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2021年7月18日日曜日

尿前の関ー馬の尿する枕もと


   南部道遙かに見やりて、岩手の里に泊まる。小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、やうやうとして関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。

 蚤虱馬の尿する枕もと(のみしらみうまのばりするまくらもと)

 芭蕉一行は旅のクライマックス平泉で、義経主従の鎮魂を行いました。われわれも落合くんの追悼を行いました。平泉の光を際立たせるため、尿前の関の段は暗転します。例によってさんざんな目にあっています。尿前の関は義経の子が尿をしたことにちなむらしい。

ちかごろの博多弁でバリは超みたいな意味ですが(このラーメン、バリうまーみたいな)、ここでは尿のことです。尿前の関は、しとまえのせきと読みます。

おくのほそ道は構成がしっかりしています。これまでずっと北(岩手県・南部地方)に向かって旅をしてきましたが、平泉を折り返し地点として南に転針します。物語全体も起承転結の承から転に転じます。尿前の関は、太平洋側の奥州(宮城県)と日本海側の出羽(山形県)との境です。おくのほそ道も前半・後半の大きな切れ目です。

俳句は連句の発句を独立させたものです。連句は、いくつつなげるかにより百韻とか三六韻とか種類がありました。三十六韻のものを歌の名手三十六人にちなんで歌仙と呼びます。

連句は懐紙に句を書き連ねていきます。懐紙は二つ折りにして表と裏に書きます。歌仙の場合、懐紙を2枚使い、一枚目を初折り、二枚目を名残の折りと呼びます。初折りの表に6句、裏に12句、名残りの折りの表に12句、裏に6句を書いて、合計36句になります。

おくのほそ道の構成は、この三十六歌仙の形式を俤にしています。白河の関が初折りの表・裏の切れ目、尿前の関が初折りと名残りの切れ目、あと新潟と富山の境ででてくる市振の関が名残りの折りの表・裏の切れ目になります。

そしてそれぞれのセクションについてテーマが決まっています。初折りの表が旅の禊ぎ、その裏が歌枕めぐり、名残りの折りの表が宇宙めぐり、その裏が別れ。これで起承転結です。

不易流行でいえば、歌枕は流行、宇宙は不易です。ここからいよいよ不易の領域に入っていくことになります。

宇宙の領域というだけあって、ここから先、句のテーマが大きく永遠になります。宇宙、太陽、月、銀河。スケールが大きくて、すてきな句だらけです。ワクワクします。

芭蕉が岩手県の平泉を通過したのち、この宇宙の領域に入っていくのはとても興味深いです。岩手の宮沢賢治が描いた銀河鉄道に芭蕉一行も乗り込んだかのようです。

2021年7月15日木曜日

平泉(3)-光を求めて

 

(経堂)


(光堂の旧覆堂)


(光堂@新覆堂前にて)

 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠の屏風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢になるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念とはなれり。

 五月雨の降り残してや光堂

光堂は中尊寺金色堂。数字の列挙がリズミカル。そして高館のくだりとの暗/明の対比が鮮やか。

 ・・・功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

かたや時が移るなか草むらとなってしまい、かたやいまも黄金色に燦然と光輝いている。流行と不易。かたや戦の結果、かたや仏教による平和希求の結果。長い長い梅雨の五月雨さえ、光堂を避けて通ったのだろうか。

光堂は柳之御所から北西の山上に光輝いて見えていたという。石の巻の金華山、金鶏山につづき光堂。「光」は奥州藤原三代が祈念して求めた平和の象徴なのでしょう。わが事務所も、五月雨が降り残しますように。

2021年7月14日水曜日

平泉(2)ー夢の跡


 (北上川@高館跡から)


(義経堂@高館跡) 


 まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

 卯の花に兼房見ゆる白毛かな  曽良

北上川、わかりにくいけれど、南部とは岩手県南部地方のことで、写真の左手、北のほうです。そして右手、南のほうへ流れ、モネの登米をへて、石の巻湾に注ぎます。

写真のちょっと左手、支流の衣川が北上川に注いでいます。和泉が城の和泉は、塩竈神社の段ででてきた和泉三郎のことです。最後まで、義経に忠誠を尽くしました。対する泰衡は、三代目秀衡亡きあと、頼朝の圧力に屈して義経を攻め殺してしまいました。

衣川は歌枕です。

 ただちともたのまざらなん身にちかき 衣の関もありといふなり よみ人しらず

衣川の関という言葉は、衣服でへだてていることから、すぐ身近にいながらも男女が関係を結ばないことのたとえとして用いられるようになりました。

これを踏まえて、もう一度、芭蕉の文章を読んでみてください。衣川は、義経に忠実だった和泉三郎の城を巡りて、義経の住まいであった高館の下で北上川に合流していた。これに対し、義経を責め殺した泰衡らの旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えた(どっち向いてんだよ!)。

義経は泰衡軍に攻囲されて、高館で自害して果てました。享年31歳、なんと落合くんと同い歳です。曽良の句にでてくる兼房も義経の義臣。もうだいぶ年で、白毛がトレードマークです。義経の自害を見届け、高館に火を放ち、最後の奮戦をして自害しました。

兼房がなぜ高館に火を放ったのか、なぜその事実が義経記などに特筆されているのでしょうか。敵方の大将や、強い武将はちゃんと死にましたよと世に知らしめることが重要だったんですね。このため世論が納得するよう、京都の六条河原に首をさらしたりしました。

義経は死んでいない、大陸にわたってチンギスハンになったなどという伝説が生まれたのは、兼房が高館を焼いたため義経の死がはっきりしなかったためだったのかもしれません。

芭蕉は触れていませんが、もちろん西行も500年前にここを訪れています。三首。

 とりわきて心も凍みて冴えぞわたる 衣川見にきたる今日しも

 涙をば衣川にぞ流しつる ふるき都をおもひ出でつつ

 衣川みぎはによりてたつ波は きしの松が根をあらふなりけり

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」が杜甫の「春望」から採られていることは、「はなれて奏でる(5)」で述べました。すごくないですか。中国古代の大詩人の詩から、西行の旅と歌、その500年後の芭蕉の旅と句を経て、現代まで。北上川のように、とうとうと流れています。

2021年7月13日火曜日

平泉(1)ー邯鄲の夢


 (平泉・柳之御所跡。背景に金鶏山)

 きのう、わが事務所の仲間であった落合真吾くんの墓参りに行ってきました。平成24年7月12日が命日、31歳でした。お墓を水で浄め、花を捧げ、線香をたき、冥福を祈りました。

かれは、福岡地裁における最初の裁判員裁判を先進的に引き受けるなど弁護士として有能であったことはもちろん、お客さんだけでなく事務所スタッフにも心配りができるなど、すぐれた人でした。ほんとうに惜しい人をなくしました。

当ブログもかれがはじめてくれました。すこしめんどうくさいですが、過去ログを2010年6月17日までさかのぼれば「ブログ始めました。」という照れ気味の挨拶をきけることでしょう。

花を捧げて死者を追悼する人類の行為は1万2,000年前まで遡ることができるそうです。われわれはなぜ死者を追悼するのでしょうか。

おくのほそ道の旅の大きな目的の一つは、悲劇の死をとげた義経、奥州藤原氏らを弔うこと、すなわち鎮魂にありました。ようやくその目的地である平泉に到着しました。

 三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。

清衡、基衡、秀衡と三代つづいた奥州藤原氏の栄耀栄華もあっという間、夢のよう。一睡は一炊。お能に『邯鄲』というのがあります。学校でも「邯鄲の夢」もしくは「邯鄲の枕」という言葉を習ったと思います。人の栄枯盛衰は所詮夢にすぎないという言葉です。

ある若者がわずかな畑を耕すだけの人生に疑問を抱き、田舎をでて都をめざして邯鄲に。そこで出会った導師に夢が叶う枕を授けられました(魔法のランプのよう)。枕をつかって眠ると、みるみる出世、名声をえ、嫁をもらい、ところがえん罪を受け、自殺をしようとしたり、波瀾万丈の人生を送り、そして死にました。ふと目覚めると、寝る前に火にかけた粟飯が炊き上がりました。かれは導師に「人生の栄枯盛衰すべてを見ました。ありがとうございました。」と礼をいい、故郷に帰りました。とさ。

 さて夢のあひだは粟飯の、一炊のあひだなり  『邯鄲』

秀吉の辞世の歌も、これを踏まえているのかな。

 露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢

大門の跡は一里こなたにあり。奥州藤原氏の栄華はすさまじく、門から屋敷まで4キロメートルもあったというのです。

ジェームス・ディーンがでていた『ジャイアンツ』という映画だったと思いますが、都会出身のエリザベス・テーラーがテキサスの大富豪のところへ嫁入り。門から屋敷まで車でぶんぶんとばしてもなかなかた辿り着かないシーンがありました。門から屋敷までの距離は、どれだけたくさんお金をもっているかを示すバロメーターになるようです。

芭蕉のころ、秀衡が跡は田野でしたが、いまは柳之御所跡として整備されています。金鶏山はいまも残っています。写真の小山がそうだった記憶ですが、もしかすると高館のある小山だったかもしれません(平泉の旅は夢のようだったので、そこのところの記憶がはっきりしません・・)。

栄耀栄華が一睡の夢だとしても、山は最後まで残る。やはり山に登らねば!強引?いやいや人為に対する自然、不易流行の考えにもとづく見解です(笑)。

2021年7月5日月曜日

あたらしい歌枕・登米


(モネの睡蓮@ビュールレ展)

  思ひかけずかかる所にも来たれるかなと、宿を借らんとすれど、さらに宿貸す人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道迷ひ行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などよそ目に見て、遙かなる堤を行く。戸伊摩といふ所に一宿して、平泉に至る。その間二十余里ほどとおぼゆ。

思いがけず石の巻に来て、宿を借りようとしたけれども借りられず、平泉にむけて出発したけれどまた道に迷い、袖の渡りなどの歌枕には行き損ねたらしい。またまたほんとうでしょうか。

ここも『曽良随行日記』によれば、事実と異なっていて、実際はそれなりのもてなしを受け、道迷いもなかったらしい。芭蕉がこのように旅程を困難に暗く書いているのは、念願の目的地である平泉や金色堂をより光かがやかすためであるとされています。

芭蕉は『笈の小文』で、紀行文とは何かについて、こんなことを書いています。

 抑、道の日記といふものは、紀氏・長明・阿佛の尼の、文をふるひ情を盡してより、餘は皆俤似かよひて、其糟粕を改る事あたはず。まして淺智短才の筆に及べくもあらず。其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどといふ事、たれゝもいふべく覚侍れども、黄奇蘇新のたぐひにあらずば云事なけれ。

小・中学校のときに、日記の書き方について、先生から指導されたとおり。朝起きて、顔洗って、歯を磨いて、ご飯を食べて、着替えて・・・ということを書いてもしかたがない。なにかしら新しいことや興味あることを書かないと、面白くないし意味がないというわけです。

 されども其所ゝの風景心に残り、山館・野亭のくるしき愁も、且ははなしの糧となり、風雲の便りともおもひなして、わすれぬ所ゝ跡や先やと書集侍るぞ、猶酔者の妄語にひとしく、いねる人之譫言するたぐひに見なして、人又亡聴せよ。

とは言っても、いろいろと旅の思い出などを書き連ねるので、フィクションと思って話半分に聞いて欲しい。なるほど、分かりました。

松島から平泉まで、姉歯の松、緒絶えの橋、袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の萱原という5つの歌枕がありましたが、全部スルー。各歌枕の地元の観光協会としてはさぞかし悲憤慷慨でしょう。

「昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代われば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみ」(多賀城碑の段)なので、歌枕を尋ねる気力が失せたのでしょうか。

そして歌枕をスルーして遙かなる堤を行く。遙かなる堤は北上川の土手です。そして芭蕉一行は、戸伊摩(といま)といふ所に一宿しました。

戸伊摩って、どこか分かりますか。いまの登米町(とよままち)です。登米って、どこか分かりますか。いまのNHK朝ドラ『おかえりモネ』で、主人公の百音ちゃんが夏木マリの家に下宿して森林組合の職員として働いているところです。

百音ちゃんは、いま気象予報士めざして勉強に励んでいます。ひとつまえの石の巻で、日和見(観天望気)の話をしましたので、うまいぐあいに響きあっています。

モネちゃんは百音と表記されていることから、音と関係が深いのでしょう。主題歌はBUMP OF CHICKENの「なないろ」です。なないろは、もちろん虹の色でしょうが、百音ともひびきあっているのでしょう。

歌を歌った場所が歌枕だとするなら、登米は最新の歌枕じゃないでしょうか。♪闇雲にでも信じたよ きちんと前に進んでいるって・・それでもいい これはぼくの旅

ということで、道迷いしながらも、芭蕉の旅は念願の平泉に至ったのでした。パチパチ。

2021年7月4日日曜日

こがね花咲く・石の巻

 

 十二日、平泉と志し、姉歯の松・緒絶えの橋など聞き伝へて、人跡まれに、雉兎蒭蕘の行きかふ道そことも分かず、つひに道ふみたがへて石の巻といふ港町に出づ。「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。

芭蕉一行は、松島から平泉をめざしました。途中、姉歯の松、緒絶えの橋などの歌枕を尋ねようとしたものの、道に迷ってしまい、あやまって石の巻についてしまったというのです。ほんとうでしょうか。

『曽良随行日記』によると、実は迷ってはいないらしい。ではなぜ真実のとおり書かなかったのか。人から、姉歯の松はどうでした?緒絶えの橋はどうでした?と訊かれたときに、道に迷いましてな・・・というかんじでしょうか。

ともあれ、芭蕉らは石の巻にある日和山にのぼったらしい。日和山は漁港であればたいがいどこにでもあり、観天望気(天気予報)をするために登る小高い山です。日和見主義とかいうばあいの日和見です。

そこから、まず「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山が見えたといいます。この歌を詠んだのは、松島夜泊で予告した大伴家持です。

大伴家持は、西鉄を毎日走っている旅人の子で、万葉集を編んだといわれています。この歌を詠んだ当時は、越中の国司(富山県知事)。おくのほそ道の後半、奈呉の浦を訪れたときにまたまた登場する予定です。

家持が歌を詠んで奉った相手は聖武天皇。当時、奈良の大仏を建立の途中でした。そして、仕上げのお化粧をする黄金が手に入らないなあと困ってありました。

するとなんというグッドタイミング、奥州のほうから黄金が見つかっりましたぞ~と献上されてきたのでした。

いまの大仏さまを見て金でコーティングされていたといわれてもピンときませんが、光背や脇侍を見ればいまでも金キラキンです。

黄金の献上を祝して元号は天平から天平感宝へ変更。家持の歌もこれを祝したものです。もちろん万葉集歌。

 すめろきの御代栄えむとあづまなる みちのく山に黄金華咲く

芭蕉は『野ざらし紀行』『笈の小文』の旅で奈良をたびたび訪れ、二月堂のお水取りにも参加していますが、大仏についての記述はありません。芭蕉の美的感覚にあわなかったのかなあと思いましたら、当時は松永久秀(吉田剛太郎@麒麟が来る)が焼いてしまって復興まえだったよう。

奥州の黄金は、奥州藤原氏の繁栄の源泉でもありました。平泉の金色堂は奥州で金が産出されていたことの象徴です。芭蕉があえて道迷いしたわけは、平泉をまえにこうした効果をだすためだったのかもしれません。

金華山は恐山、出羽三山とともに奥州三霊場の一つ。三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはないそうです。

ところがなんと、金華山は石の巻からは見えません。金華山は牡鹿半島の東北に位置していて、半島にじゃまされて見えないのです。それを心の目で見てしまう、いや見えてしまったほうがより効果的、芭蕉はそう考えたのでしょう。

「金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。」という部分は、やはり舒明天皇の万葉集歌を本歌ないし俤にしていますかね。

 大和には群山あれどとりよろふ、天の香具山登り立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ、海原は鴎立ち立つ、うまし国ぞ蜻蛉洲大和の国は

ところで石の巻は石ノ森章太郎の故郷です。いまの人なら『仮面ライダー』、ぼくらの世代なら『サイボーグ009』の作者。石の巻→石ノ森、めちゃ覚えやすいです。

古代のみならず現代のヒーローをもうみだした石の巻、とりわけお金に困らなくなる金華山、道迷いしてでも行きたいところです。

2021年5月26日水曜日

はなれて奏でる(5)


  「おくのほそ道」の有名な冒頭

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

よく言われるように、李白の詩「春夜 従弟の桃花園に宴するの序」を下敷きにしています。  

 夫れ

 天地は 万物の逆旅なり

 光陰は 百代の過客なり

ここから芭蕉が旅へ誘うのに対し、李白はやっぱり宴に誘います。嗜好の違いですからやむを得ません。

 「おくのほそ道」の末の松山の段。

 末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの木も、つひにはかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竃の浦に入相の鐘を聞く。

 これは白居易の「長恨歌」から

 天に在りては願わくは比翼の鳥となり

 地に在りては願わくは連理の枝とならん

玄宗と楊貴妃がモデルで、永遠の愛を誓う言葉。比翼連理という四字熟語になっています。ただし、いまの若い人に言っても、怪訝な顔をされるでしょう。

 これもまた有名な平泉の段。

 さても、義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 これは杜甫の「春望」から。

 国破れて山河在り

 城春にして草木深し

 時に感じては花にも涙を濺ぎ・・・

 むすびは、松島とならぶ絶景といわれた象潟の段。

 俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花

西施は中国絶世の美女の名。李白が好んで詩の題材としました。

 ここでは再度、先に紹介した白居易の「長恨歌」から。

 太液の芙蓉 未央の栁

 芙蓉の面の如く 栁は眉の如し

 此に対して如何ぞ涙の垂れざらん

 また蘇軾の「湖上に飲す 初めは晴れ後に雨ふる」から。

  山色空濛として 雨も亦奇なり

  西湖を把って西子に比せんと欲すれば

  淡粧濃抹総べて相宜し

 芭蕉の頭のなかでは、時空をへだてた李白や杜甫とも詩のハーモニーが奏でられていたことでしょう。が、漢詩の素養に乏しいわれわれの頭のなかで、芭蕉ほどにはハーモニーを奏でていないのではないかと心配です。