2013年3月25日月曜日
天城越え
東京出張のついでに
天城山に登ってきました。
新装なった東京駅から
新幹線こだまで三島まで。
三島から伊豆箱根鉄道で
修善寺へ(泊)。
翌朝,河津行きの東海バスで
下田街道を天城峠まで。
途中,湯ヶ島,浄連の滝
などを通過。
バスの運転手は話し好きで
カワヅサクラはもう終わりですなどと。
そうか,早咲きで有名なあの
カワヅザクラは伊豆の河津の桜なのか。
下田,河津など伊豆の南部と修善寺,湯ヶ島など北部は
中央を東西によこぎる天城連山にさえぎられています。
天城連山が一部切れたたところを
結ぶのが天城峠(標高830m)。
1904(明治37)年に
旧天城トンネル(天城隧道,標高710m)が開通。
さらに昭和の車社会になって(1970年)
新天城トンネルが開通しました(標高650m)。
天城山縦走の出発点は
この新天城トンネル北入口にある天城峠バス停。
バス停からひと登りして
旧天城トンネル。
カラオケ画面で有名な天城隧道は
こちら。
そこからさらにひと登りして
天城峠ということになります。
天城山にのぼるにあたり
たしょうの予習はしました。
まずは川端康成の
『伊豆の踊子』(1926年)。
修善寺,湯ヶ島から天城峠を越えて下田に向かう
旅芸人と道連れになった青年の淡い恋を描いたもの。
つぎは松本清張の
『天城越え』(1959年)。
これは逆に下田から湯ヶ島へ家出しようとした青年が
修善寺からきた女性と道連れになり…。
そして石川さゆりさんの
『天城越え』(1986年)。
♪あなたと越えたい
天城越え~。
もちろん松本作品は川端作品を踏まえていて
『天城越え』の歌詞も松本作品を踏まえています。
あらためて先行2作品を踏まえて
歌詞を吟味するとなかなか深い世界がひろがります。
かくて旅の出会いを期待したのですが
会えたのは…。
(つづく)
2011年11月30日水曜日
天城越え
(江ノ島からみた伊豆半島~箱根・富士山)
修繕寺といえば、一度いきました。
もちろん山登りのため。天城山に。
なんの用事だったでしょうか東京で会議を終え
新幹線に乗り込み、三島まで。
そこから伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り換え
修善寺へ。
すでにとっぷりと暮れていたので
素泊まりの宿を確保し、とりあえず近所で食事。
駿河湾だったか相模湾のほうだったか
地物の魚がおいしい。
弘法大師、源氏、漱石らの史跡がありますが
すでに暗いし明日にそなえ、そうそうに温泉に入り早寝。
翌朝はバスで旧天城街道を南下し
湯ヶ島をへて天城峠バス停まで。
手前に浄連ノ滝がありますが
時間の関係でおしくもパス。
天城越えは、この天城峠を越える旅路のこと。
伊豆市から河津町へ。
石川さゆりさんの歌、川端康成の『伊豆の踊子』や
松本清張の『天城越え』の舞台となっています。
『伊豆の踊子』はなんども映画になっていますが
われわれにとってはなんといっても百恵ちゃん。
温泉から出てきて手をふるハイライト場面は
若き日の川端康成でなくとも心を奪われたことでしょう。
いまの道路では新トンネルしか通過できませんが
トンネル入口の左手から山道をのぼると旧トンネルがあります。
カラオケで歌っていて画面に出てくるのは
こちらの旧天城トンネルの方。風情があります。
天城峠はそれからさらにきつい山道を
のぼったところです。
そこから稜線にそって小岳、万三郎岳、万次郎岳へ
天城山といっても、その名の山はなく、これらの集まり。
最高峰の万三郎岳でも1,406mで
九重山より低く、なだらかな山容です。
でも自然がほんとうに豊かで楽しいコース
頭のなかをずっと「天城越え」が流れていました。
♪ 隠しきれない移り香が
いつしかあなたにしみついた…
2011年11月29日火曜日
三四郎はそれからいかに門を出たか?
『門』夏目漱石著(新潮文庫)
をなぜか再読。35年ぶりぐらいか。
なぜ再読することになったのか
思い出せません。歳だ~。
再読しようと積ん読していたら
他の本に目うつりしてしまい、気づいたら時間が経過…。
その結果、なぜ再読することになったのか
わからないまま再読。
夏目漱石の前期3部作の掉尾を飾る作品
(のはず)
三浦しをんさんが『三四郎はそれから門を出た』(ポプラ社)
と、うまくタイトル化しているとおり。
でも正直、『三四郎』、『それから』を読まずに
これだけを再読するとなんのことやらという感も。
過去については略奪愛を示唆するのみで
詳しい記述はありません。
現在については叔父夫婦との間の遺産問題、弟の扶養問題など
せいぜいが気がかり程度の事件が生起するだけ。
崖の上のポニョならぬ大家さんとの親交といった伏線を
ひろっていくうち、ついに略奪愛の被害者・安井との対決か!?
とおもいきや、主人公・宗助は問題の解決をもとめて
禅寺の「門」をくぐる。
しかし、そこで宗教的な解決が得られるわけでもなく
娑婆に戻ると、安井は蒙古へと帰ったあと。
かくて危機は回避され、宗助夫婦に春が訪れ
「本当に有難いわね。漸くの事春になって」(妻・御米)。
よかない!宗助もそう思ったのか
「うん、然し又じき冬になるよ」で幕。
対決を回避し、時間による解決に身をゆだねる
このような手法はわれわれの実務ではよくおこなわれます。
しかし、小説としては
どうなん?
『門』が緊張を回避し、このような微温的な解決になったことにつき
漱石の体調悪化が取りざたされています。
われわれがとる解決方法も体調に左右されることがあるので
このような指摘も一定あたっているのでしょう。
(もちろん、いや、あれはあれでいいんだ!
という漱石擁護派の方もいらっしゃいます。)
漱石が『門』を書く際にモデルとした寺は
鎌倉の円覚寺とされています。
ところが、漱石自身がその後むかったのは伊豆の修善寺
そこで大吐血し生死の間を彷徨う危篤状態に(「修善寺の大患」)。
この時、一時的な「死」を体験したことは
その後の作品に影響を与えることとなったとされます。
漱石は後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』
へと立ち向かっていきます。
病気にかぎらず、われわれもいろいろな問題に遭遇して
人生の門をくぐらざるをえません。
それは人生である以上
避けられないものです。
問題はそこからいかに出るか
出てからなにをなすか、ではないでしょうか?
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