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2022年6月23日木曜日

ネムの花

 


 この時期雨のなか、福岡市内の街路樹にネムの花が咲く。花を見ると、おくのほそ道・象潟の段を思い浮かべる。そして美女のおもかげに魅かれて鳥海山に登りたくなる。

江山水陸の風光数をつくして、いま象潟に方寸を責む。酒田の湊より東北の方、山を越え、磯を伝ひ、いさごをふみてその際十里、日影ややかたぶくころ、汐風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に模索して「雨もまた奇なり」と・・風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天をささえ、その陰うつりて江にあり・・俤松島にかよひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花


2021年10月13日水曜日

象潟ーおくのほそ道拾遺④

 




 この旅の結びは象潟(きさがた)。芭蕉が松島とともに絶景をうたいあげた地だ。ただ残念なことに、芭蕉が訪れた当時と現在では絶景は絶景でも変化がある。

 朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。まづ能因島に舟を寄せて、三年幽居の跡を訪ひ、向こうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」と詠まれし老い木、西行法師の記念を残す。江上に御陵あり、神宮后宮の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。・・・

 象潟や雨に西施がねぶの花

 象潟や料理何食ふ神祭り 曽良

このあたりは、鳥海山・飛島ジオパークとなっている。日本海を暖流が流れ、北西の季節風が鳥海山に大量の雪を降らせ、川や湧水となって里をうるおすーそういった循環がパークのテーマとなっている。

鳥海山はふるくから噴火を繰り返してきた。山頂周辺には、それが外輪山や新山といった形で残っている。それだけではない。麓にももちろんその影響がおよんでいる。

鳥海山の北に位置する象潟はもともと海だった。そこへ鳥海山が噴火、巨大な岩塊が流れ下り、海に達してたくさんの島ができたという。能因島、弁天島をはじめ九十九島と呼ばれる。芭蕉らはそれらの島々を舟で周遊した。

こちらは駅から徒歩である。駅横に句碑が2種類ある。街のあちこちにネムノキが植栽されている。芭蕉の句によるものであることは言うまでもない。

5分ほどで欄干橋(象潟橋)に着く。芭蕉が舟に乗ったところである。舟をつないだ石も史跡として残されている。芭蕉はこの橋から鳥海山の美しい姿を嘆賞したという。

橋のちかくには熊野神社がある。曽良の句にある神祭りはこの神社の祭りだ。

欄干橋・熊野神社からは能因島より干満珠寺がちかい。5分ほど。寺の旧参道からは九十九島を望むことができる。九州人にとって九十九島といえば長崎だが、東日本人にとってはこちらのようだ。

見てのとおり、200年前の地震で地面が隆起して、いまでは海ではなく陸になってしまっている。それはそれで美しい。

ただこの日はあいにく雨が降ったりやんだりの天気。鳥海山は望めなかった。写真右をよく見ると、虹がでている。虹のむこうには幸せがまっているだろうか、それとも美女が・・。

芭蕉は象潟の絶景を中国の美女、西施にたとえた。JR東日本は吉永小百合を起用し、九十九島への旅を勧めている。吉永小百合が出演するPVは日本の西施が舞っているようだ。

2021年10月5日火曜日

鳥海山登山記(2)


  鉾立にある象潟口登山口を出発し、賽の河原を経て、2時間登ると御浜小屋に着く。小屋裏から西を望むと、鳥海湖がある。深いブルーに輝いている。その奥には月山が遠く裾野をひろげている。西側には庄内平野が広がっている。ちょうど稲穂が垂れ、黄金色に波打っている。その右手は日本海だ。

 この一望で、日本海から冬の季節風が月山と鳥海山に大量の雪を降らせ、その雪解け水が川や伏流水となって庄内平野をうるおし、それがおいしい米を育てていることが分かる。庄内平野の右手前が酒田の町だ。酒田は庄内米を上方に運び、廻船問屋が繁盛した。


 御浜小屋から、扇子森を経て、八丁坂を登り、七五三掛まで1時間余。そこから右手の外輪山コースと左手の千蛇谷コースにわかれる。千蛇谷にいったん下る。雪渓をわたると、あとは山頂手前の大物忌神社まで1時間20分の登りである。中央のギザギザが山頂。山頂部までなだらかな稜線が美しい。紅葉まであとすこし。右上に見えているのは外輪山である。

 大物忌神社で休憩。
 大きな岩がゴロゴロ積み重なるなか、両足両腕を総動員して30分登ると、新山山頂である。2236メートル、東北第2位の高峰だ。雲海のうえに突き出て、まるでナウシカかラピュタな景色が爽快だ。新山は1801年の噴火の際、隆起したもの。火山の歴史からすれば新しく、まだ岩だらけだ。「北アルプスの岩稜よりすごい!」と、登頂した人たちが興奮している。


 新山登頂後は、大物忌神社まで引き返して昼食。そして神社の裏にまわって、外輪山の急坂を登る。きょう最後の登りだ。
 外輪山の稜線からは、東のほう、岩手の山々がのぞめるはずだが、きょうはどこまでもつづく雲海におおわれている。それもまた気持ちがいい。


 外輪山を時計回りに周回する。20分ほどで伏拝岳に達する。いま登ってきたばかりの地元のご夫婦が絶景に歓喜している。独り占めもいいが、感動は共有するとより大きくなる。

 名残りおしいが、ここから川原宿・湯ノ台方面に下山だ。固有種であるチョウカイアザミが咲くことから名付けられた薊坂をぐんぐん下る。心字雪渓を下る必要はなかった。1時間15分で、ようやく河原宿。さらに湯ノ台道を下る。こんなに長い坂だったか。7年前の記憶と照合するが、うまくあわない。30分ほどで下山口の滝の小屋到着。ふう。

 すばらしい一日だった。
 写真では100分の1の爽快さも伝わらないかもしれないが、イメージをひろげてくだされ。

2021年10月4日月曜日

鳥海山登山記(1)

 

 白神岳登山口から五能線を戻り、東能代、秋田で乗り換えて、象潟に泊まった。

ここでもコンビニまで片道20分以上も歩かなければならなかった。コンビニエンスな生活に馴らされてしまって、こういう環境にさえ不便を感じる。もはや山中にこもっての修行など到底かなわない。

 翌日は鳥海山をめざした。ここまで来て、白神岳だけに登って帰るのはいかにももったいないから。

鳥海山は秋田と山形にまたがる日本百名山。標高2236m。日本海からすっくと立ち上がった独立峰。なだらかな稜線が美しい。出羽富士とも秋田富士とも呼ばれる。

遠目には富士山のように美しい円錐形だが、踏み入ると複雑な地形になっている。なんども噴火をくりかえした結果だ。山頂部は1801年に隆起し、いまだ大きな岩が積み重なっている状態だ。

冬に日本海からふきつけるしめった季節風が大量の雪を降らせる。そろそろ初雪が降ろうかというこの季節になっても、山腹のあちこちに雪渓が残っている。

大量の雪は迷惑なだけの存在かというと、そうでもない。恵みももたらす。春になれば雪解け水となり、川や湧水となって里を潤す。米どころ、庄内平野の米はこの水によっている。水がおいしいから米もおいしい。

酒田は江戸時代に「西の堺、東の酒田」といわれたぐらい栄えた(『日本永代蔵』)。廻船問屋が庄内米を上方に運んだからだ。米だけでなく、紅花も運んだ。

鳥海山に登るのは2回目だ。前回は7年ほど前、山形県側から登った。登山口にある滝ノ小屋に一泊。月山を下山して鶴岡から迂回したので、遅い到着だった。同宿に福島大学の労働法の先生とそのお連れ合いがいた。管理人が歌詞カードをもちだしてきて、山の唄を歌った想い出がある。

今回は逆コース、秋田県側から登り、山形県側にくだった。秋田県側の登山口も複数あるが、鉾立にある象潟口を選んだ。

鉾立の地名は九重山にもある。朽網分れから登り、白口岳と立中山の間の峠だ。むかし巻狩りをしたあとらしい。

巻狩りといえば、源頼朝がおこなった富士の巻狩りが有名だ。なぜなら、武士の軍事演習としての意味もあり、頼朝の威勢を示すため70万人が参加したともいうし、曾我兄弟の仇討ちの舞台ともなったから(『吾妻鏡』『曽我物語』)。

鉾立という場所は、サッカーのゴールのようなもの。そこに鉾を立てて、網を張っていたらしい。動物をそこに追い込んで捕まえるのである。魚の追い込み漁のようなものだ。九重や鳥海でもおなじようなことがおこなわれたのだろう。

鉾立はすでに5合目である。降り口である滝ノ小屋もおなじく五合目くらいだから楽そうだが、じつはそうでもない。コースタイムは7時間もある。稜線が長大だからだ。前日の白神岳登山の疲れものこっている。登れるだろうか。

雲ひとつない好天だ。さあ、がんばって登ろう!

2021年8月3日火曜日

象潟(きさがた)


(南に鳥海、天をささへ)


 


(ネムの花)

 江山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責む。酒田の港より東北のかた、山を越え、磯を伝ひ、いさごを踏みて、その際十里、日影やや傾くころ、潮風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山隠る。暗中に模索して「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色また頼もしきと、蜑の苫屋に膝を入れて、雨の晴るるを待つ。その朝、天よく晴れて、朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。まづ能因島に舟を寄せて、三年幽居の跡を訪ひ、向こうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」と詠まれし桜の老い木、西行法師の記念を残す。江上に御陵あり、神功皇后の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。この所に行幸ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天をささへ、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、道を限り、東に堤を築きて、秋田に通ふ道遙かに、海北にかまへて、波うち入るる所を汐越というふ。江の縦横一里ばかり、俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花

 汐越や鶴脛ぬれて海涼し

   祭礼
 象潟や料理何食ふ神祭り 曽良

 蜑の家や戸板を敷きて夕涼み 美濃の国の商人 低耳

   岩上に雎鳩(みさご)の巣を見る
 波越えぬ契りありてや雎鳩の巣 曽良

 文中にあるとおり、象潟は、おもかげ松島に通いて、また異なり。松島は笑うがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり。

東西横綱対決、東の横綱が松島で、西の横綱が象潟。松島は太平洋側のせいか陽、象潟は日本海側のせいか陰です。

芭蕉の格調高き美文も、いずれ劣らぬものになっています。松島「島々の数を尽くして」、象潟「江山水陸の風光数を尽くして」。松島「江の中三里」、象潟「江の縦横一里」、松島「その気色窅然として、美人の顔を粧ふ」、象潟「寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり」など好対照。

「雨もまた奇なり」は蘇軾(蘇東坡)の「飲湖上初晴後雨」、水光瀲灔として晴れてまさに好し、山色空濛として雨もまた奇なりから。略して、晴好雨奇といいます。

呉越同舟という言葉がありますが、戦国時代、呉と越ははげしい戦を繰り返していました。その際、越が呉に献上した美人が西施。呉の王は西施におぼれ、ついには国を滅ぼしてしまいました。美人のことを傾城といいますが、このことです。

この詩は、このあと西湖と西施を比べようとすればと続き、美しい水景色と美しい西施を対比するイメージを導きます(松島も西湖をはぢずとされていました。)。

そして淡粧濃抹総べて相宜しと結びます。雨に煙る景色は西施のうす化粧、キラキラ晴れの景色は濃い化粧。どちらもすばらしく甲乙つけがたいというわけです。

こうして見てくる、雨のち晴だったという芭蕉たちの天気も、蘇東坡の詩にあやかるための文飾なのかもしれませんね。

蜑の苫屋に膝を入れて雨の晴るるを待つたのは、あとで出てくる能因の歌にあやかったものです。

 世の中はかくても経けり象潟の 海士の苫屋をわが宿にして

能因は、海士の苫屋をわが宿にして象潟で三年幽居したというのですが、ほんとうでしょうか。かれは歌のためならなんでもする人だったようです。白河の関で紹介した歌について、有名な噂があります。

 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

 能因はこの歌を作ったものの、じっさいには白河の関に行ったことがなく、そこで旅にでたらしいと噂を流し、家にこもって日焼けをしたうえで、この歌を公表したというのです。あはは。(能因はじっさいには奥州を旅しています。でもこのような噂があったのは、ほかでもそのようなケレン味のある振舞いがあったということでしょう)

「花の上漕ぐ」と詠まれし桜の老い木とあるのは、西行が詠んだとされる次の歌(なにせ、500年前の歌ですから、桜も老い木のはず)

 象潟の桜はなみに埋れて 花の上漕ぐ海士の釣り舟

ネムの木は、夜になると葉が閉じて垂れ下がります。なので、眠むの木。西施の瞳も眠たげだったのでしょうか。もちろん芭蕉も西施に会ったことはなかったでしょうが、ネムの花のようだといわれれば、そんな気がしてきます。花言葉は歓喜。

波越えぬ契りありてやは、末の松山の段で紹介した次の歌を踏まえています。

 君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 清原元輔

岩上を波が越えたかどうかは分かりませんが、芭蕉が訪問した100年後、象潟は大地震で土地が隆起してしまい、潟としての風景は失われてしまいました。芭蕉が信じた大自然の景観さえ、不易ではなかったんですねぇ。

2021年5月26日水曜日

はなれて奏でる(5)


  「おくのほそ道」の有名な冒頭

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

よく言われるように、李白の詩「春夜 従弟の桃花園に宴するの序」を下敷きにしています。  

 夫れ

 天地は 万物の逆旅なり

 光陰は 百代の過客なり

ここから芭蕉が旅へ誘うのに対し、李白はやっぱり宴に誘います。嗜好の違いですからやむを得ません。

 「おくのほそ道」の末の松山の段。

 末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの木も、つひにはかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竃の浦に入相の鐘を聞く。

 これは白居易の「長恨歌」から

 天に在りては願わくは比翼の鳥となり

 地に在りては願わくは連理の枝とならん

玄宗と楊貴妃がモデルで、永遠の愛を誓う言葉。比翼連理という四字熟語になっています。ただし、いまの若い人に言っても、怪訝な顔をされるでしょう。

 これもまた有名な平泉の段。

 さても、義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 これは杜甫の「春望」から。

 国破れて山河在り

 城春にして草木深し

 時に感じては花にも涙を濺ぎ・・・

 むすびは、松島とならぶ絶景といわれた象潟の段。

 俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花

西施は中国絶世の美女の名。李白が好んで詩の題材としました。

 ここでは再度、先に紹介した白居易の「長恨歌」から。

 太液の芙蓉 未央の栁

 芙蓉の面の如く 栁は眉の如し

 此に対して如何ぞ涙の垂れざらん

 また蘇軾の「湖上に飲す 初めは晴れ後に雨ふる」から。

  山色空濛として 雨も亦奇なり

  西湖を把って西子に比せんと欲すれば

  淡粧濃抹総べて相宜し

 芭蕉の頭のなかでは、時空をへだてた李白や杜甫とも詩のハーモニーが奏でられていたことでしょう。が、漢詩の素養に乏しいわれわれの頭のなかで、芭蕉ほどにはハーモニーを奏でていないのではないかと心配です。

2012年7月1日日曜日

ネムノキ by.福岡県筑紫野市の弁護士ブログ



 休明けの月曜はなんだか眠い
 ということでネムノキ(合歓木)。

 ネムノキは,眠むの木
 夜になると葉が閉じることから。

 夜に葉が閉じることから
 夫婦の夜の営みを連想させたよう。

 漢字名の「合歓木」は、中国において
 夫婦円満の象徴とされていたことから。

 梅雨の季節,きれいな花を咲かせています。
 (淡紅色の長く美しい部分はおしべ。)

 その美しい姿や葉の性質からでしょう
 花言葉は,歓喜,胸のときめき。

 一見,南国の花のようですが,古くから日本にも自生。
 その証拠に『万葉集』から。

  昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花
   君のみ見めや 戯奴さへに見よ

             紀 女郎

 戯奴(わけ)というのは
 目下の人を呼びかける言葉。

 年上の人妻・紀女郎が若き大伴家持に贈った歌
 元祖金妻ものでしょう。

 大伴家持が万葉集の編纂にかかわったとすれば
 懐かしくおもって採ったのか,自慢しながら採ったのか?

 すこしくだって
 『おくの細道』から。

  象潟や 雨に西施が ねぶの花

                   芭蕉

 象潟(きさかた)は秋田県の地名
 鳥海山の山体崩壊によってできた景勝地。

 西施(せいし)は古代中国の美女の一人
 芭蕉の時代にも,秋田の女性は美人が多かったのでしょうか?

  ※すみません。誤字のご指摘をいただきました(訂正済み)。
  ご指摘ありがとうございます。

  これも鳥海山に未登が原因と考え
  ぜひ近いところで登りたいと決意をあらたにしました(笑)。

         ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳