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2025年3月5日水曜日

ある相続・遺産分割事件(解決)

 

 ある相続・遺産分割事件が解決した。長くかかった。

 被相続人は、依頼人Aの父である。母はすでに亡く、兄弟姉妹が1人Bである。

 長くかかった原因の1つは、この父が3度婚姻し、それぞれの婚姻(前妻、前々妻)について子がいたためである。前々妻の子が1人C、前妻の子が2人DEである。依頼人からみて、CDEはいわゆる腹違いの兄弟姉妹である。つまり、相続人はABCDEの5人である。

 腹違いの兄弟姉妹のことを、民法は「父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹」と定義している。CDEはこれにあたる。依頼人AとBは「父母の双方を同じくする兄弟姉妹」である。民法は、父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分について、父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の2分の1とすると定めている。

 その結果、相続分はA2/7、B2/7、C1/7、D1/7、E1/7となる(分数が苦手だと、ここでつまづいてしまう。ついてこれるかな?)。途中でEがDに相続分を譲渡したので、相続分はA2/7、B2/7、C1/7、D2/7となった(ややこしや)。

 長くかかった原因の2つは、遺産の内容が変化したからである。当初、不動産は被相続人の単独占有という前提で協議をしていたところ、途中で共有持分であることが判明した。たくさんある遺産のなかの一部であるとはいえ、当職の確認もれである(ここには書けない事情もあった。)。

 長くかかった原因の3つは、依頼人が途中で怪我をし入院されたからである。社会の高齢化にともない、このような事象が増えている。退院後も、松葉杖をつきながらの打合せでたいへんである。

 長くかかった原因の4つは、他の相続人の意向により、他の相続人の意向が変化したことである。当初は要らないと意向を表明していた人が、他の相続人が要ると表明したことを知って、それなら自分もいるという具合である。

 長くかかった最大の原因は、前妻の関係の相続がからんできたことである。相手方は別途解決を望んだが、当方は同時解決を希望した。この調整に手間取った。

 遺産分割協議終了後も、遺産を換金するのに時間がかかった。当職らが作成した書類について、まず法務局の不動産登記はすんなり受け付けてもらえた。しかし金融機関や証券会社はなんやかやと主張し、なかなか換金に応じてくれなかった。

 以上の諸要因により、長くかかった。長くかかったが無事解決することができた。めでたし、めでたし。

2022年4月25日月曜日

唐津墓参


  日曜は母たちと墓参。いまは唐津市に編入された相知町坊中というところまで。唐津市街から南へ10キロメートル入ったところである。

坊中というぐらいだから、盆地というか谷のなかにある集落である。過疎化が著しい。こんかいは、遺産として承継した山林などの処分もかねている。

父方の長男の長男として相続したものの、処分する費用のほうが高くつく物件である。それでも動かそうとするとあちこちから異議がでて、きょうまで持ち越してきた課題である。

弁護士にしても当事者となると、このありさまである。全国には、このようにして解決できない相続案件が無数に存在するのであろう。

北には岸岳山がそびえて・・・標高300メートルくらいだろうか。四王寺山より100メートルくらいは低く、やや傾いだテーブル状になっている。

山には城跡がある。歴史は古い。平安時代943年、源久は賊をほろぼした功で、松浦郡を与えられたという。久は源(渡辺)綱の曾孫。綱は、光源氏のモデルの一人とされ、百人一首に和歌もとられている源融の子孫である。

その子・源持(たもつ)が1150年岸岳城を築いた。そして波多姓を名乗った。持は1159年保元の乱の際に戦死した。波多氏は17代続いた。岸岳城(17代波多守親)は豊臣秀吉の怒りに触れ、1594年に滅ぼされた。九州の片隅ながら、最初から最後まで、中央の戦乱と無縁ではいられなかったようである。

秀吉による虐殺の記憶は地元に残り、心霊スポットとして有名である。姫落としなどという「名所」もある。佐藤愛子の『神様のおめぐみ』に「岸岳城奮戦記」として紹介されている。むかしは坊中側から登れたようだが、いまは北波多側に登り口があるらしい。

たくさんの紫の花が遠望された。ヤマフジかと思ったら、桐の花らしい。従兄弟からおしえられた。桐は生長がはやく二酸化炭素をたくさん吸収するため、カーボンニュートラルとして注目されているらしい。これら顧問先社長からの受け売りだ。

墓参後は母方の実家でくつろぐ。コロナ後ひさびさ。従兄姉たちも集まってくれた。昔話に花が咲く。記念撮影も楽しい。話題はお約束どおり、祖父が手がけた事業の数々に及ぶ。

唐津には唐津炭田と呼ばれる大小の炭鉱群があった。近代以降、良質な石炭を産出した。坊中の辺りは、芳谷炭鉱があり、三菱が採掘していた。

伯母らの話によると、多くの炭鉱労働者が住み着き、煌々と灯りがついていたらしい。祖父はかれらを相手に質屋を営んでいたらしい。

母方の伯父2人が戦死している。阿武隈という巡洋艦、朝霧という駆逐艦に乗船していた。話題はロシアによるウクライナ侵略へと及び、戦争の悲惨さ・愚かさをしみじみと語ってくれた。

2018年12月21日金曜日

遺産分割事件(解決)


(信州中の湯温泉付近でサルの親子)

 遺産分割事件が解決しました。

 中小企業団体の知合いのご紹介でした。
 相談者は高齢で,ご自分で協議や交渉をすることが困難なようでしたので,その場で受任することにしました。 
 
 被相続人は今年はじめにお亡くなりになりました。
 遺産は約1億円です。

 配偶者,子はなく,ご両親も亡くなっておられました。
 このような場合,兄弟姉妹が相続人になります。

 被相続人をのぞく兄弟姉妹は5人でしたが,うち3人は亡くなっていました。
 そのうち,1人には3人の子(被相続人からみて甥姪になります。)があり,あと2人には子もいませんでした。
 まとめると,被相続人の兄弟が2人,亡くなった兄弟の子,つまり甥姪が3人でした。
 このような場合,兄弟2人がそれぞれ3分の1,甥姪が3分の1の3分の1で,それぞれ9分の1の相続分となります。

 受任と同時に相手方に,本件は弁護士が一切の交渉権限を受任したので,なにか連絡があったら弁護士を通して欲しい旨の受任通知をおくりました。

 ご依頼を受けたときは,遺産について,金融資産(預貯金,生命保険等)がどことどこ,不動産があのあたりくらいの情報しかありませんでした。そのため,金融機関への照会や,地図・図面・不動産登記簿謄本の取り寄せなどの調査から開始しました。

 こちらが弁護士に依頼したためと思われますが,相手方兄弟も弁護士に依頼されました。そして遺産の目録が送付されてきました。当職の調査結果とほぼ一致しました。

 あとは特別受益や寄与分などの話がなければ,法定相続分どおり分割することになります。この場合,金融資産ごとに分割するのは煩雑なので,相手方がすべての遺産を取得し,当方は代償金として現金を受け取ることにしました。

 遺産分割といえば家庭裁判所で協議ときめてかかる人もいますが,兄弟で仲よく話し合って解決することができれば,家庭裁判所は必要ありません。本件も話合いで解決することができました。

 ほとんど調印直前になって,当事者の1人が亡くなりました。数次相続といいます。が,考え方はおなじです。亡くなったかたの相続人らで,その件の相続はあとで話し合おうということにしていただいたので,やきもきしましたがそこは紛争化しないで解決をすることができました。

 あとすこし残務が残っていますが,年内に解決の道すじをつけることができて,ほっとしています。

2013年6月16日日曜日

エンディングノート





(ドウダンツツジ@涌蓋山)


かなり時間がたってしまいましたが,先日
心配ごと相談員の先生がたの勉強会がありました。

ときどきは外部講師にお願いして
公正証書や年金の話などの勉強もします。

その日は,わが事務所の迫田弁護士に依頼して
エンディングノートの話をしてもらいました。

相談員の先生がたは
熱心に質疑されていました。

エンディングノートにおおくの先生が
関心をもっておられるようでした。


みなさんエンディングノートをご存知ですか?
もともとはある方の実話に基づくものです。

余命を宣告されたその方はエンディングノートを
手立てに精一杯生きようとされました。

それが映画になり
いろんな人に知られるようになりました。

迫田弁護士も自身の工夫を加えた
自家製エンディングノートを携えてきました。


エンディングノートは,自分の死後
家族へ向けたメッセージです。

いわゆる遺言のばあい
遺産の処分になりがち。

遺言書には,財産関係のこと以外にも
自分の思いなども書いてかまいません。

しかし書式の制約から
思う存分書くことがむずかしい。

エンディングノートであれば
紙数の制約を気にせず書き足すことができそう。


たほう,自分史の出版というのも
いちぶのかたは取り組んであります。

これはこれで逆に一定のボリュームと
筆力が必要です。

しかしながら,一般の人にはそのような
筆力も時間もちょっとということがおおいでしょう。

エンディングノートであれば,筆力も必要なく
空いた時間にちょこちょこ書けそうです。


そう。つまり,エンディングノートは遺言書と
自分史の間を埋める存在ですね。


ちょっと興味をひかれた方は
いちど迫田弁護士の話をきいてみてください。

こんしゅうの木曜に
以下の市民法律講座が予定されています。


  6月20日(木)19:00~20:30
  太宰府市いきいき情報センター2階208号

  費用:無料
  対象:どなたでも(定員36名,先着順)

  無料市民法律講座 第12回
  高齢者をめぐる「ほ~(法)」律講座

  ~エンディングノートをつくりましょう~
  これからの人生も自分らしく送れるように

2013年2月28日木曜日

遺産分割のルール変更?





きのうは朝刊を読んでいて
血圧がどーんとさがってしまった。

1面の中央に(西日本新聞)
こんな見出しの記事がでていたからだ。

「婚外子の相続は半分」規定
違憲判断の公算大,最高裁。


相続のとき,遺言がなければ
法律が定めた割合で遺産を分割することになる。

これを
法定相続分という。

子が2人いる夫婦で,夫が亡くなれば
妻が2分の1,子らが4分の1ずつとなる。

このときさらに夫と非婚の女性との間に子がいれば
婚外子と呼ばれる。

いわゆる嫡出でない子(非嫡出子)
である。

これに対し,結婚した夫婦の子は
嫡出子である。

民法上,非嫡出子の相続分は
嫡出子の半分とされている。

結婚による家族をまもる
趣旨とされる。

だが,生まれた子に罪はない
それなのに差別扱いなのだから問題だ。

これまで,なんども平等原則違反=違憲だとして
チャレンジされてきたが,ことごとく退けられてきた。

それが今回,小法廷の審理から大法廷へ回付
されるのだから,見直される公算が大きいというわけだ。


さて,この記事を読んでなぜ
血圧がどーんとさがったのか。

ちょうどいま似たような事件をかかえ
解決まぢかになっていたからだ。

相続人が20人とおおく,苦労して
ひとりひとりの了解を得てきた。

そのケースでもおおくの人の相続分が
他の人の相続分の2分の1なのだ。

ほぼ全員の了解を得て
あとは家庭裁判所で調停するだけ。

そんなときに,相続のルールが
変更されそうなのだから,あわてた。


しかし,ちょっと考えて
ほっとした。

似た事案だけれども
違う事案だから。

本件は夫婦に子がなく,夫の両親も亡くなられ
兄弟姉妹が相続人となっているケース。

そのうち2人の兄弟は夫と母もおなじだけれども
他の兄弟は母がちがう。

いわゆる腹違いの兄弟
と呼ばれる関係である。

この場合,母を同じくする兄弟に対し
母を同じくしない兄弟の相続分はやはり2分の1。

本件はこちらのほうの事案であった。
なので,今回の判例の見直しとは事案がちがう。


オリンピックをはじめスポーツの世界でも
ルールの変更が試合の帰趨におおきな影響をおよぼす。

法律の世界も
おなじだ。

まして試合途中で
ルールが変わってしまうと,あわてる。

たとえいい方向に
変わったとしても。

2011年11月29日火曜日

三四郎はそれからいかに門を出たか?



 『門』夏目漱石著(新潮文庫)
 をなぜか再読。35年ぶりぐらいか。

 なぜ再読することになったのか
 思い出せません。歳だ~。

 再読しようと積ん読していたら
 他の本に目うつりしてしまい、気づいたら時間が経過…。

 その結果、なぜ再読することになったのか
 わからないまま再読。

 夏目漱石の前期3部作の掉尾を飾る作品
 (のはず)

 三浦しをんさんが『三四郎はそれから門を出た』(ポプラ社)
 と、うまくタイトル化しているとおり。

 でも正直、『三四郎』、『それから』を読まずに
 これだけを再読するとなんのことやらという感も。

 過去については略奪愛を示唆するのみで
 詳しい記述はありません。

 現在については叔父夫婦との間の遺産問題、弟の扶養問題など
 せいぜいが気がかり程度の事件が生起するだけ。

 崖の上のポニョならぬ大家さんとの親交といった伏線を
 ひろっていくうち、ついに略奪愛の被害者・安井との対決か!?

 とおもいきや、主人公・宗助は問題の解決をもとめて
 禅寺の「門」をくぐる。

 しかし、そこで宗教的な解決が得られるわけでもなく
 娑婆に戻ると、安井は蒙古へと帰ったあと。

 かくて危機は回避され、宗助夫婦に春が訪れ
 「本当に有難いわね。漸くの事春になって」(妻・御米)。

 よかない!宗助もそう思ったのか
 「うん、然し又じき冬になるよ」で幕。

 対決を回避し、時間による解決に身をゆだねる
 このような手法はわれわれの実務ではよくおこなわれます。

 しかし、小説としては
 どうなん?

 『門』が緊張を回避し、このような微温的な解決になったことにつき
 漱石の体調悪化が取りざたされています。

 われわれがとる解決方法も体調に左右されることがあるので
 このような指摘も一定あたっているのでしょう。

 (もちろん、いや、あれはあれでいいんだ!
 という漱石擁護派の方もいらっしゃいます。)

 漱石が『門』を書く際にモデルとした寺は
 鎌倉の円覚寺とされています。

 ところが、漱石自身がその後むかったのは伊豆の修善寺
 そこで大吐血し生死の間を彷徨う危篤状態に(「修善寺の大患」)。

 この時、一時的な「死」を体験したことは
 その後の作品に影響を与えることとなったとされます。

 漱石は後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』
 へと立ち向かっていきます。

 病気にかぎらず、われわれもいろいろな問題に遭遇して
 人生の門をくぐらざるをえません。

 それは人生である以上
 避けられないものです。

 問題はそこからいかに出るか
 出てからなにをなすか、ではないでしょうか?