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2021年7月28日水曜日

最上川ー大自然のパワー

(最上川@大石田) 

(最上川@米沢)

 最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。ここに古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐり足して、新古二道に踏み迷ふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻を残しぬ。このたびの風流ここに至れり。
 最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼などいふ恐ろしき難所あり。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟危ふし。

 五月雨をあつめて早し最上川

前半は那須野の段や謡曲『遊行柳』を彷彿とさせますね。旅は人生、俳諧の道も旅の道もおなじということでしょう。貞門・談林の古道から蕉風の新道を切り拓いていきつつある芭蕉。おくの細道において俳諧の新道を指導しているぞという、彼の快感・歓喜が伝わってきます。

最上川の源流は、吾妻山・登山記で紹介した吾妻山です。吾妻山に発し、米沢に流れ下り、山形を貫流して、大石田に至ります。日本三大急流の一つ。あと2つわかりますか。富士川と球磨川です。急流は水害とも裏腹で、球磨川の水害は記憶に新しい。

芭蕉は、最上川という大自然のパワーに翻弄・圧倒され、人為の卑小さを痛感したことでしょう。

2021年6月15日火曜日

塩竈の浦





 ・・塩竈の浦に入相の鐘を聞く。五月雨の空いささか晴れて、夕月夜幽かに、籬が島もほど近し。蜑の小舟漕ぎ連れて、肴分かつ声々に「つなでかなしも」と詠みけん心も知られて、いとどあはれなり。

末の松山で、翼を交はし枝を連ぬる契りの木も、つひにはかくのごときと悲しさもまさりていたら、いつのまにか、つぎの歌枕・塩竈の浦に場面転換しています。

事務所旅行で仙台・松島を旅したときにも塩竈の浦ちかくまでは行ったのですが、残念ながら、塩竈湾(千賀の浦)や籬が島までは見学していません。なんというもったいないことを。師匠や河原左大臣に叱られそう。

残っている写真は、湾にほど近い亀喜寿司で食べた寿司の写真のみ。せめて、これをよすがに「肴分かつ声々」を想像してくだされ。

河原左大臣・源融は、すでに触れたとおり、陸奥の致景に惚れ込んで、京都の六条河原院に塩竈の浦を模して庭をつくらせました。現在の渉成園・枳穀邸です。

 河原の院こそ塩竈の浦候ふよ、融の大臣陸奥の千賀の塩竈を、都のうちに移されたる海辺なれば 名に流れたる河原の院の、河水をも汲め池水をも汲め・・・(謡曲『融』)

塩竈の浦の写真はありませんが、枳穀邸の庭の写真はあります。せめて、これをよすがに塩竈の浦を想像してくだされ。

(籬が島)

 わがせこを都にやりて塩竈の 籬が島のまつぞ恋しき 東歌

(塩竈の浦)

 みちのくはいづくはあれど塩竈の 浦漕ぐ舟の綱手かなしも 東歌

この古今集の東歌を本歌として、鎌倉右大臣が詠んだのが次の歌

 世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも

百人一首に採られているのでご存じでしょう。鎌倉右大臣は源実朝、頼朝の次男。鎌倉幕府の三代将軍となりましたが、鶴岡八幡宮で甥に暗殺された悲劇の人です。

百人一首を編んだ藤原定家のお弟子さんですが、東国武士ですから東歌を本歌に東国らしい詠みぶりです。

実朝はいま目のまえに広がる風景(塩竃の浦ではなく、鎌倉なので由比ガ浜か七里ヶ浜あたり)が永遠に続いて欲しいと願いましたが、願いは果たされませんでした。かなしは愛しいという意味ですが、われわれには悲しいと読めてしまいます。

頼朝は、弟の義経に平家を滅亡させ、奥州藤原氏の泰衡に義経を殺させ、さらにその藤原氏を攻め滅ぼして鎌倉幕府を開きます。が、実子はこうして暗殺され、実権は妻の実家にとられてしまいます。ああ無常。

・・・塩竈の浦に入相の鐘を聞く。ごーん。

2021年6月10日木曜日

壺の碑(2)ー千歳の記念

 


東北にあるげなというけれど、どこにあるかは誰も知らない・・。インディー・ジョーンズの失われたアークみたい。

古代の遺跡は年間数ミリずつ土に埋もれていくので、1~2m掘らないと発見できません。発見されたとされるものも、偽物ではないかという疑いがついてまわります。

あの漢委奴国王と刻まれた金印も志賀島のお百姓が畑で発見したといわれているけれど、不自然、怪しい、偽物ではないかみたいな。

多賀城碑も、古代からずっとあったわけではなく、例のプチ・ルネサンスの流れでしょうか、江戸時代初期に再発見されています。それで芭蕉が訪れた際には、これが壺の碑だとされていました。

 壺の碑 市川村多賀城にあり。
 壺の石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔を穿ちて文字幽かなり。四維国界の数里を記す。「この城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。・・」とあり。聖武天皇の御時に当たれり。

あれれ。坂上田村麻呂だったはずなのに、大野東人になっている。年代は桓武天皇の延暦20年(801年)のはずなのに、聖武天皇の神亀元年(724年)。胆沢城(岩手県)のはずなのに、多賀城(宮城県)。どうなってるの?

というわけで、いまでは、多賀城碑は壺の石文ではないとされています。昭和になって「日本中央」と書かれた石が青森県で発見され、そちらが本物なのだそうです(南部壺碑説)。

さて多賀城市は、太宰府市と姉妹都市。東の蝦夷に対する多賀城、西の隼人に対する大宰府政庁という関係だからです。多賀城跡も大宰府政庁跡も昭和になって発掘が進み、いまの姿がみられるようになっています。その前は畑か原野だったのだろうと思います。

ちなみに、多賀城碑を置いたとされる将軍大野東人、芸名のような名前です。彼はその後、藤原広嗣の乱を平定するため、九州、おそらく大宰府まで来ています。多賀城も大宰府政庁も、反乱と服属の歴史的舞台なんですねぇ。

奥州の歴史だけでも、蝦夷vs大野東人、アテルイvs坂上田村麻呂、陸奥の俘囚長安倍氏vs源頼義(前九年の役)、清原氏vs源義家(後三年の役)、奥州藤原氏vs源頼朝(奥州合戦)、伊達政宗vs秀吉・家康、伊達藩vs幕府(伊達騒動)という反抗と服属がいくえにも繰り返されています。芭蕉ははたしてどちら側だったのでしょうか。

ともあれ、江戸時代に芭蕉が見分したのは壺の石文ではなく、多賀城碑でした。歴史によくある皮肉ですが、芭蕉はその偽から蕉風の真実をつかみとっていきます。

 昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといえども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代はれば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、羈旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。

2021年5月13日木曜日

信夫の里・しのぶもじ摺りの石(1)



・・福島に宿る。明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遙か山陰の小里に・・。

福島駅から東に車で20分ほど行くと、遙か山陰に信夫(しのぶ)の里があります。そこにしのぶもぢ摺り石があります。ここも有名な歌枕です。

小倉百人一首に、河原の左大臣の歌が採られています。

 陸奥のしのぶもぢ摺り誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに

河原左大臣は、源融。光源氏のモデルといわれています。紫式部をかわいがった藤原道長がモデルの筆頭ですが、嵯峨天皇の子でありながら臣籍降下し源氏となったこと、彼が建てた河原院が光源氏の邸宅・六条院のモデルと思われることなどが根拠です。

河原院(東六条院)はいまの渉成園(枳穀邸)。東本願寺と鴨川の間にあります。名前からして、昔は鴨川までおよぶ広大な敷地だったのでしょう。

融はここに陸奥の塩竃をモデルとして庭をつくり、わざわざ難波の浦から潮水を運ばせて塩を焼かせたといいます。庭造りの好きなおじさんはいまもいっぱいいますが、その先駆者ですね。河原院は河原左大臣という呼称の由来でもあります。

陸奥の塩竃はあとで芭蕉一行も訪れます。われわれものちほど訪れましょう。

いまの渉成園(枳穀邸)には塩竃がなかったように思いますが、京都の南西にある、在原業平ゆかりの十輪寺で、塩竃を見たことがあります(写真)。

融は河原院がだいすきだったようで、死後も亡霊となって、後の所有者である宇多院のまえにあらわれたという話が宇治拾遺物語にあります。

宇多院「あれは誰そ」
融「ここの主に候ふ翁なり」
院「融の大臣か」
融「しかに候ふ」
院「さはなんぞ」
融「家なれば住み候ふに、おはしますがかたじけなく、所狭く候なり。いかが仕るべからん」
院「それはいといと異様の事なり。故大臣の子孫の、我に取らせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りてゐたらばこそあらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」
と高やかに仰せられければ、かい消つやうに失せぬ。

建物売買の際の告知事項として、その建物内部で人が死亡したかどうかがあります。そのような事情があった場合、心理的瑕疵となり、買主に告知しなければなりません。河原院も融の亡霊が悪さをしていたのであれば、心理的瑕疵の可能性ありだったでしょうね。

また融と河原院を題材にした謡曲『融』もあります。融は本作ではワキ僧を悩ませることもなく、われわれともども美の世界にいざなってくれます。世阿弥作、本来の曲名は『塩釜』。

融は陸奥の塩竃にならって庭造りをするほど、陸奥がだいすきだったようです。ただし、彼の官暦にはたしかに陸奥出羽按察使があるのですが、実際には赴任しなかったのではないでしょうか。

実際に赴任したかどうかはともかく、彼の陸奥に対する愛はひとかたならず、河原院をつくったほか、前記しのぶもぢ摺りの歌を残したというわけです。ようやく歌の話までたどりつきましたが、執務時間となったのでその解説は次回。

2021年5月11日火曜日

安達原・黒塚

 

浅香山で花かつみをさがしあぐね、芭蕉はあきらめて福島に向かいました。途中、二本松より右に切れて、黒塚の岩屋を「一見」しています。

芭蕉は触れていませんが、黒塚については謡曲があります。曲名は「黒塚」もしくは「安達原」です。

熊野山伏の祐慶がワキです。例によって諸国をめぐって修行中、安達原で日が暮れてしまいました。しかたがないので野中のぽつんと一軒家に宿を請います。

あるじの女は薪を採りに山に出かけます。出がけに、決して閨(寝室)を見るなと言い残して。にもかかわらず、山伏の従者が閨を見ると死骸の山。あわてて逃げ出すと鬼女が追いかけてくる・・という話です。

この鬼女伝説はふるく王朝時代にはあったようです。この鬼女伝説をもとにした歌を平兼盛が詠んでいるからです。

兼盛は白河の関で、すでに登場しました。その時の歌はこれでした。

 たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと

百人一首にはつぎの歌が採られています。

 しのぶれど色にいでけりわが恋は 物や思ふと人のとふまで

その兼盛には友人がいました。源重之です。重之は藤原実方とも仲がよかったようで、実方が陸奥に下向した際、いっしょに行ったようです。重之も百人一首に歌が採られています、つぎの歌です。

 風をいたみ岩うつ波の己のみ くだけて物を思ふころかな

ふたりとも歌もうまい、女にももてるというライバルどうしだったようです。一方の重之は、父が安達原に土着し、たくさんの妹がいました。これを知った兼盛がひやかしに詠んだのが次の歌でした。

 陸奥の安達原の黒塚に 鬼こもれりといふはまことか

兼盛がこんな歌を詠んだのは、重之の妹たちに下心があったことはもちろんでしょうが、ふたり共通の認識として鬼女伝説がすでに存在したからです。

兼盛による「まことか」という質問に対する答えが謡曲の「黒塚」「安達原」という趣向になっています。「まことだよ」ということです。

子どもが小さいころ、「みるなのくら」という絵本を読み聞かせていました。福音館書店刊、おざわとしお再話、赤羽末吉画の美しい絵本です。

ある貧しい若者がうぐいすの声に誘われて山奥に迷い込み、美女がもてなす。その屋敷のくらを見るなと言われたにもかかわらず、男は見てしまう・・。

再話というからには、いまもそのような伝説が残っているということです。いまも昔も、女に見るなと言われて、それを守れた男はいません。見るなと言われると条件反射的に見てしまう、男はそのようにDNAにプログラムされているのです。

昔話「鶴の恩返し」もそうです。昔話は、「見るな」と言われたのに見ると怖い目にあうよという、男に対する教えなのでしょうか。むしろ、バカな男に「見るな」と言っても無駄だよという、女子に対する教えではないでしょうか。あはは。

李白・杜甫や先輩歌人たちには言及していますが、芭蕉は謡曲にはまったく触れていません。なぜでしょう。じぶんが謡曲中の諸国「一見」の僧そのものであるとの認識だったからでしょうか。

2021年4月27日火曜日

みちのく入り、異世界の初め

(阿武隈川支流・釈迦堂川) 


ともかくも、とかくして白河の関を越え行く。ついにあこがれの未知の国、みちのくへ。いままでとは異なる宇宙と世界が広がっています。

阿武隈川。大きな熊に遇うからあふくま川なのだとか。那須岳の北・旭岳に発して白河に下り、福島県中通りを北上して宮城の海に流れ行きます。東北の大河はなぜみな北上するのでしょう。北へのあこがれをかきたてます。芭蕉一行もこの流れに沿って北行します。

左に会津根高し。会津根は会津磐梯山、1816メートル。美しい姿が登りにこいよと呼びかけてきます。右に岩城・相馬・三春の庄。振り返れば、関東の常陸(茨城)・下野(栃木)の地をさかひて山が連なっています。

飛鳥が影を映すと古書に記されている影沼といふ所を行きました。けれども残念ながら、今日は空曇り、物影は映りませんでした。みちのくの初めから、不易(阿武隈川、会津根などの自然・宇宙)と流行(影沼)に出会う芭蕉なのでありました。さらにどのような異世界・宇宙との出会いが待っているのでしょうか・・。

2021年4月25日日曜日

遊行柳(4)


同行がトミーであるせいか、謙虚に学べと口うるさく繰り返してしまい、最後には老馬にまで学べとまで言ってしまいました。これがほんとうの老馬心、もとい老婆心でしょうか。

さて芭蕉が学ぼうとする諸先輩のうち最上の先輩は西行です。かれは武士出身で法師となり歌人であったばかりか、なにより旅人だったからです。おくのほそ道の有名な冒頭にも、西行を筆頭とする古人へのリスペクトはあきらかです。

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり・・。

その西行もしばし立ち寄ったという遊行柳。昔の人の申し置きしは、鳥羽の院の北面、佐藤兵衛憲清出家し、西行と聞こえし歌人、この国に下りたまひしが、頃は水無月半ばなるに、この川岸の木の下に、しばし立ち寄りたまひつつ、一首を詠じたまひしなり(能『遊行柳』)。

 道の辺に清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ

これを受けて、おくのほそ道の遊行柳の段。

清水流るるの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。この所の郡主戸部某の「この柳見せばや」など、をりをりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳の陰にこそ立ち寄りはべりつれ。

そして、一句を詠じたまひしなり

 田一枚植ゑて立ち去る柳かな

西行の立ちどまりつれをひきつぎ、立ち去って物語を完成させる芭蕉なのでした。

さあ、これでみちのくへの旅の準備は万全です。鏡のまえで装備の点検をする必要もありません。いざ出陣、もといいざ出発。