし、なんと自身はこの地震に気づかなかった。大阪の震度は2であったし、入館に全集中していたからだ。

普通、美術展では主催者の挨拶や、ルネッサンス芸術とは、バロック芸術とはなどという解説も丹念に読み、学習しつつ鑑賞する。

この日は後ろの時間が切れていた。午後1時から和歌山で講演なので、10時30分には美術館を出て、55分の電車に乗らなければならなかった。

混雑も気になったので、これらはネットで事前に学習して、現地では読み飛ばした。そしてマスターピースを中心に鑑賞した。

どれか一点といわれれば、セザンヌの「リンゴと洋ナシのある静物」を挙げておこう。

中世の絵画はキリスト教カトリックの支配下にあり、キリストの神聖を強調するため、平板かつ非現実的だった。

ルネッサンス以降「西洋絵画の500年」というのは、これをいかに立体的、現実的に表現するかの歴史である。遠近法や光の表現など数々の革新がなされていった。

セザンヌはあまりに革新すぎて同時代人には理解されなかった画家である。人生には苦労したであろうが、画家としての名誉を得ることができた。

彼はピカソ、ブラックらのキュビズムに影響を与えた。キュビズムとは立体派である。彫刻はもともと3次元の立体であるが、絵画は2次元である。2次元の画面に3次元の物体や空間を表現するにはどうするか。

セザンヌはどうしたか。手前の机は斜めっているし、背後の壁は波打っている。遠近法による忠実な描写からはほど遠い。

しかし、中央に並んだリンゴと洋ナシは、なぜか圧倒的な存在感を放っている。手にとって食べられそうだ。いちどご覧あれ。

2015年8月17日月曜日

なぜあの味に惹かれるのか?

 ある日,弁護士4人(ぼく,I,M,Y)でランチへ。
 どの店に行くかなぁ,むかしは二日市にもMSとかMcとかもあったなぁ・・・。
 というところから,ハンバーガーの銘柄選びの話になりました。

 MS派とMc派のまっぷたつに分かれました。
 ぼくとIさんがMS派,MくんとYくんがMc派に。
 よくよく聞くと,Mcはリーゾナブルだからというので,MくんはいちおうMS派のお仲間にいれてあげました。

 YくんはそれでもMcのほうが美味しいというので,味の分からんヤツということになりました(Mcだって,自分ところが経営戦略として「安かろう,味はそこそこだろう」路線をとっていて,味はMSに及ばないことは認めると思いますよ。)。

 つぎの話題は,Yくんだけが,なぜそうなのか?
 みなさん,分かりますか?
 Yくんは,子どものころからよくMcへ家族で外食に連れていってもらっていたらしい。そのためMcの味をおいしく感じるように慣らされてしまったよう。
 Mcの長期ファミリー戦略おそるべし。

 それでは,なぜ,他の3人はそうならなかったのか?(ふつうの味覚のままなのか?)
 まず,Iさん。
 Iさんの家は母親が料理上手で外食なんてしなかったらしい。そのためやはりMcの味に慣らされる余地がなかったようだ。なるほど。

 つぎに,Mくん。
 世代的にはYくん,Iさんとほぼ同じ。それなのに,なぜ?
 答えはMくんの出身地のようだ。信州の北部で,Mcの進出が遅れた。そのため,やはり子ども時代にMcの味に慣らされることがなかったらしい。なるほど。
 
 問題は,ぼく。
 大阪育ちだから,Mcの進出が遅れたわけではなからろう。
 しかし,50代のぼくのばあい,子ども時代にMcなんてなかった。だからMcの味に慣らされる余地がなかった。なんかくやしい。

  こうして弁護士たちは,ハンバーガーに対する嗜好の違いという,どうでもいい謎についても原因を追求し,真相を明らかにしたのであった。
 めでたし,めでたし。

2013年8月25日日曜日

裁判員に選ばれる確率と,素敵なお嫁さんに巡り合う確率


先週末は,
幼稚園時代からの幼馴染みの
結婚式に出席してきました。

大阪はあいにくの雨模様。

それでも,
彼と,そのお嫁さんとなった方の
素敵な笑顔で,
気づいたときには雨雲も
走り去っていました。



さて,
席上,他の友人から,
「裁判員候補者」とかいう通知が来たんだけど…
と相談(?)を受けました。

たしかに,
突然,裁判所から書類が来るというのは,
緊張するものですね。

「裁判員裁判」の制度は
かなり周知されたようですが,
まだ「まさか自分が…」と思う方が
多いようですね。

だいたい
1年間で5000人に一人の割合で
選ばれるといいますから,
確率は決して高いものではないですね。

ただ,今20歳の人が70歳まで生き,
制度が50年後も残っているとすると,
単純計算で100人に一人の
確率になりますから,
あり得ない話でもなさそうです。

(数字はあくまで単純計算です。)


ちょっと大変な出来事かもしれませんが,
選ばれた際には
ぜひ積極的にご参加ください。



ところで,
私の友人が結婚したような
素敵なお嫁さんに巡り合える確率は
どれくらいなのでしょう。

計算は,皆様にお任せして
執務にかかるとします。

それではまた。