2023年6月14日水曜日

笈の小文(3)四時を友とす

 
(旗振山から須磨、明石海峡、淡路島)

 さて、ここからが本論。今回『笈の小文』を読んでいて、気づいた点が2つある。

 まずは、四時を友とすること。

『笈の小文』は読みにくいと書いた。江戸を出て、故郷伊賀を経て、関西各地の歌枕を遍歴する紀行文なので、起承転結、序破急がなく、まとまりがないように感じるのである。

しかし、よく考えればあたりまえなのなのだけれども、季語を華とする俳句をちりばめた紀行文なのであるから、バックボーンは四季である。

そう思って読むと、冬にはじまり、春をクライマックスとして、夏に幕を閉じている。ちゃんと序破急で構成されているではないか。

冬のメインは伊良湖岬における冬の鷹、春のメインは吉野における観桜、夏の〆は須磨における平家滅亡の幻視である。

そう考えて、よくよく読めば、冒頭にちゃんとこう書いてある。

 風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす。

四時とは四季のこと。つまり、四季を友として書いているからよろしく、ということである。

ただし、そうすると大きな問題が残る。お分かりと思うけれど、秋がなくてもよいのだろうか。四季のなかで、秋がもっとも趣があり好きという向きも多い。夏で終わってしまうと、三時しか友にしていないのではなかろうか。

ひとつの考え方としては、わざと書かなかったということ。ヘミングウェイのいうところの「氷山の理論」。いわく。

 もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、氷面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。

さてわれわれは、『笈の小文』を読んで、省略された秋の部分を強く感得できるだろうか。最後の部分、平家滅亡の幻視で文を結ぶ直前の記述はこうなっている。

 蛸壺やはかなき夢を夏の月

 かかる所の穐(あき)なりけりとかや。此裏の実(まこと)は、秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさはいはむかたなく、秋なりせば、いささか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。

月といえば秋。ただ月といえば、秋の月をさす。春の花、冬の雪とともに、秋の月は日本の四季を代表する。しかるに、ここでは夏の月となっている。蛸壺のなかの蛸がみている夢がはかないのは夏の月ととりあわせになっているからである。

「かかる所の穐なりけるとかや。」は『源氏物語』の「須磨」段によっている。いわく。

 須磨にはいとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜夜はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。

 在原行平の歌はこう。

 旅人は袂すずしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風

というわけで、少なくとも昔の文人は、須磨と聞いただけで、行平、源氏、平家滅亡という歴史的・多層的な秋のイメージを思い浮かべることができた。

『笈の小文』のラスト、芭蕉は秋の情景を描いていないけれども、源氏物語や行平の歌のイメージを援用しつつ、須磨の秋の情景を感得するよう読者に促しているのである。

                                   (つづく)

2023年6月13日火曜日

笈の小文(2)椰子の実


  というわけで、『笈の小文』は何度か読んでいたのだけれど、いま一つ浸りきれないと思っていた。芭蕉が自分で書いたものかどうか分からないし、未定稿だし、『おくのほそ道』に比べて地の文が少なく、はなはだ読みにくいのである。

『笈の小文』に出てくる土地々も、『おくのほそ道』に比べると、発句が1句あるきりで地の文がなかったりする。伊良湖崎も、そういう意味で字面では理解しつつも、抽象的な存在であった。

ところが昨年末、恩師がここを訪ねたとSNSに投稿された。そして島崎藤村の「椰子の実」の歌碑も見学されたという。

藤村は『夜明け前』を書いたあの藤村である。藤村の「椰子の実」の歌はこう。

 名も知らぬ遠き島より
 流れ寄る椰子の実一つ
 故郷の岸を離れて
 汝はそも波に幾月
 旧の木は生いや茂れる
 枝はなお影をやなせる
 われもまた渚を枕
 孤身の浮寝の旅ぞ
 実をとりて胸にあつれば
 新なり流離の憂
 海の日の沈むを見れば
 激り落つ異郷の涙
 思いやる八重の汐々
 いずれの日にか国に帰らん

先に書いたとおり、伊良湖崎は本州の南端。南の国から鷹も渡ってくれば、椰子の実も渡ってくるのである。もしかすると、アサギマダラも渡ってくるかもしれない。

先日「ブラタモリ」で、種子島をやっていた。種子島には世界最大規模の海流である黒潮が南からやってくる。戦国時代、種子島銃を舶載したポルトガル船がやってきたのも、黒潮に流されてのことだという。

日本には南からいろんなものや文化がやって来るのだ。藤村はそれをきわめてロマンチックに歌っている。

しかしである。藤村はわがことのように歌っているが、実は椰子の実を見つけたのは、学友だった柳田國男である。柳田國男は『遠野物語』を書いたあの柳田國男。藤村は柳田から聞いた話を歌にしたてた。いまふうに言えば、藤村は柳田の経験をパクったのである。しかし、ここまで立派な歌になると、単なるパクリとはいえない。

話を戻すと、恩師の投稿をきっかけに、俄然、頭のなかを鷹や椰子の実やアサギマダラらが行き交い、伊良湖岬という名が生き生きと脈打つようになった。

かくて、旅好きとしては、是非一度尋ねてみたいと思うようになった。『笈の小文』をいま読み返している理由は、そういうことである。

2023年6月8日木曜日

笈の小文(1)伊良湖岬

 
(松本へ向かう飛行機の窓から。中央は伊勢湾、その向こうは太平洋。右側の陸は手前から松坂、伊勢、鳥羽。左側の陸は手前からセントレア空港、知多半島、三河湾の向こうに渥美半島。渥美半島の先端が伊良湖岬)

 芭蕉の紀行文に『笈の小文(おいのこぶみ)』がある。『おくのほそ道』の旅にでかける2年前、江戸から故郷の伊賀へ帰る里帰りの旅である。

里帰りだけでなく、関西各地の歌枕をめぐり、最後は須磨までの紀行文である(実際の旅は、その後、関西の旅、更科紀行の旅を経て江戸に帰るまで続く)。

芭蕉の死後15年も経ってから、弟子の乙州(おとくに)が出版したもの。そのため、分からないことも多い。

未定稿。芭蕉の発句や俳文で構成されていることは疑えないけれども、乙州の手がどの程度入っているのか、編集がなされているのか謎である。

この紀行をいま読み返している。そのいきさつはこう。

『笈の小文』は、冒頭の記述のあと、なぜか、名古屋の鳴海からはじまる。箱根も富士も遠江(浜名湖)も描かれない。

鳴海から、芭蕉は三河の国保美という處に二十五里戻る。保美は渥美半島の先端にちかい。写真でいうと、左上のほう、左から矢のように突き出ているのが渥美半島。その鏃(矢尻)の中央部分に保美はある。

100キロであるから25時間かかる。ナビで検索してみたところ、やはり99.6キロ。一日50キロ歩いても、まる2日かかる行程である。

旅の途中でなぜ100キロも後戻りしたかというと、愛弟子の杜国が罪人としてそこに流されていたから。杜国の罪は米の空売りである。

かれは裕福な米穀商だったが、在庫がないのに売るのは行きすぎ。ある種の詐欺である(現在では、流通が発達しているので、すべてが犯罪というわけではない。先物取引などは、いまだ実在しない商品の売買をあらかじめ行っている)。

「笈の小文」を読めば分かるが、ふたり旅のあいだ、芭蕉はとてもはしゃいでいて、単なる師弟関係以上のものがあったといわれる。恋人が罪をえて失意の底にあるときけば、彼を慰めるのに100キロの道のりもなんのその。

かれらは、伊良湖岬を訪れている。保美からわずか一里ばかり。1時間ほどの行程である。

天武朝の皇族麻績王(おみのおおきみ)は伊良湖に流されている。古くから流刑地だったようだ。その歌。

 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良湖の島の玉藻刈り食す

伊良湖岬は、三河の国の地つづきなのだけれども、万葉集では伊勢の名所に選ばれている。なぜか。写真を見ればわかるとおり、船便なら近いからである。

紀伊半島を度外視すれば、本州の南端に位置している。そのため、秋には南から鷹が渡ってくる。鷹は冬の季語だが、鷹渡るは秋の季語である。

西行の歌がある。伊勢で詠んだという。

 巣鷹わたる伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな

巣鷹は飼育された鷹のこと。臆病なので、木に戻ってしまう。芭蕉らは、麻績王や西行の歌は当然知っていた。

罪人の杜国はもちろん、芭蕉も心細い気持ちだったろう。そこで詠んだ句。

 鷹一つ見付てうれしいらご崎

もちろん、鷹とは杜国のことである。

冬の鷹といえば、吉村昭に同名の小説がある。Amazonの解説によればこう。わずかな手掛かりをもとに、苦心惨憺、殆んど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する・・。

100年後に苦労したこちらの冬の鷹も世渡りが下手だったのだろう。吉村昭の小説は、新潮文庫の100冊に選ばれていたので、読んだのだったと思う。残念ながら、さいきんは選に漏れているようだ。はやらないのだろうか。

                                    (つづく)

2023年6月7日水曜日

はなれてひとつに奏でる-個人的な体験

 
 
 BSーNHKで草刈正雄の「美の壺」を見ていたら、テーマは「宿」。長野で築70年の古民家を利用した宿が伝統と格式ある・・などとやっていた。

ふんふんと思ってみていたが、ちょっと待てよ(キムタクふう)。若いころはそれでよかった。しかし齢64歳になろうかといういま、70年などは自身とほぼおない歳ではないか。それほど昔のことではないぞ!

最近、こういうことが多い。

あるとき、マヨネーズから迷える子羊の話になり、マヨネーズのことをマヨエルという愛称で呼ぶことになった。それはいい。

それで、迷える子羊といえば、もともとは聖書にでてくるのだろうけど、夏目漱石の『三四郎』のなかにも出てくるよね。三四郎はしょっちゅうストレイシープと言っていたよね。と言うも、会話の相手は知らないという。う~ん。

しかたないから、グーグルさんに訊いてみる。YAHOO!知恵袋で、たしかにそうだと書いてある。どうだ~!というも、相手は興味がなさそうだ。

知恵袋によると、漱石は聖書からダイレクトにもってきたのではなく、当時、一部翻訳もして興味をもっていたヘンリー・フィールディングの『トム・ジョーンズ』からひいてきたようなことまで書いてある。おそるべし、知恵袋。

漱石の『三四郎』を読んだことがないという相手に『トム・ジョーンズ』の話をしても、よけいうざがられるだろうと思い、以下自粛。

だが、グーグルさんはさすがだ。ストレイシープの予測変換のリストに「米津玄師」を提案していた。念のため、検索してみた。

そうすると、彼のアルバムに『STRAY SHEEP』なるものがあるらしい。会話の相手は、『三四郎』は読んだことはないけれども、『STRAY SHEEP』は保有しているらしい。俄然、興味をひきつけることができた。最初から、漱石ではなく、米津にいくべきだった(知らなかったけど)。

念のため、YouTubeで『STRAY SHEEP』を聴いてみた。なんと、自分も知っている曲たちだ!娘の車でドライブした際、車中で流れていたものだ。パプリカももちろん含まれている。

エウレカ! That makes sense!

コロナ期間中、やはりBSーNHKで「はなれてひとつに奏でる~奇跡の〝パプリカ”誕生秘話~」という番組をやっていた。NHKの番組紹介をそのまま引用すると、こういう番組。

「リモートでパプリカやってみるか!」コロナ禍の下、楽団員の一人の掛け声が62人の輪となり、奇跡のオーケストラが実現。離れてるからこそ心が一つに、感動の秘話を描く。

この番組にはとても感動した。本ブログでも以前紹介したと思う。

まとめると、マヨネーズにはじまり→迷える子羊→漱石『三四郎』→ストレイシープ→聖書、あるいは『トム・ジョーンズ』などを漂流しつつ→米津玄師→『STRAY SHEEP』→「パプリカ」→「はなれてひとつに奏でる~奇跡の〝パプリカ”誕生秘話~」で結び。

おおげさにいえば、迷える子羊は、迷い迷いの旅をし、感動の結末に至ったのだった。頭のなかでバラバラに存在していたピースたちが一つにまとまった感じ。脳内で快ホルモンでまくりである。

子どものころ、少なくともグーグルさんやYAHOO!知恵袋さんは存在しなかった。そう思うと、70年前は大昔かもしれない。

※写真は台湾の観光地の売店で絵付けをする店番の子。

2023年6月6日火曜日

薬害肝炎九州原告団総会@岡山(2)倉敷美観地区・大原美術館

 



 薬害肝炎九州原告団総会2日目は、倉敷美観地区・大原美術館の視察。

薬害肝炎原告団は、薬害の再発防止策の一環として、薬害資料館の設置を政府に対し求めている。

これまで水俣病資料館やハンセン病資料館などを視察してきた。こんかいは総会が岡山開催となったこともあり、最寄りの大原美術館を視察することにした。

倉敷美観地区にあり、古代ギリシア(イオニア)ふうの外観。近くからはもちろん、路地からでも、目立つ存在である。

倉敷の実業家大原孫三郎が昭和5年に設立、日本最初の私立西洋美術館。館長は高階秀爾氏、理事長は大原あかね氏(孫三郎の曾孫)。マスターピースはエル・グレコの「受胎告知」ほか。

この日、G7・労働雇用大臣会合の会場となっていたため、大忙し(ずいぶん前にアイビースクエアを予約しようとしたらダメだったのは、こういうことだったのか)。

そうしたなか、わが事務所の迫田登紀子弁護士と理事長が一橋の同級生ということで、美術館の理念や歴史を特別にレクチャーしていただいた。筆頭学芸員によるもので、明瞭な解説とはこういうものだというお手本。

大原孫三郎は、一方で、クラボウ、クラレ、中国銀行、中国電力の前身などを創業・社長を務めるなどして大原財閥を築き上げた。

他方、文化社会事業にも熱心に取り組み、大原美術館をはじめ、各種病院や研究所を設立している。今回、美術館がG7・労働雇用大臣会合の会場となったのは、そのような歴史に鑑みてのことだという。

九州の炭鉱王たちも、芸者をあげたりお札に火をつけたりするんじゃなくて、そうした文化社会事業に熱心にとりくんでいてくれたらなぁ。そうすれば、もっと近場で西洋美術に親しむことができたのに。

大原美術館ほどのものとなれば悠々自適と思っていたのだが、そうでもなく、これを引き継いだ歴代はそれぞれ創意工夫しつつ継承されてきたのだなと実感することができた。

美術館視察に先立ち、倉敷美観地区を観光した。集合時間より1時間ほど先に現地に到着したので。

ボランティアガイドのおじさんに案内を依頼。ボランティアといいつつ、500円徴収(いくら支払っていいか分からぬまま最後に謝礼をいただくより、最初から明瞭会計のほうがお客さまのほうも安心できてよいのだとか)。

40代からもう40年もこの仕事をなさっているという。さすがに説明がこなれていて、お上手。各地の観光地から呼ばれ、ボランティアガイドとは?という講演をなさってきたという。

彼からは、美術館側から聞けなかった孫三郎のやんちゃな側面も聞くことができた。人物や歴史は多面的。やんちゃな側面を知って、より孫三郎を尊敬するようになった。

2023年6月4日日曜日

薬害肝炎九州原告団総会@岡山(1)後楽園・岡山城ほか

 




 薬害肝炎九州原告団総会@岡山に参加した。薬害肝炎は大筋解決したものの、薬害教育、薬害資料館建設など再発防止対策などをなお議論している。

なぜ岡山なのか。九州原告団なのだけれども、中国地方にも原告さんがいらっしゃるからである。みなさん、お元気そうだった。

会議は午後からだったので、午前中に岡山入りして観光した。駅前の桃太郎像からして親近感がわく。このところ、サルやキジが身の回りでワイワイしているからだ。

まずは駅前からバスで、後楽園へ。アフターコロナだろうか。団体旅行とおぼしき高齢者や学生でにぎわっていた。

つぎに旭川を渡って、お隣の岡山城へ。岡山は戦国武将・宇喜多直家・秀家以来の城下町。城中、その解説がしきり。インバウンドだろうか、外国人も多数。

その後、県美、市立オリエント美術館をめぐった。県美企画は和田誠展。週刊誌の表紙などを飾るイラストレーターだったが、きょうび、ジブリはもちろん、銀河鉄道999だろうがゲゲゲの鬼太郎だろうが美術館に展示していけないものはなくなった。

市立オリエントはお見それしましたという感じ。一点一点の豪華さでは大英博物館にひけをとるかもしれないが、系統だった学問性は勝るとも劣らないだろう。展示の立派さにくらべ来館者がすくないのが残念。さらなる残念は時間切れ。

昼食は西国街道沿いの昭和レトロなお店で。

2023年6月1日木曜日

100周年記念式典に参加して

 

 顧問先の私立学校が創立100周年をむかえたということで、来賓として記念式典に呼んでいただいた(ひな壇上で緊張した。写真)。

教員、生徒のほか、PTA・来賓など多数参加。体育館のなかは500人くらい。生徒さんたちは代表だけで、あとは教室からオンライン参加。

100周年であるから、創立は100年前の1923年=大正12年である。大正デモクラシーの息吹に呼応したものだったのだろう。学校理念は「人を愛し ひとに愛される人間」。

創立の後、第2次世界大戦、高度経済成長、停滞、情報化、コロナ禍、ウクライナ戦争など政治・社会・経済環境は大きく変化した。

そうしたなか、学業はもちろん、野球・サッカーをはじめとするスポーツや美術・デザインの分野でも活躍されている。今年は受験者数・入学者数も過去最高といわれる。

近年、100年企業という言葉がしきりに言われる。一般企業はその特徴に学べということだが、第一は理念がしっかりしていること。生徒さんたちの笑顔をみて、学校理念の正しさを実感した。

わがちくし法律事務所も来年、ようやく40周年。地域に根ざし、自由と正義に貢献することを理念として活動してきた。100周年を自分で経験するのは難しかろうが、50周年まではなんとか頑張りたいものだ。